エンパス・ドール【前編】


 ヒトは死ぬ。
 それはいとも簡単に、とても呆気なく、息絶えるのだ。
 部屋の中を飛ぶハエや蚊が叩き潰されるのと同じように。
 道路に飛び出した野良猫やハトが車に轢かれる時と同じように。
 生物の頂点に立つと言われているヒトも、簡単に死んでしまうのだ。
「──い……」
 声を出そうとした口からは血の混じった掠れた吐息しか漏れず、言葉を紡ごうとした唇は震えて上手く音を形にはしてくれなかった。
 じわじわと波のように痛みと死の恐怖が押し寄せてくる。駆け寄ってきた誰かが自分の手を握りしめながら必死に声をかけているようだが、生憎とその人物の顔も見えず、聴覚はすでに世界から切り離されていて、彼女は静かに終わりを告げようとする心臓の音だけを聞いていた。
「い──……」
 真っ赤に染まる地面を見つめながら、ぼうっとする脳が感じるのは痛みと死だけだった。
 ──ああ、もう、助からないのだ。
 全身に感じる痛みは段々と薄れていき、視界はゆっくりと霞んで靄に包まれたように見えなくなっていく。

 そうして、ぶつりと世界は黒に染まった。

 目を開けているのか、それとも閉じているのか。声を出してみたが、口を動かすことはできても自分の耳にその音が返ってくることはなかった。どんなに静かでも耳鳴りの一つぐらい聞こえるというのに、それすら聞こえない。
 そんな今の自分が体を動かしているのかも分からないほどの真っ暗闇の中で、ふと思ったのはこの感覚が眠っている時と似ているということだった。
 体があるのは分かる。でも、それが機能しているかと言われれば、答えは否だ。自分の体だったものは、完全に停止してしまっている。
 納得できる答えがあるとするならば、これが『死』であるということだった。
 ならば、自分はあとどれぐらいこの暗闇の中に居続けるのだろう。
 あと何秒、何分、何時間、何日、何ヶ月、何年。
 時間が経つにつれて、段々と気が狂いそうになってくる。人が何もない空間で七十二時間過ごすと精神が崩壊するというが、正しくそれなのではないだろうか。だとしたら、これこそが本当の地獄だ。
 ──出たい。今すぐこの場所から出たい。早くここから抜け出して、暗闇さえ感じられない温かな場所へ行きたい。
 そう何度も何度も強く望んだ、その時だった。
「──」
 声が、聞こえた気がした。
 ぽちゃんと水音が聞こえて、暗闇の世界が少しずつ青に染まっていく。
 驚き、え、と瞬きした。今度がしっかり、自分の声が聞こえた。
 そして一瞬、自分が鳥にでもなったのかと思った。
 一面に広がるのはたくさんの雲が漂う空だ。ゆっくりと体を起こすと、ぽちゃんとまた水滴がぶつかり合う音が聞こえて、手に感触があった。
 視線を落とすと、自分は水面の上に座っていた。空の景色が写ってしまうほど透き通った綺麗な水なので、この下がどうなっているのかは分からない。この世界もまた、ただただ何もない景色だけの空間が広がっていた。
 それでも、あの暗闇の時間は終わったらしいと頭では理解できた。地獄から天国へと投げ出されたような、そんな解放感に包まれながらゆっくりと立ち上がる。
「──」
 また声が聞こえた気がした。
 振り返って、辺りを見渡して、誰かいるのかと目を凝らす。
 けれど、世界にはやはり自分だけだった。
 誰かが、呼んでいる声がする。
 ──誰を?
 ──自分を?
 ──その声は、その名前は、本当に自分を探しているのだろうか?
 そんな不安が胸の内を過ったが、意を決して水面を駆け出した。
 目指すは声が聞こえる方だ。
 ──そこに行けば、きっと何もないこの世界から抜け出せる。
 ──辿り着いたその先には、きっと新しい世界が待っている。
 そう信じて、大きな水溜りの上を走り続けた。
 どれだけ走ったのかは分からない。息が切れて疲れる感覚があっても、不思議と足を止めようとは思わなかった。
 そうして長い時間をかけて走り続けていると、しばらくして水平線の向こう側に輝く一つの光を見つけた。
「──」
 優しく誰かを呼ぶ声に応えるように、夢中になって光に手を伸ばした。
 その光は声に反応するように眩く輝いて、空の世界を瞬く間に白く塗り潰した。

