とある本丸の山姥切国広の物語 漆


 眩い光と共に世界が変わる。見慣れた日本家屋ではなくコンクリートの壁で囲まれた白い部屋に、山姥切はようやく現世に辿り着いたのだと理解した。
「お疲れ様でございました、山姥切長義様。東雲本丸の山姥切国広様」
 恭しく頭を垂れるスーツ姿の男は政府の職員であることは一目瞭然だった。
「他の隊員は?」
「鯰尾藤四郎以外はすでに作戦会議室にて待機しております。それと、送られてきた情報はすでに上に報告しています」
「そう。では、俺は偽物君を例の場所に連れて行くとしよう。……ああ、その前に手入れをお願いしてもいいかな。こんなボロボロじゃ、向こうに着いてもすぐに折れてしまうかもしれない」
「かしこまりました」
「おい、俺はこれ以上悠長にしてる暇は──」
「薬を盛られていたとはいえ、あの世界で数日も過ごしたんだ。今さらだろう?」
 早く審神者のもとに行きたい。そう言わんばかりに自分にみついた山姥切を、長義は涼しげな顔で微笑みながら受け流す。
 薬、という単語に山姥切はハッとした表情で口を閉ざした。
「たかが人間だと侮ると痛い目を見ることになるよ。仮にも隠密廻りの男……政府本部に襲撃を仕掛けられるだけの知能はあるんだ。歴史修正主義者となった今は知らないが、彼は並大抵の軍師にも劣らぬ相当な策士だったに違いない。できるだけこちらも最大限、万全の状態で迎え撃たなくては」
「しかし……」
「そもそも、お前が縁をしっかりと繋いでいれば何も問題はない」
 ぴしゃりと反論を跳ね除け、長義は山姥切の首根っこを掴んで手入れ部屋に引きずり込む。意外にも乱暴で、想像するよりも力強いそれに逆らうことができず、無造作に放り投げられた山姥切は呆然と長義を見上げた。
 スタスタと部屋を去って行く長義もまた、すぐに隣の手入れ部屋に入ったのだろう。
 ピピッという音がして、オペレーターの声が響いた。

『山姥切長義。山姥切国広。手入レヲ開始シマス』
『手伝イ札ノ設置ヲ確認、時間ヲ短縮シマス』
『手入レ、終了シマシタ』

 その僅かなオペレーターの台詞の間に、山姥切の体は元通りの姿を取り戻していた。傷はどこにもなく、血塗れの服も元通りだ。布だけはどこにもないが、握りしめていた血塗れの鉢巻は本来の美しさを取り戻していた。
 少し気掛かりだったが、それどころではないと早足で部屋を出る。
「あれ……おかしいですね。手入れをすれば布も元に戻るかと思ったんですが……」
「……」
 手入れ部屋から現れた彼を見て不思議そうに首を傾げる政府職員の隣で、長義が怪訝な顔をする。そんな彼の後ろから、ぴょこんとアホ毛が飛び出すのを山姥切は見た。
「一緒に布を持って入らなかったからじゃないですか?」
 鯰尾藤四郎だ。驚く三人にニッと笑って、鯰尾ははいと血塗れの布を山姥切に差し出す。
「これ、回収しておきました。あの時代に置いておくと、色々と面倒なことになったかもしれませんし」
「す、すまない……」
「いえいえ〜。まっ、彼のところに置いてても多分消えてなくなるんでしょうけどね!」
「鯰尾……まさか死体から剥ぎ取ってきたのか?」
「安心してください。ちゃんと人目を盗んできましたから」
 そういう問題ではないんだが、と長義は額を押さえる。どうやらこの鯰尾藤四郎、東雲本丸の個体と違って自由な一面があるようだ。
 あの世界での単独行動が危険を伴うというのも一つの理由だろう。長義は物言いたげな表情ではあったが、やむを得ず置き去りにした責任が自分にあると考え直し、一先ず小言はあとにすることにした。
「それも直しに戻るか?」
 その布は山姥切にとってなくてはならないものである。そういう認識が、少なからず長義にはあるのだろう。
 しかし、山姥切はじっと血塗れの襤褸布を見下ろして首を横に振った。
「……いや、いい」
「……そうか。なら、ついて来るといい」
 多くは語らなかった。お互いに語る必要も、聞く必要もなかったと言ってもいい。
 スタスタと移動を開始した長義の背を、山姥切と鯰尾が追いかける。
「……なんで君も一緒なのかな? 鯰尾藤四郎」
「いーじゃないですか! この後は待機組なんですし、お見送りぐらいしても。山姥切さんを最初に見つけたの俺なんですから」
「……ふん」
 屈託のない笑顔の彼に、長義は鼻を鳴らして顔を背ける。
 あからさまに不満そうだったが、だからと言って咎めることもしない。好きにしろと言わんばかりの背中に、山姥切は隣を歩く鯰尾に目を向けた。
 山姥切の視線に気づいた鯰尾は、こっそりと彼に耳打ちする。
 もちろん、隠すつもりもない声量だった。
「長義はツンデレなんですよ。意外と面倒見がいいところもあるんです」
「こそこそと話す気がないなら普通に話せばいいんじゃないかな? あと俺はツンデレじゃないし、写しの面倒を見た覚えもない」
「またまたぁ〜。俺が報告した時に真っ先に本部に保護を提案したのは隊長だったでしょ──おわっ」
 揶揄うような口調の鯰尾の言葉を、鋭い刃が一刀両断した。物理的に飛んできた攻撃を紙一重で避けた鯰尾は、僅かに頬を引きつらせた。
「余計な口を利くなら、ぶった切る」
 あまりに鋭い眼差しで睨むので、彼の言葉が決して照れ隠しだけではないと悟った鯰尾は口を閉ざしてぶんぶんと首を横に振った。
 もちろん、山姥切も閉口していた。面倒見が良いというのは事実らしいが、ただ単に優しいだけで手を差し伸べているのではないのだろう、ということも理解していた。
 無言になった二振を見て今度こそ興味が失せたように背中を向けて早足で歩いて行く長義に、鯰尾はホッと胸を撫で下ろして呟いた。
「そういうとこなんですってば……」


