ラブコメの始まりは君じゃなかった


 誰かとぶつかった衝撃と、ぶちゅっと柔らかい何かが唇に触れた瞬間。その時、誰かが「あ」と声を上げた。
 開きっ放しの扉から教室の外に出ようとした。
 ただ、それだけだった。そのタイミングで、どうやらあたしはクラスメイトの唇を奪ってしまったらしい。突然のハプニングに、ぶつかってしまった田中君があたしと同じように口を押さえ、呆然とした顔で佇んでいた。
 それに、なんと声をかければ良いのか迷う。「大丈夫?」「気にしないでいいよ」「前見てなくてごめん」「気持ち悪いなら今すぐ口洗ってきなよ」――多分、全部言って上げた方が良いんだろうな。ぐるぐるとを浮かび上がる言葉に、まるで脳が意味もなく高速回転しているような感覚を覚えた。普段良く褒められる『頭の回転が早い』って、多分こういうことを言うんだろう。
 でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。真っ赤な顔で見つめ合うあたし達に、一連の流れを目撃していたクラスメイト達が黄色い声を上げた。
「うわーっ! キスした!」
「田中がキスした!」
「女の子の唇奪うなんて最低だよ田中君!」
 外に出ようとしたのはあたしも同じなのに、何故か教室内では田中君が責められる。多分、自惚れじゃなければ私の方がクラスメイト達と仲良くしていたからだろう。人の輪とはそういうもので、とりあえずあたしは興奮して非難の声を上げる友達に落ち着けと手の平を向けた。
「今の偶然! マジただの偶然だから!」
「どー見ても普通に事故だったろ。今の」
 廊下側で事の成り行きを見ていた萩原も呆れた口調で仲裁に入ってくれた。女子とばっかつるんでる女誑しだけど、こういう時は役に立つ。萩原の援護で女子は一先ず落ち着きを取り戻してくれた。
「田中も、大丈夫か?」
 萩原が田中君の肩を優しく叩いて声をかける。
 あたしも気になって田中君を振り返ってみれば、彼は涙目の状態だった。田中君は普段は大人しい性格なので、きっと注目を浴びることに慣れていないのだ。ラッキースケベなハプニングということもあって、余計に恥ずかしさが込み上げてくるのかもしれない。今にも泣き出しそうな顔で無言のまま強く唇を擦ろうとするので、あたしは慌ててその手を止めた。
「あの、ごめん。遠慮しなくていいから今すぐ口洗っておいで? あたしのことはホント気にしなくて良いから。むしろ、なんかごめん。ホントごめん。マジでごめん」
 小六にもなれば、多感な子ども達も大人びてきて多少マセた会話をするようになる。特に恋バナの話題は熱い。誰々が隣のクラスの男子に告白しただの、友達のために一肌脱ぐだの、頻りに他人の恋愛事情が噂になる。恋愛漫画を読んでは「初めての彼氏は初恋の人が良い」とか「初めてのキスはやっぱり好きな人とが良い」とかロマンチックな話をすることも増えてきた。
 特におったまげたのが隣の席のヤンキーボーイな長谷川君の恋愛観だ。一方的に好きな女の子の話を聞かされていたのだけれど、その途中で彼の口から「俺、アイツのことマジで好きだよ。セックスしたいし、同じくらい大事にしたいと思ってる」なんて熱く語られた時はさすがに思考が停止した。だって、小学生の口から『セックス』なんて単語が飛び出すとか信じられるか? ――いや、すでにエロ本読んではしゃいでいるアホはいる。確かに、いる。でもそれは完全にあたしの領域外の話題であり、あたしには理解し難い世界の話だ。
 なんとか持ち前のスルースキルで「へーソーナンダァー。カッコイイネー」と無難な返事をしておいたけど、何もカッコ良くねぇんだわ。ガキのクセに何言ってんだコイツ、とか思ったあたしは絶対間違ってない。
 ――閑話休題。
 とにかく、男女関係なく思春期な子どもにはこの事故はショックが大きいだろう。目に見えて田中君が落ち込んでいる以上、同じ当事者であるあたしが場を治めてあげなくてはならない。――と言っても、あたしに出来ることは不注意だったとひたすら平謝るしかないけど。
 何度も「ごめん」を重ねたあたしに、田中君は赤べこのように首を縦に振っていた。声も出せないほど精神的ショックが大きいみたいなので、彼の隣に立つ萩原に目配せをしてみる。恐ろしいほど空気の読める萩原は「任せろ」とウインクして田中君の肩に腕を回した。
「田中、とりあえず手洗い場に行こうぜ? こいつもこう言ってるし、全然気にするタイプじゃないからさ」
 ――ふざけんな。これでも少しは気にしてるわこの色惚け野郎。
 ブチ切れ寸前のところを、あたしは笑顔で堪える。
 萩原とは異性の友達と呼べるほど仲良しのつもりだけど、彼のこういうところは時々頭にくる。あからさまに他の女子と違ってあたしの扱いが雑すぎるのだ。いくら男勝りな性格だからって、何も他の男友達と同じように接することはないと思う。確かにあたしも田中君ほど気にしてないけど! むしろ「あ、キスってこんな感じなんだ」ぐらいにしか思わなかったけど!