 やがて眩い光が少しずつ弱まるのを感じた時、ゆっくりと目を開いてみる。
 見知らぬ天井に輝く一つの蛍光灯。
 その蛍光灯を、短い腕を必死に伸ばして小さな手が掴もうとしている。
 あれ、と思いながら視線を動かせば、病院のドクターやナースの格好をした人達がこちらを見て安心したように微笑んでいた。
 ぽつりと、自分の唇から音が零れる。
「……わたし……しんだ……?」
 まるで自分の声ではないようなその音は掠れて聞き取りにくい。
 しかし、目の前にいる人達にはしっかりと届いていたらしく、優しく微笑んでいた。
「大丈夫、生きているよ。……よく頑張ったね」


 *** *** ***


 ――その日、私は運命の出会いをしたのだと思う。
 編集部に届いたという一枚のファンレター。その手紙に綴られていた最高傑作とも呼べる作品の感想はとても美しい言葉で彩られており、文字越しに伝えてくる登場人物への感情移入した気持ちは踊るように高揚としていた。
 そう、何度も読み返して笑みを浮かべてしまうほど、そこに並んでいる言葉は私を惹きつけていた。
 こんなにも自分が書いた物語を楽しんでもらえたのなら、作家冥利に尽きるというものだろう。
 だが、それだけではなかった。
 今回の新作以外にも綴られていた過去作の感想。その最後の挨拶に添えられた『あなたの大切な人にこの想いが伝わりますように』という文章が、私と彼女を引き合わせたのだ。
「ねえ、あなたにお願いがあるの」
 初対面で緊張した面持ちの彼女は、『読書好き』を体現するような真面目そうな面立ちの女性だった。まるで余計な言葉は避けるように、けれど終始落ち着かない様子でコーヒーのカップに口をつける彼女の視線はずっと右へ左へと動いていて忙しない。
 その様子に、間違いない、と私は確信した。
 ――嘘ではない。
 ――幻でもない。
 私の望んだ『存在』は、確かにそこにある。
 そう思った途端に口を衝いて零れ落ちた言葉は、自分でもとても静かで重々しく聞こえた。
 私の願いに耳を傾けていた彼女は、少しも口を挟もうとはしなかった。
 ただただ悲しげに瞳を揺らしながら、静かに笑んだまま話を聞いていた。
 その反応も、まるで私の望む『存在』そのものであったと思う。
 そんな彼女は、やはり最初は話を断った。考え直すべきだと、私を諭してくれた。
 でも残念ながら、私はもう後には戻れなかった。
「……それが、あなたの後悔のない選択だと言うなら」
 食い下がる私に、私が綴った登場人物と全く同じ言葉を紡ぎ、彼女は恭しく頭を垂れた。
 願いを聞き入れてくれた彼女に、私は安心したように微笑んだ。
「ありがとう……あなたは私の――」






