とある本丸の山姥切国広の物語 肆


 ──泣いている声がする。
 何も考えずあてもないまま桜が舞い散る政府本部の中庭を歩いていた山姥切は、木々の間を反響していく誰かの泣き声に足を止め、俯けていた視線を上げた。
 この中庭には、薄い霧が漂っている。それは刀剣男士だけにしか分からない霧のようで、人間には見えないものらしい。
 ここにやって来てもうどれぐらいの時が経ったのか分からないが、そんな長い時間の中で誰かの声を聞くというのは初めてのことだった。
 自分の視界を遮る霧の向こう側に目を凝らし、山姥切は声が聞こえる方向を探した。
「どうした、山姥切?」
「蜂須賀か……」
 キョロキョロと辺りを見渡している彼に声をかけたのは金色の鎧を身に纏った蜂須賀虎徹だ。たまたま通りかかっただけのようで、長く伸びた髪の間から訝しげに自分を見つめる彼に山姥切は耳を澄ましながら問いかけた。
「何か聞こえないか?」
「何か、とは?」
「人の泣き声のような……」
「……?」
 ますます眉を潜めた蜂須賀は山姥切から視線を逸らし、辺りを見渡して耳を澄ませた。
 そして、しばらくの沈黙のあとに彼はゆっくりと首を横に振った。
「……いや。何も聞こえないが」
 山姥切は口を閉ざした。彼がそう言うのであれば、おそらくこの声は自分にしか聞こえていないのだろう。
 蜂須賀もなんとなくそれを察したようで、少々苦笑いを浮かべた。
「そう言えば、お前はここに来て長いというのに、一度も審神者の声を聞いたことがなかったんだったか」
「審神者の声?」
「ああ。自分を求める審神者の声だ。俺も前の主と出会った時はここで声を聞いた。その時は泣き声ではなく人を呪う言葉ばかりだったが……今思えば、おそらくあれは主の心の声だったのかもしれない」
「審神者の……」
 山姥切は呟き、再び泣き声に耳を澄ました。声は木々の間を反響しながら風に乗って通り抜けていく。
 ザワザワと葉の擦れ合う音に紛れて少しずつ大きくなっていくその声に、山姥切は顔をしかめた。
「……これが、俺の主の声だと?」
「かもしれない、という話だ。そうでなくても、君に助けを求めているんじゃないか? 必ずしも審神者全員が自ら望んでここに来るわけではないからな」
「写しの俺にできることなんて何もない」
 助けを求められたところで力になってやれないし、迷惑なだけだ。山姥切はぼそぼそと呟きながら襤褸布を目深に被り、視線を地面に落とした。
 そんな彼を見た蜂須賀はやれやれと肩を竦め、背を向ける。
「まあ、会えば分かると思うよ。審神者と出会った後にどうするかは、君が決めることだ。声が聞こえない俺にはどうすることもできない」
「……」
 無情にもばっさりと切り捨てて立ち去っていく彼に山姥切は何も言えず、ただ黙って遠退いていく金色の鎧に包まれた後ろ姿を見送った。
 泣き声はまだ止まない。
 しかめっ面で振り返った山姥切は溜め息を吐き出し、渋々とその声の主を探して歩き始めた。
 それは意外にもすぐ見つかった。政府の施設から真っ直ぐ北に向かって、大きな木の下。何をするわけでもなく、一人の少女がただ木を見上げながら呆然と突っ立っていた。
「……そこで何をしている?」
「……え」
 山姥切の気配に気づいていなかったらしい。少女は驚いたように振り返り、目を丸くして山姥切を視界に捉えた。
 その目と視線が交わる前に、山姥切は視線を逸らす。
「泣くならもう少し場所を選べ。煩くて仕方ない」
「え、と……」
「生憎だが、俺は気の利いた言葉はかけてやれん。慰めが欲しいなら他の奴を──」
「いえ、あの……すみません。泣き声を上げた覚えがないのですが……」
「何……?」
 山姥切はもう一度少女に目を向けた。そこで、己の失態にようやく気づく。