 長義が向かっていたのは『記憶の場』だった。
 庭に降りて、とある桜並木のど真ん中で立ち止まる。
「この石畳の真ん中の道を真っ直ぐに行くんだ。ただし、振り返ってはいけないよ。君はただ、東雲の審神者を思い浮かべて向かえばいい」
「なんだ、その神話のような台詞は……」
「何を馬鹿なことを。神話も何も、神社の参道の真ん中は神が歩く道だと言われているだろう。お前は山姥切国広の付喪神の中でも本霊にあたる個体だ。真ん中を歩くのが筋というもの」
「待て……俺が、本霊だと?」
「なんだ、気づいてなかったのかい? いくら霊力の高い俺の写しとはいえ、神格は下位の付喪神だ。神社や寺に奉納された刀や天下五剣ならともかく、たかが分霊如きに人間の縁など見える訳がないだろう? 今まで何も疑問に感じなかったのかな、偽物君は」
 長義の言葉に、山姥切がぐっと言葉を呑み込んだ。
 確かに、これまで別個体との違いを感じることはあった。だが、それでも審神者や山姥切自身が『余所は余所』という精神で過ごしてきたせいで、あまり深く考えることがなかったのだ。
 疑問に感じなかった訳ではない。
 ただ、興味がなかった。それだけの話だ。
 そんなことも分からないのか、と蔑んだ目を向けてくる長義に、無知であることを恥ずかしく思った山姥切は羽織っていた襤褸布を頭から被り直した。
 もちろん、血で汚れたそれはすぐに長義によって剥ぎ取られた。
「これからはしっかり自覚することだ。ここは、『お前にしか通れない』場所なのだから」
「? どういう……」
「この『記憶の場』は『想いを繋ぐ』場所なんですよ」
 長義の言葉に首を傾げた山姥切に、鯰尾が長義に代わって説明した。
「本丸に就任する前、審神者はここで記憶を失います。けれど、それは完全に消されるんじゃなくて、ここに保管されるんです。ここに咲いている桜の木は、それぞれの審神者の記憶が保管されているんですよ」
 鯰尾の説明に、山姥切は初めて東雲と出会った時のことを思い出す。
 そうだ、彼女は桜の木の前で佇んでいた。そこを見上げていた。一人ぽつんと、おそらく自分の記憶が刻まれたであろう木を、じっと名残惜しそうに。
「『審神者の墓場』なんて聞こえは悪いが、そう呼ばれて当然の場所だ。審神者達は今まで現世で過ごした時間も、その時の名も忘れてしまう。ここで一度現世の自分は死ぬのだから、文字通り墓場なんだろう」
 鯰尾の説明に耳を傾けていた長義が、ぽつりと呟く。
「ここは、審神者達の歴史が記された場所だ。そして、審神者になってからの歴史も全てここに刻まれていく。ここで封じ込められた記憶はきっかけさえあればいつでも思い出せるが……その者の歴史を変えられないように、死ぬ時はこの木が全てを散らして枯れていくんだ」
 そこまで話して、長義はゆっくりと山姥切を見つめた。
 澄んだ青の瞳が、ただただ真っ直ぐに、真実を告げる。