  エンパス・ドール







 都市部から遠く離れた郊外に、かつて名のある文豪が住んでいたという大きな土地がある。郊外一帯には畑と工場しか見当たらず、小さくて狭い住宅地にも人の姿はほとんどない。都市圏内であるとは到底思えないほどのどかで、けれど景観の良い場所だった。
 そこは現在、国内でも数少ない財閥の大河内家が所有する別荘地となっている。郊外の中でも一際目立つ桜並木通りの先に、その豪邸は建っていた。
 車の窓から見える富豪らしい外観の屋敷を見つめていた江戸川コナンは、隣に座っている毛利蘭に声をかけた。
「大きいお家だね」
「うん……ほんと、見るからに財閥の別荘って感じだね」
 声をかけられた蘭は屋敷に目を向けたまま頷くと、自分の隣に座っている幼馴染へと目を向けた。
「ねえ、園子……本当に私達まで招待されちゃって良かったの?」
「いいのいいの! 向こうから『お弟子さんと家族さんも是非』って言われてるし!」
「そう? なら良いけど……」
 鈴木園子はひらひらと手を振って快活に笑うが、お気楽な彼女と違って緊張している蘭は多少の不安が残っているらしい。相槌を打ちながら、弟子に運転させて自分は助手席で深い眠りについている父を見て、「もう……」と不満交じりに小さなため息を吐いた。
「今日は主催の大河内玲子さんの誕生日も兼ねて、彼女が書いた小説の映画化の記念を祝うパーティーなのよ。その作品におじ様をモデルにした探偵が出ているから、是非一度お会いしてみたいって……本人たっての希望だもの。心配しなくても大丈夫よ」
「僕、この前テレビで見たよ。それ、『エンパス・ドール』っていう映画のことでしょ」
「そう! エンパス体質を持った女と、探偵のお話なの! 私も一度読んだけど、恋を知らなかったエンパス体質の少女が、不器用な探偵の優しさに惹かれていく……歳の差なんて気にならない、ロマンチックな愛の物語だったわ……!」
「ふ、ふぅん……」
 ──エンパス体質の人なら、普通は恋も愛も理解していそうだが。
 そう考えながらもコナンは乾いた笑みを浮かべ、曖昧に相槌を打った。
 そんなコナンの考えを読んでいたかのように、運転席に座っていた男が口を開いた。
「エンパス体質の人は、『恋愛ができない』と言われることもあるみたいですね」
 意外にも探偵の弟子が横槍を入れたことに、コナンだけでなく車内にいる全員がえっ、と目を丸くした。特に園子は興味心身のようで、身を乗り出している。
「そうなんですか!?」
「ええ。エンパスとはその名の通り共感能力のことですから……恋をすることでさらに相手と同調して、共感能力が強力になってしまうケースがあるそうです」
「それって、何がいけないんですか?」
 蘭が尋ねると、バックミラーを一瞥した安室透は話を続けた。
「共依存──分かりやすく言うと、お互いが自分の一部のような感覚になっていくんですよ。こうなると、同調される側はエンパス体質の人に攻撃的になりやすくなる……これは、『相手は自分だから、自分のことはどう扱っても良い』と考えてしまうからだそうです。だから、相手の些細な欠点やミスを過剰に責め立ててしまう。他にも、相手の感情の揺れ幅に敏感だからこそ、エンパス体質の人は自分より他の人の方が相手に相応しいだろう、と考えて自ら身を引いてしまうとか……」
「なんか、それってエンパス体質の人が可哀想……」
「でも、今聞いた話って普通の人達でもよくあることじゃない?」
「そう、彼女達は僕達と何も変わらないんですよ。誰だって共感能力は持っていますから」
 園子の言葉に、安室はさらりと肯定した。
「例えば、静電気が起きた時の痛みとか、紙で指を切った時の痛みとか、みんな同じようなものを想像できるじゃないですか。他にも、本を読んでいる時や映画を観ている時に登場人物に感情移入しているのも、それですよ。ただ、エンパス体質の人はそれが極端に強いだけなんです」
「へぇ……安室さん、どうしてそんなことにまで詳しいんですか?」
「そういう体質の人に会ったことがあるからね。興味本位で調べただけだよ」
「……はっ! それって、もしかして……昔、安室さんが惚れていた女性だったとか……!?」
「あはは。ご想像にお任せします」
 恋愛脳の園子が瞬く間に興味を示したが、安室はそれ以上多くを語ることはなかった。
 にこにこと笑って話を誤魔化した彼にコナンもほんの少しだけ引っ掛かりを覚えたが、疑問を追及したところで秘密主義の彼から答えなど返ってくるはずもない。早々に考え直して、窓の外へと目を向けた。
 屋敷は、もう目前にまで迫っていた。