 彼女の目には少しも涙が浮かんでいなかった。潤んでいるわけでも、悲しみに暮れた表情を浮かべているわけでもない。
 ただ不思議そうに、物珍しそうに山姥切を見つめているだけだった。
 しかし、この声は間違いなくさっきまで聞こえていた泣き声と同じである。
(……どういうことだ)
 混乱した山姥切は恥ずかしさから視線を逸らし、襤褸布で顔を隠した。
 そんな彼をきょとんと見つめていた少女は首を傾げながら、けれど突然、おかしそうにクスクスと肩を揺らして笑う。
「あなたは……泣いてると思って慰めに来てくれたんですね。見ず知らずの私のために」
「違う。勘違いするな。俺以外に声が聞こえないというから仕方なくだな……!」
「はい」
 考えてみれば、随分と奇妙な話だ。にこにこと笑う少女がここにいるのに、中庭に響いているのは泣き声だけ。
『……今思えば、おそらくあれは主の心の声だったのかもしれない』
 蜂須賀の言葉が脳裏を過り、まさか、と山姥切は少女の顔を凝視した。
 ──ここは政府本部の中庭だ。審神者と初期刀を繋ぐ始まりの場所であり、『審神者の墓場』とも呼ばれている。墓場と言ってしまうと聞こえが悪いので政府本部の職員達はあえて『記憶の場』と名付けているそうだが、つまりそれは、この中庭で審神者が己の過去を失うということなのだ。
 現に、目の前の彼女からは少しも悲しみを感じているようには見えない。
「……忘れたのか」
 ここにいる少女は、もう記憶がない。だけど、彼女の中に残っている『何か』はずっと覚えているのだ。
 ぽつりと呟いた山姥切の言葉を理解したらしい。少女は眉尻を下げ、今度はその笑みを頼りなさげなものに変えた。
「……審神者になる者達の、逃れられない掟だと」
「……」
 山姥切は口を閉ざした。審神者から記憶を奪うのは、審神者自身が己の過去を変えぬように、という政府の予防策だったのだ。嫌な思い出はずっと審神者の心を蝕むし、刀剣男子達にも影響があるかもしれない。
 ──否、『前の主』の話をした蜂須賀は出戻りの初期刀だった。聞いた話では、その主が自身の日記を隠し持っていて、それを見つけたきっかけで記憶を取り戻してしまったのだとか。そうして悲惨な過去を思い出した審神者は心が闇に囚われ、やがて刀剣男子も時の政府のことも信じられなくなり、本丸を壊滅に追いやったという。
 そんな審神者のように、もしかすると歴史修正主義者に寝返ってしまう者が他にもいるかもしれない。だから、審神者の記憶は政府によって必ずその記憶を消されてしまうのだろう。
「良いんです……過去に何があっても、私はもうこの道を歩くことしかできないのですから」
 諦めにも似たその表情の裏に隠された思いは何なのか。人の姿を保って長い時を経たが、人と接することなんてほとんどなかった山姥切には想像もできなかった。
 するとその時、「東雲様!」という呼び声が響いた。呼び声に反応した少女が顔を向け、同時に山姥切はそれが彼女の名前であると気づく。
 東雲と呼ばれた少女と同じ方向に目を向けると、少女が「若竹さん」と自分を呼んだ人物の名前を紡いだ。
 軍服に身を包んだその人物は時の政府本部で働く若い女の職員だ。
「……誰かと、話していたのですか?」
 若竹はちらりと山姥切の方に目を向ける。
 しかし、懐疑心を露わにしたその目はゆらゆらと動き、山姥切とは少しも視線が交わらない。
 どうやら彼女には山姥切の姿が見えていないようだ。山姥切は気配を悟られぬようにそっと視線を逸らした。
 その視線の先にいた東雲は、彼をちらりと横目で見てやんわりと微笑む。
「……ええ。優しい刀の付喪神様と、少し」
「……そうですか。ですが、そろそろ庭の奥へ参りましょう。あなた様の初期刀を選ばなければなりません」
「わかりました」
 若竹の言葉に頷き、東雲は山姥切に軽い会釈をして彼女のあとに続いた。
