とある本丸の山姥切国広の物語 伍


 目が覚めて初めて透の顔を見た時、山姥切は確かに警戒心を抱いていた。
 何故なら、彼は数年前に自分達の本丸を襲った敵と全く同じ顔をしていたからだ。
 己と同じ金色の髪に、大倶利伽羅のような色黒の肌。その声や体格まで彼の容姿は合致していた。
 唯一あの時と違う点があるとすればその瞳の色ぐらいだろう。
 本丸を燃やし尽くした炎と同じ色ではなく、澄んだ秋空のように綺麗な青の瞳──それは、山姥切の中の『敵』とは『別人』であると証明しているようだった。
 そも、敵であるならば透が山姥切を助ける理由など最初からないはずだ。もし油断したところを狙うつもりなら、この短い間に山姥切を折る機会はいくらでもあっただろう。
 なのに、彼は山姥切の首を狙うような真似は一度もしなかった。夜な夜な刀を携えて家を出て行くことはあれど、刀を握ったまま近づいてくることもなかった。
 山姥切はそんな彼だからこそ、次第に己の敵ではないと思い始めていたのだ。
 だが、長義は透こそが『歴史修正主義者』であると言う。それが政府の答えだ、と。
 曰く、透は『隠密廻り』でありながら、己の協力者でもある遊女に惹かれている。しかし、その遊女は何者かによって正体を暴かれ、見世で暗殺されてしまう。透は彼女を失ってしまった悲しみに耐えられなくなり、時間遡行軍の誘いに乗ってしまうのだろう、ということだった。
(本当に、そうなのか……?)
 これまで多くの時間遡行軍を討伐してきた山姥切とて、その心の弱さにつけ込まれた人間達が奴らの手駒とされるのを何度も見てきた。けれど、その支配下から逃れることができた人間だって少なからずいたのだ。
 ──透は、どうだろうか。
 彼が陰で何をやっているのかは知らないが、山姥切はあの心優しき青年が私利私欲のために奴らの味方をするとは、どうしても考えられなかった。
(本当に透が隠密廻りだとしたら……)
 山姥切は長義の言葉を思い出し、顎に手を添えながら考えに耽る。
 ──隠密廻り。三廻と呼ばれる幕府の役職の一つで、隠密廻りとはその名の通り自らが変装し、江戸市中の風説を町奉行に報告するといった諜報活動を主とする役職だったはずだ。
 この時代は現代に比べて異国に対する差別も根強い。彼らと親しくするだけで愛国心がない日本人だと罵られ、反逆者とされることもあったそうだ。
 だが、透はその異人の見た目であるにも関わらず、江戸を守る立場にあることを許されている。ということは、それだけ彼には江戸を守りたいという強い意志と、幕府が捨て置けないと思うだけの優れた能力が備わっているのだ。
 そんな男が、本当に女一人のために未来の国家に仇為すことを目論むだろうか。山姥切にはとても考えられなかった。
「お侍さん!」
 声をかけられ、腕を引っ張られて、はっと山姥切は我に返った。
 振り返ると、自分を見上げる主の顔が近くにあった。
「あるじ」
 そう呼んでしまったのは無意識だった。そして口にした瞬間、思い浮かべた人物がこの時代にいないということもすぐに思い出した。
 目の前にいる彼女が別人であると気づいた山姥切は、慌てて自分の口を抑え、後退りし、きょろきょろと辺りを見渡す。
 他にも調査があるという長義と別れた後、自分は本丸に戻る手掛かりを探していたはずなのだが、どうやら透とあの遊女のことを考えていたせいで無意識に花街へと続く橋の傍までやって来ていたらしい。
 飛び退く山姥切に女はきょとんとしていた。それから口元を手で覆い隠し、クスクスとおかしそうに笑う。
「こんな所で気難しい顔をして歩いているから何かと思えば……お侍さんはとても忠誠心の高いお方なんですね。呼び間違えてしまうくらい主さんのことを考えているなんて」
「い、いや……その……すまない、何か用か?」
「ええ、ええ。もちろん、ありますとも。これ、お侍さんの物でしょう?」
 女がそう言って差し出したのは何年も前に山姥切が審神者から貰った極のお守りだった。お守りそのものは最高練度に達した者に審神者から与えられるお祝いの品であるが、本丸の中でも上物の極を手にしているのは未だに山姥切を含めて片手で数える程度の刀だけだ。
 山姥切は自分の腰元に巻き付けてあったはずのそれがないことを確認して、彼女が落とし物を拾ってくれたのだと理解した。
「礼を言う。それは俺の大切な物なんだ」
「そうだろうと思って声をかけてみたんです。失くさずに済んで良かった」
 彼女はそう言って嬉しそうに微笑みながら山姥切にお守りを手渡した。
「でも、そのお守り、紐が切れちゃったみたいですね。よく見ると袋にも穴が……」
「ああ……主に貰ってから、もう何年も持ち歩いていたからな」
「まあ……」
 女は感心したように声を漏らし、目を輝かせる。
 そして何を思いついたのか、パンッと手の平を打ち鳴らして山姥切の顔を覗き込んだ。
「でしたら、それ……私が繕いましょうか?」
「は?」
「私、この先にある見世の遊女なんです。お侍さんのお時間があるなら、是非……繕う間だけでも寄ってってくださいな」
「いや、しかし──」
「これもきっと何かのご縁ですもの! お侍さんのお話も聞きたいわ」
 この遊女、審神者と違ってなかなか押しが強い。商売気質なのか、それとも善意なのか。彼女の心の内を推し量ることはできず、かと言って彼女の笑顔を見ると冷たくあしらうこともできなかったので、山姥切は戸惑いながらも静かに頷くしかなかった。