「そして審神者が死んだあと、その木を切り落とすのが『初期刀』の最後の役目だ」

「だから、彼女の『想い』を繋ぐのもお前にしかできない」

「忘れるな、山姥切国広。審神者の歴史は、お前だけに委ねられている」

 山姥切は目を見開きながらその言葉を胸に刻んだ。
 それから自分の手の中にある赤橙色の鉢巻を見下ろした彼は、その鉢巻が淡く輝いていることに気づく。
「それはあの遊女から透に手渡された物だ。彼らを繋ぐ、絆の証でもある」
「!」
「『放棄された世界』で出会った彼らの一生は、永遠に誰にも語り継がれることのない歴史だった。それでも、その時代を生きた人の歴史はちゃんと残る。それは形としてか、寝物語としてか……あるいは、来世への縁となって」
「それはきっと山姥切さんを主さんのもとへ導いてくれますから、心配せずに駆け抜けてください」
 山姥切は鉢巻をぐっと握りしめ、力強い瞳で二振を見据える。
「世話になった、本歌。鯰尾藤四郎」
「何言ってるんだ。まだ戦いは終わってない。俺は向こうでお前を待ってやる。せいぜい足を引っ張るなよ、偽物君」
「もー。素直じゃないなあ、隊長は」
「鯰尾、お前はあとでぶった切る」
 またもや鯰尾の軽口に同じようなやり取りを繰り返す長義。
 そんな彼らを見て、山姥切は静かに笑んだ。
「……ああ。……じゃあ、また」
 踵を返し、血塗れの襤褸布を翻し、鉢巻を手放さないように額に巻きつけて走り出す。
 その時、長義と鯰尾は目を見開いた。
「……え」
 襤褸布の下に隠れていた服が、少し変わったように見えた。
 破れていたズボンは真新しくなり、腰布が長くなっていく。
 だが、本人は気づいていないようだ。
「……隊長、今の……」
「……実に腹立たしい奴だ」
 鯰尾の物言いたげな視線に、長義は悔しさを隠さず表情を歪める。そして彼もまた踵を返し、その場から離れてしまう。
 取り残された鯰尾は、もう霧の向こうへと姿を晦ませてしまった山姥切に視線を戻した。
「……初期刀の極も、そろそろですかねぇ」


 霧の中を進むのは何年振りだろうか。見慣れた光景だ。懐かしさすら感じる。
 だが、右も左もずっと続く桜並木の景色はあの頃とは全く違って見える。
 何故なら、ここにあるのは全て審神者の命だ。ここに、審神者の縁が残されているのだ。忘れられた記憶として、けれど消えない記憶として、最期まで咲き続ける。これは故人の歴史を守るために戦に身を投じた、勇気ある者達の人生そのものだ。
 今ならわかる。その花の儚さの意味を。散りゆくその美しさの意味を。
 ここを彷徨う刀剣男士達は、きっとその美しさに導かれるのだろう。
 そして、いつかまたあのたくさん刀が置かれた場所で、ひっそりとその役目を終えるのだろう。
 ここを審神者の墓場と呼ぶのなら、あれもまた初期刀の墓場だったのかもしれない。
 ここに戻って来た蜂須賀もまた、そうだったのだろう。彼は多くは語ろうとしなかったけれど、きっと己の『役目』を全うしたのだ。
 先の見えない道を走っているうちに、随分と冷静になれた。
 これまで見えていなかったことが理解できるようになった。
 考えるべきことは、他にもたくさんある。
 本丸に置いてきた主のこと。仲間のこと。過去の時代で出会った長義のこと。お雪のこと。

 ──死なせてしまった、透のこと。

 語られることのなかった人物達の正しい歴史は、残念ながら山姥切には知る術がない。
 それはおそらく、狂ってしまった本人にしか分からないことなのだろう。

 ──なら、自分は。審神者は。

 知ることができないのなら、ただ守るしかないのだ。
 現実を受け止められずにやり直したいと願ってしまう、そんな彼らの弱い心を。

「……強く、なりたい……」

 もっともっと、強くなりたい。

 あの時のように、敵を取り逃がすことのないように。
 審神者に危険が及ばないように。

 命を賭して愛する人を守った、彼のように。

「強く、なりたい」

 そう強く願った時、立ち込める霧の中から一本の桜の木が姿を現した。
 堂々と咲き誇るその木の下で、東雲がぽつんと佇んでいる。
 初めて山姥切が彼女を見た時と同じ、彼女はただ静かに桜の木を見上げている。
「……主」
 足を止めてぽつりと呟いた声は、彼女には届かない。
 彼女は本丸で時間遡行軍と戦っているのだから当然だ。
 今、そこに立っているのはただの幻覚に過ぎない。
 山姥切は静かにそちらに歩み寄った。
 その時、どこからともなく鈴の音が鳴った。