 けど、さすがにあの田中君の拒絶反応には切ない気持ちになった。あたしなんかが相手だったのは本当に申し訳ないと思っているけど、何か一言ぐらいフォローくれても良かったじゃないか。そう思いながら萩原に連れて行かれる田中を見送っていると、きゃあきゃあと未だに小さな声で盛り上がる声にだんだん苛立ってきた。
 あたしは振り返ってクラスメイト達に指先を向ける。
「ちょっとあんた達! 今のは完全に事故なんだから、あんま田中君のこと責めないでよ!?」
「いいぞー! もっと田中とチューしろーっ!」
「人の話聞いてんのか長谷川ァ! しめんぞコラァ!」
「怖っ! お前なんかが相手で田中もカワイソ〜!」
 前言撤回。やっぱアイツしめるより殺す。
 我先にとクラスの中心で囃し立ててきたヤンキー長谷川に近づき、そのプリン色の頭に全力で拳を振り下ろした。ゴンッと鈍い音がして、長谷川が机の上に沈んだ。
 滅多にしない鉄拳制裁に、さっきまで賑わっていたクラスメイト達が一斉に静まり返った。
「次そのネタで田中君を弄ったら……分かってんな?」
「ハイ……もうしません……」
 よし、これで田中君は平穏な学校生活を過ごせるはずだ。痛みに呻きながら答える長谷川の返事に、ふんっとあたしはそっぽを向く。さすがボス、なんて呟いた男子は全力で睨みつけておいた。
 するとその時、あたしはふと松田と目が合った。
 松田は萩原と一番仲の良い男子で、あたしも萩原を交えて良く話すことがある。でも、萩原ほど仲が良いかと言われたらそうでもない。いつも萩原を間に挟んで話すような、あくまで『友達の友達』程度の間柄だ。
 そんな彼は、一体どうかしたのだろうか。どこかぼんやりとした目であたしのことを見ていた。
「? ……松田、どうかした?」
「……っ別に……」
 声をかけると松田はすぐに我に返った。でも次の瞬間、素っ気なく視線が逸らされる。つんけんとした態度はいつものことだが、今の彼はいつもより不機嫌そうだ。
 仲良くない相手がずけずけと踏み込むのもあまり良くないだろう。「そっか」と短い相槌だけ返して、あたしはちょうど戻って来た萩原と田中君に目を向けた。
 田中君は未だに真っ赤な顔をしていたけど、手洗い場に行ったことで少し気持ちが落ち着いたらしい。さっきの事故についても「初めてが僕でごめんね」と誠心誠意に謝ってくれた。まさか『初めて』を意識されているとは思ってもいなかったので、あたしはきょとんとした。
「気にしないでいいのに……でも、ありがと。田中君、将来きっとイイ男になるよ」
 そう言ったら、またしても田中君が泣きそうな顔になった。さすがに今の言葉のどこに地雷があったのか分からず、あたしは助けを求めるために萩原を見る。
 松田と並んで私達を見守っていた萩原は何故か「信じらんねぇ」と言いたげな顔であたしを見ていた。
「なんで君ってそうなの? バカなの?」
「千速ちゃんに会ったら今の暴言チクってやる」
「嘘ウソ! それだけはやめて! 姉ちゃんの拳骨マジで痛いんだからな!?」
 母親同士のご近所付き合いで親しくなった千速ちゃんはあたしの頼もしい味方だ。さっき長谷川にくれてやった拳骨も千速ちゃん譲りである。必殺『萩原の姉ちゃんに言いつけてやる』攻撃は萩原に効果抜群だった。
「普段は言わねえけど、ちょっと鈍感なトコが可愛いと思ってるんだぜ? だから許してくれよ。な?」
「へー。ソーナンダァー」
「お得意の棒読みかよ! マジで頼むって!」
 慌てて言葉を訂正してくる萩原に、ニッコリと笑ってスルーする。今さらそんな口説き文句があたしに通用すると思わないで欲しい。
 そうしてギャアギャアと騒ぐ萩原に気を取られていたあたしは、傍にいた松田に熱い視線を向けられていたことなんて全く気づかなかった。

 だからこの数年後、友達と呼べるほど仲良くなった彼に告白される未来が訪れるなんて思ってもいなかった。
 何も知る由もない、そんな小学生時代の話である。
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