 彼女に連れられて見世に入ると、山姥切は中にいた女達からその風貌を興味深そうに眺められた。
 中でも一番年上らしき女性が現れると、山姥切の隣に立つ女に困った表情を見せた。
「あらやだ! お雪……あんた、また異国の人間を店に招き入れたのかい? 内儀が聞いたら何と仰るか……あの異人の青年のことですら良い顔をしないというのに」
「もう、姐さん、この人はお客さんじゃないわ。少し裁縫道具を貸して頂けないかしら? 彼の大切なお守りに穴が開いているの」
「お守りって……はあ……まあ、そういうことなら私の方から若い衆に話を通しておくけれど……あまり長居をさせないようにね。あなたも辻斬りに遭いたくはないでしょう?」
「辻斬り……?」
「姐さん、そんな物騒な話はおよしになって。大丈夫、すぐに終わるわ」
 山姥切が反応を示すと、お雪と呼ばれた女は彼を庇うように立って首を横に振った。
 それに『姐さん』と呼ばれた女は肩を竦め、「三階の奥の間を使いなさい」と言ってその場を後にした。
 それ以上は他の女達も口を開くことはせず、山姥切はお雪に連れられるがまま見世の三階へと足を踏み入れた。
 そこはこの見世の中でも一番見晴らしが良い一室だったらしい。
 部屋に案内された山姥切は窓から江戸を見渡して、ほう、と小さく息を吐いた。日が傾きつつある江戸が、夕陽に照らされて輝ているように見えた。
 そんな山姥切を見て、お茶と僅かな茶菓子を用意していたお雪は静かに微笑んだ。
「良い眺めでしょう? 私、この場所から見える江戸の景色が大好きなんです」
「ああ。ここは思ったよりも大きな見世なんだな。……あんた、俺なんかを招き入れて本当に大丈夫なのか?」
「ええ、もちろん──……ゲホッゲホッ」
「! おい、大丈夫か?」
「大丈夫です。ちょっとここ最近、風邪気味だったので……それよりお侍さん、どうかお気を悪くしないでください。女達はみんな、最近巷を騒がせている事件に怯えているだけなのです」
「さっきの辻斬りの話か」
「ええ。噂では異国の人や、彼らと親しくする人を狙っているとか」
 なるほど、と山姥切は頷いて納得した。
 だから下にいた女達は自分を興味深そうに見つめながら、それでも近づこうとはしなかったのだ。
 そして透もまた、そんな目を向けられる一人なのだろう。ただでさえ目立つ容姿だからこそ、日中は見世の裏でお雪と逢瀬を繰り返しているのかもしれない。
「お侍さんは異国から船で江戸にいらしたんですか?」
「え?」
「気になってしまって……さっき姐さんが言っていましたが、私の知り合いにも半分だけ異国の血が混ざった人がいるんですよ。お侍さんと同じ髪の色をした、とっても素敵な優しい男の人なんです」
 針に糸を通しながら、お雪は言った。
 それが誰のことであるかすぐに理解して、山姥切は彼女に問いかけた。
「あんたは……そいつのことを好いているのか」
 あまりにも女性に対して配慮がなく、素直で直球な質問だ。
 だけどお雪は嫌な顔をすることも隠す素振りも見せず、照れたように静かに微笑んでいた。
「……内緒にしていてくださいね。特にこの見世の内儀は、彼のことを嫌っているから……こそこそとあちこちで色んなことを嗅ぎ回ってる胡散臭い異人の男だ、って」
「あんたは、そう思わないのか?」
「隠し事は多い人だけれど、異人であることに何の嫌悪感もありません」
 お守りに針を通しながら、彼女はきっぱりと言い切った。
「見世に来る男達は、女をただの『道具』のように扱います。もちろん、遊女にとってこの体は『商売道具』……自らそんな風に扱うことしかできない。でも、私達にだってちゃんと心がある。遊女は心を持った『人』であると……彼だけは理解してくれているんです」
 それはきっと遊女であるお雪にしか分からない苦悩で、彼女や他の遊女達が抱えている心の闇なのだろう。でもお雪は、その苦しい現実の中で透と出会い、彼に少なからず救われた部分があった。
 山姥切は透を思い浮かべているのであろう彼女の横顔を見つめ、ふと己の主も同じ表情をしていたことがあると思い出した。
 書類仕事をしている時、料理を作っている時、山姥切と話をしている時、彼女は何を思い出したように手を止め、しばらくその思考の海を漂うのだ。
 ──もしかしたら。
 不意に浮かび上がったその可能性に、山姥切は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。
 審神者には、記憶がない。けれど彼女は、今のお雪のように誰かを思い浮かべていたのかもしれない。そして、本当に山姥切の予想が当たっているのであれば、彼女の記憶の中にいる人物は、彼女の赤い糸の先にいるのかもしれない。
 ──もしそれが、『透』と関係のある人物だったとしたら。
 そう考えが纏まった時、山姥切の耳にお雪の力強い想いが届いた。
「だから私は、彼を悪だとは絶対に言いません。例えその容姿が異国のものであっても、例え国が彼を反逆者だと言っても、私だけは彼のことを信じています。彼もまた──……この国の未来を守る、強いお侍さんですから」
 そう言ってはにかむ彼女の顔が初めて己を顕現した時に見た審神者の笑顔と重なった時、彼女の指に絡まっていた赤い糸がどこかへと力強く伸び、強い光を放った。
 その糸をじっと見据えながら、山姥切はふと、直感した。