 煌びやかな装飾の大部屋に、沢山の料理と人が集まっている。
 ワインやシャンパンを片手に会話を楽しむ大人達を見上げながら、コナンは自分の隣に立っている安室に声をかけた。
「今日は珍しいね、安室さん」
「何が?」
「だって安室さん、事件でもないのにおじさんに付き添うことなかったじゃない? 特にこういうパーティーとか……てっきり避けてるのかと思ったけど」
「嫌だなあ、コナン君。僕だってこういう場所に来ることもあるよ」
「それは『仕事で』、『仕方なく』でしょ?」
 ずっと高い位置にある安室の顔を見上げ、はっきりと問いかけた。
 けれど、安室はにっこりと笑うだけだった。本心は口にしない。
 ──こいつ。
 コナンはジトリとした眼差しを向けた。
「何か気になることでもあるの?」
「さあ? どうだろう?」
 揶揄っているのか、それとも誤魔化したいのか。あくまで質問に答えるつもりはない様子の彼に、コナンはキリがないと諦めた。
 代わりに、いつもの癖となっている人間観察を始めた。
 主催者が金持ちである故か今回のパーティーはかなり盛大に行われているようで、知人や親戚以外にも映画関係者や芸能人の顔ぶれが多く見受けられた。
 そこかしこから聞こえるのは今回の映画の製作に関する話題ばかりだ。上映が間近に迫っていることもあり、その表情や会話の内容から「大ヒット間違いなし!」と浮足立っている様子が伺える。
 そこでふと、コナンは壁際にひっそりと佇む女性に目を留めた。
 セミショートの黒い髪にネイビーのブラウスと白いスカートといった、他の人達に比べてお淑やかで大人しい印象の女性だった。終始落ち着かない様子で当たりを見渡し、そして自分に誰かの視線が向いていると分かると決まずい様子で顔を俯かせている。
 遠くにいるコナンの目から見ても、その顔色が悪いのは一目瞭然だ。
 そして、そんな彼女の存在に気づいた者達は怪訝な顔をしている。
「あれ、どこのお嬢さんかしら?」
「玲子の知り合いじゃないのか? さっき話しているのを見たが……どうせまた出版社や映画関係者の人だろう」
「やぁね、こんな祝いの席であんな顔をしてるなんて……あの子ったら、本当にどこであんな人と出会うんだか……」
 そんな囁きが聞こえたのは偶然だ。コナンが視線を動かすと、初老の夫婦が眉根を寄せながら話し合っていた。
 その口振りから、彼らが主催者である大河内玲子の両親であることはなんとなく察しがついた。
 静かにその言葉に耳を傾けながら視線を逸らしたコナンは、再びチラリと隣に立つ安室を見上げる。
 彼もまた、壁際の女性に目を向けていた。しかし、その顔はどこか少しだけ驚いているような、きょとんとした表情を浮かべているように見えた。
 もう一度、コナンも女性に目を向ける。コナン達の視線に気づいた女性は居心地の悪そうな顔のまま、視線から逃げるように会場の外へと出て行った。
 ――その時だ。
「あら……そちらにいらっしゃるのは毛利さんではないですか?」
 華やかな声音で近づいてきた女性に、全員の視線が向けられる。
 彼女は本日の主役の大河内玲子だ。彼女はその声音に反して、煌びやかというよりはお淑やかな印象の美しさが際立つ女性だった。
 声をかけられた毛利の顔がだらしなく緩むのを見た蘭達の視線が、一斉に呆れを含んだ冷たいものに変わる。
「いかにも。私が『眠りの毛利小五郎』です! こちらは娘の蘭と、コナン、弟子の安室君」
 すぐさまキリッとした表情で挨拶を交わす彼に続いて、紹介された三人はぺこりと軽く会釈をする。
 すると、玲子の表情は花が開いたように綻んだ。
「まあ! 私、ずっとお会いしたいと思っていたんです。良ければ是非、毛利さんが活躍なさった話を――」
「玲子。その前に他の人にも挨拶に行かないと……」
 すかさず歩み寄ってきた男に耳打ちをされ、玲子は口元を覆い隠す。
「あ……そうね。やだ、私ったら……」
「れ、玲子さん……そちらの男性は……?」
「俳優の廣田大祐。私の婚約者です」
「よろしくお願いします。かの有名な毛利小五郎にお会いできて、僕も嬉しいです」
 呆気に取られた顔で毛利が尋ねると、玲子は満面の笑みで答える。
 途端に毛利の口から舌打ちが零れた。
「恋人がいるのかよ……」
「お父さん」
 残念そうな父の声を聞いた蘭の声が棘を含んだ。冷ややかな娘の眼差しと声に、毛利は苦笑を浮かべて「冗談だって」と蘭を宥めた。
 そんな彼らのやり取りを笑顔で長し、廣田は玲子の肩に手を置いた。
「すみません。彼女はまだ少し用がありますので、これで……この後ちょっとした余興もありますので、皆さん今日はどうぞ楽しんでいってください」
「余興?」
「あ……そうだわ!」
 思い出したように玲子が手を叩いた。
「ねえ毛利さん、良ければその『特別ゲスト』を探し出してくださらない? 『私の作品の秘密を完璧に暴ける』人がこの会場にいるんですよ」
「その人、お友達なの?」
 気になったコナンが玲子の顔を見上げて問いかけると、玲子はにっこりと笑顔を見せた。
「ええ。編集部に手書きのファンレターを送ってくれた人なの! SNSでも何度かやり取りをしていてね、今じゃ気が合う友達みたいな関係だわ」
「え……じゃあ、お姉さん……まだその人の顔を知らないの?」
「さあ、どうかしら。もうお話をした人かもしれないし、別の人かもしれないわ」
 ――なるほど、そこは隠したいのか。
 ヒントさえ隠そうとするのは、おそらく毛利小五郎の探偵としての技量を確かめたいからなのだろう。コナンはそう考え、隣でキョロキョロと会場内を見渡して目ぼしい人を探している毛利を見上げた。
 これは、まだまだ時間がかかりそうだ。
 今度はチラリと安室を振り返る。安室も同じように周囲に視線を向けているが、どうもそれは玲子の言う『特別ゲスト』ではなく、他の誰かを探しているようだった。
 そんな彼を、コナンはただ静かに見つめた。
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