 山姥切は彼女の後ろ姿を見送ろうとした。
 だが、彼はなんとなく、本当になんとなく彼女の行く末が気になってしまい、無意識に気配を消してこっそりと二人の後を追いかけた。


 彼女達が足を運んだのは、庭の中心部にある広間だった。そこにはいくつもの刀が安置されており、後を追いかけてその広間に辿り着いた山姥切はそこに自身の刀身が存在していることに気づいた。
(こんな所にあったのか……)
 記憶の場を徘徊する刀剣男士は刀を所持していない。その理由は、この中庭そのものにあったのだ。
 主もおらず、かといって自身が政府に忠誠を誓っている訳でもない。刀剣男士はあくまで付喪神であり、物だ。顕現さえされれば審神者に協力することはあっても、本来あるべき持ち主がいない今の彼らに自ら刀を手に取る理由はない。
 だから、中庭を徘徊している刀剣男士は誰一人として刀を持っていなかったのだ。それどころか、きっと魂魄の状態である自分達には本体に触れることすら叶わないだろう。
 なるほど、と一人で辿り着いた答えに納得し、山姥切は彼女達を見守ることにした。
 若竹と呼ばれた政府の女は『初期刀を選ぶ』と言っていた。それはつまり、ここにある刀の中から己の一番刀を審神者が自ら選ぶということなのだろう。
 ──まあ、どうせ自分が選ばれることはないのだろうけど。
 何となく彼女のことが気になってつい後を追いかけてきたものの、そんな卑屈の考えが過った山姥切は布を目深に被り直し、視線を下に向けた。
 それでもここを離れられないのは蜂須賀の話が忘れられず、「もしかしたら……」という僅かな期待が胸の内にあるからだ。
 長い月日を経てようやく出会えた人の子だ。それが子供であれ女であれ、自身を戦場に立たせてくれるのかもしれないという希望に、山姥切は密かに胸を躍らせていた。
 そして、奇跡は起こった。
 彼のその小さな願いが通じたのか、信じられないことに彼女は山姥切の期待に見事応えてくれた。
「この中から最初の刀をお選びください。それがあなた様の初期刀となり、今後本丸を運営していく上で心強い支えとなってくれるでしょう」
 若竹がそう言うと、東雲はぐるりと辺りに置かれている刀を見回したあと、真っ直ぐに一つの刀に歩み寄った。
 沢山ある刀の中から、少し離れた場所にある一振り。それが、山姥切の本体だった。
 彼女はそれに手を伸ばし、両手で優しく持ち上げる。それから彼女は、まるで最初から気づいていたかのように山姥切を振り返った。
「私は、あなたを選びたい。──……一緒にきてください、山姥切国広様」
 どうして彼女が自分を選んだのか。
 どうして自分がそこにいると分かったのか。
 気になることはいくつかあるが、山姥切はそれよりも己の名を呼ばれたその瞬間に胸の内側から言い表せぬ喜びが心を満たすのを感じた。
 風が吹き抜けて、中庭に咲く桜の木から花弁が舞い上がる。辺り一面を包んでいた霧が眩い光に包まれたあと、ぐんっと何かに意識を引っ張られるような錯覚を感じた山姥切が次に目を開いた時、彼は雪のようにひらひらと舞う花弁の中で微笑む己の新しい主の顔を見つめた。
「山姥切国広だ。……何だ、その目は。写しだというのが気になると?」
「いえ、改めて綺麗なお方だなぁ、と思いまして」
「きっ……!? ……綺麗とか、言うな」
 慣れない褒め言葉に布を引っ張って顔を隠す。しかし、そんな言葉に耳を貸すことなく、東雲と呼ばれた少女は「事実ですので」と朗らかに笑うのだった。


 東雲の審神者。石見国エリアではその実力において右に出るもの無しと謂われるほど優秀な審神者であるが、山姥切の記憶にある審神者とはごく普通の、どこにでもいるような人間の女だった。
 そもそも、本人は自分が優秀だとは考えていない。むしろ、優秀なのは戦場に立っている山姥切達の方だと思っているような審神者だ。