 ──この縁はきっと、守らなければならないものだ。


 *** *** ***


「今さらそんな書状を寄越すとは、都合のいい奴らめ」
 一度本丸が落とされたあと、時の政府により石見国に新たな拠点を与えられた東雲の部隊は誰もが恐れ戦くスピードで成長を遂げた。
 それはある意味、敗北に屈することのない彼女の強靭な精神の照明でもあったのだろう。
 一度目と同じく初鍛刀では秋田藤四郎を呼び、続けて政府から与えられた三日月宗近と鶴丸国永を呼び起こした東雲は、山姥切を含めたその四振を主軸としてたった一年足らずで今の本丸を作り上げた。その成績は誰の目から見ても文句のつけどころがなく、一度の敗北で受けた汚名を返上し、瞬く間に石見国で最も優秀な審神者として名を馳せたのである。
 政府からの伝令を受けたこんのすけをねめつけ、山姥切は唸るような低い声で吐き捨てた。
 それを宥めたのは彼と同じ刀派の兄弟刀ではなく、呑気にも縁側で茶を飲んでいた鶯丸と三日月だった。
「まあ、そう意地の悪いことを言ってやるな、山姥切。誰でも一朝一夕に功は成せないものだ」
「そうだぞ、山姥切。理由はどうあれ、我らが主の賜った名誉だ。今夜は宴だな」
「ああ。久しぶりにうまい酒が飲めそうだ」
「何が久しぶりだ。あんた達が主に隠れて寝酒をしていることを俺が知らないとでも?」
 目深に被った襤褸布の陰から冷ややかな眼差しを向けられ、縁側に腰かけていた二振は「はっはっはっ」と笑い声を上げて誤魔化した。
「ああ、そうだ。燭台切に今夜のつまみは何か聞いてくるとしよう」
「それなら俺も一緒に行こう。お茶のおかわりをもらいたいからな」
 とってつけたような理由でおもむろに立ち上がった彼らは「では主、また夜に」と笑顔で白けた目をした山姥切とこんのすけを見遣り、優雅な足取りで去って行く。
 障子から影も見えなくなると、山姥切はやれやれと肩を竦めてこんのすけの隣に座る審神者に目を向けた。
 東雲はおかしそうにクスクスと笑うだけで、別段彼らの行動を咎める様子もなかった。
 そんな彼女に、山姥切は不服そうに顔を歪めた。
「あんたからも注意した方がいいんじゃないか?」
「私がしなくても、国広や短刀達が止めてくれるでしょう?」
「あんたが言えば済む話だ」
「私が口を挟むと全部命令に変わっちゃうんだもの。ある程度のことは近侍に任せるわ」
「またそれか……」
 自分の一言にどれだけの影響力があるか。それを理解している彼女は、余程のことでなければ口出しをするつもりもないらしい。
 山姥切の口からはため息が溢れた。
「ずっと気になっていたんだが……名立たる刀剣が集まったのに、どうしていつまでも近侍が俺なんだ?」
「なぁに? 誰かに何か言われたの? それとも近侍が嫌になってきた?」
「そうじゃない。ただ、前は──……」
 そこまで言って、はっと口を閉ざす。