『神様。私は好きな人がいます』

 それは紛れもなく東雲の声だった。
 突然聞こえて来たその声に、山姥切は再び動かそうとした足を止めた。

『彼は警察官になってこの国を守るのだと、楽しそうに話していました』
『彼は負けず嫌いなところがありますが、それ故にとても努力家で、賢い人です』
『私は、そんな彼が夢を語る時の表情が大好きです』
『だから、私は私にしかできない方法で、彼の大切な国を守りたいです』

『例えそれが、私達が離れ離れになってしまうとしても』

 りぃん、りぃん。
 頭に鳴り響く鈴の音に合わせて、東雲の心の声が強く響く。

『……嘘だ』
『離れ離れなんて嫌だ』
『会えないだけじゃなく、もう思い出せないかもしれないなんて』
『私に審神者の素質なんてなければ良かったのに』

『ねえ、神様』
『どうして私だったのですか』

『ねえ、神様』
『どうして戦が始まったのですか』

『私は現世で生きたかった』
『普通の女の子になりたかった』
『もっともっと、家族と一緒に過ごしたかった』
『もっともっと、友達とお喋りしたり遊んだりしたかった』

『ねえ、神様』
『私が彼を好きになったのは、いけないことだったのですか』


 そこで、東雲が振り返る。
 幻覚の彼女は、泣いていた。
 ただただ静かに涙を流し、虚ろな眼差しでこう言った。


「左様であるならば……この想い……」


 がつん、と頭を殴られるような衝撃を受けた。
 山姥切は目を見開いたまま、彼女を凝視する。
「……そうか……」
 あの日、彼女は泣いていた。
 確かに、泣いていたのだ。
 決して聞き間違いではなかった。
 この木に閉じ込められた審神者の記憶が、ずっと叫んでいたのだ。

 ──ああ、なんて情けないことか。
 彼女は望んで審神者になった訳じゃなかった。
 あの日、家族からも友人からも、愛しい人からも引き離されて傷ついていたのだ。
 そんなことにも気づかず、あの頃の自分はただ自分が選ばれたことに喜んでいた。
 ──なんて、不甲斐ないことか。
 もしかしたら、彼女があの笑顔の裏側で悩んでいたかもしれない、なんて。

 それでも、と山姥切は一度下げた視線を上げた。

「初期刀は、審神者の『志』であり、『誇り』であり、『覚悟』である」

 その言葉は、揺るぎない彼女の真意であると思う。
 だからあの日、山姥切は自分の胸の奥に燻っていた想いを断ち切ったのだ。

 始まりは、他の刀と同じく選ばれる側だった。
 しかし今は、自分の意思で彼女の望む、彼女のための刀となった。

「写しがどうとか、考えるのはとうにやめた。本霊がどうとかも、正直どうでもいい。今の俺はあんたの刀だ。それだけで十分だった」

 だから、と山姥切は己の刀の鞘を強く握りしめた。

「俺はあんたのもとへ帰る」

 ぶわりと風が吹き、地面に落ちていた花弁が舞い上がる。
 自分達を巻き込んで頭上へと飛んでいく花吹雪の中、山姥切は虚ろだった東雲の瞳に光が宿るのを見た。
 そして、人形のような無表情が静かに微笑むのを見た。


 *** *** ***


 転生装置から、たくさんの桜吹雪が吹き荒れる。
 その中から姿を現した刀を見て、山姥切長義はふんと鼻を鳴らした。
 随分待たせてくれたものだ、と悪態をつきたいところだが、今はそんな一刻の猶予もない。
 だから、代わりに皮肉った言葉で相手を鼓舞した。

「まあ、そうでなくてはね。お前は、この山姥切長義の写しなのだから」

 桜吹雪が止む。
 転送装置の真ん中に佇んでいた長義の写し──極の姿となった山姥切国広は、その翡翠の瞳に力強い光を宿して口元に自信満々の笑みを浮かべた。
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