 その話題は、彼女を傷つけるかもしれないと思ってずっと意図的に避けていたものだ。山姥切がそうであるように、また東雲自身も避けていたように思う。
 だがこの時、自然と山姥切の口から衝いて出たように、東雲もまた、審神者として自然と自らその話題に触れた。
「左様であるならば、なれど、忘るるなかれ」
 穏やかにそう言った東雲の表情は寂しそうではあるけれど、とても柔らかいものだった。静かに微笑む姿は主たる貫禄すら感じさせ、故に山姥切はその言葉の裏に潜む真意を汲み取れずに呆けた。
「ねえ、気づいてる? 出会う審神者はみんな『あの日』のことを話す度に『お可哀想に』って言うの。見習いの頃から立派な審神者になれると期待され、より良い戦績を残しては将来有望な審神者だと評価された。でも結果、あの日の私はあなた以外の刀を犠牲にして生き延びた。それを、みんなは『可哀想』だと言うの」
「……」
「部隊の壊滅なんて、悔しいけれど完膚なきまで叩きのめされた敗北だよ。でも、私はあの日のことを絶対に『可哀想』な出来事だとは思わない。どんな悲劇でも、あれは私の歴史。私が『弱かった』ことを証明する『経験』なの。戦を甘く見ていた私の過ちだった」
「主……あんた……」
「二度とあの日のことを『可哀想』だなんて言わせない。あの本丸で犠牲になった刀達のためにも、『可哀想』で片づけさせやしないわ。私がまた国広と一から始めたのは、政府の指示に従ったわけじゃない。これは、私の意思なの。犠牲になった刀達が繋いでくれた未来を……東雲という、誰の記憶にも残らない審神者の歴史を守るために」
 淡々と語る声に、力強さが増した。
 微笑が消えて、真剣な眼差しが山姥切を見据える。

「私は、初期刀は審神者の『志』であり、『誇り』であり、『覚悟』であると思う」
「だから山姥切国広。あなたはこれからも私の『強さ』の証明として、この本丸の総隊長として、近侍で在り続けなさい」
「それが私の想いに応えた、最初の刀の『役目』なのだから」

 付喪神たる故に、少しだけ見くびっていたのだろう。
 出会った頃はまだ少女と呼んでも良かった、そんな未熟な彼女も今は大人だ。
 立派な審神者として、多くの経験を経て成長した、この本丸の主だ。

 ──ああ、なんて、愚かな。
 ──この娘は、いつでも刀を刀として扱う。
 ──けれど不器用なほどに、そこに宿る想いを大切に想う。
 ──なんて愚かしいほど愚直で、愛おしい存在か。

「……今さら、主の目利きを疑うつもりはないさ」

 応えてみせよう。
 それが主の望みならば。

 守ってみせよう。
 この娘が守りたいもの、全てを。

 それが、生き残った俺の役目ならば。
 それが朽ち果てた仲間達の想いを背負った、初期刀の役目ならば。


 ──左様であるならば、この想い。


「これからも頼む。……俺は、主のための刀だからな」


 ──左様で、あるならば。
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