 たとえ自分が指揮を執る立場だとしても、実際に動くのは己ではなく刀剣男士。自分ができるのは戦場にいる刀剣達が折れぬよう最善を尽くすだけだ、と言うのは他ならない彼女の口癖だった。
 大半の政府や他の審神者達はそれを謙遜として受け止めているが、山姥切はそう捉えたことは一度もない。
 ──審神者の言葉は、真実だ。
 戦場に立つのは刀剣男士。
 実際に刀を振るうのは審神者でなく、付喪神。
 審神者に求められる力量は己の身を守る術と知恵のみ。
 それを理解していないのか、定例集会で戦績を褒められて己の力であると驕る審神者が次の集会で姿を見せなくなる、というのは珍しくはなかった。
 だからこそ、山姥切や他の刀剣男士達は自分の主を誇らしく思う。東雲という人間が他のどの本丸の審神者よりも優秀であると、その主の下で戦えることが嬉しいと思うのは、皆同じだった。

 けれど、その東雲も最初から優秀だったわけではない。
 彼女にもまた、顕現したばかりの刀剣達と同じく未熟だった頃があった。
 その頃の審神者のことを知るのは、今では初期刀の山姥切だけだ。

 炎に包まれた本丸。
 響く怒号。
 ゆらゆらと蠢く侵入者。
 ぱきん、と鉄の塊が壊れる音。
「本当に、ままならんなぁ」
 金色の瞳が柔らかく微笑んで、意識を失った審神者に手を伸ばし、煤けて汚れた頬を撫でる。
 それはほんの一時の出来事で、白と青の着物が燃え上がる火の中で翻る。
 彼らは互いの間を通さぬと言うように己の刃を交差させ、目の前に佇む巨体とそれを従えながら静かに微笑む人間を鋭い眼差しで見据えた。
「行け、山姥切国広」
「しかしっ……!」
「俺達はまだ負けてないさ。主は生きている。このままお前さんが転送装置まで逃げ切れば、俺達の勝ちだ」
「初期刀は主が自ら選んだ、己の支えとなる刀。今ここで、お前まで失う訳にはいかぬのだ」
 ──頼んだぞ、近侍殿。
 二振りの刀はそう言って肩越しに口元に笑みを浮かべて見せた。儚げに、けれど普段と同じように笑った仲間に、山姥切は何と声をかければ良いのか分からなかった。
 そうこうしている間にも二振りの刀は地を蹴り、その見た目や普段の優雅な振る舞いからは想像できないほど荒々しく刀を振り上げ、敵へと目がけて勢いよく斬りかかっていった。
 その瞬間、時間遡行軍の将たる人間の男がその赤い目で山姥切を捉え、笑みを深くした。
 それは勝者が見せる愉悦を帯びたものに酷く似ていて、同時に審神者を見つめるその眼差しは恍惚としたものを感じさせる。
「ああ、ようやく……ここまできた……」
 無抵抗なままそう呟いた男を護るように、時間遡行軍が刃を受け止める。そのまま弾かれた二振りが体制を整えて着地すると、彼はその妖しく光る赤い目で「この程度か」と言わんばかりに見つめた。
「邪魔だ。殺せ」
「っ……」
 歯を食いしばり、山姥切は己の腕の中で意識を失っている審神者を強く抱きしめる。
 悔しい。悔しい。できることならこの場にいる全ての敵を己の手で屠り、一人残らず始末してしまいたい。
 だが、今の自分ではそんなこと到底できそうにない。力の差は歴然としており、それを照明するかのように地面に砕け落ちた刀達の姿が、本丸が燃え落ちてゆく光景が、忘れるなと言うように山姥切の目に焼き付いていく。
「山姥切!!」
「走れ!!」
 男の命令に動き出した時間遡行軍の刃を受け止めながら、焦りと怒りが混ざる力強い仲間の声。
 その声が後押しとなって、山姥切は後ろ髪を引かれる思いを残しながら審神者を抱えて走り出した。
 主を護るために、自分達が生き残るために、走ることしかできなかった。
 彼は一心不乱に本丸内を駆け抜け、目的地を目指す。
 そうして命からがらようやく転送装置の所まで辿り着くと、それを起動させ、置き去りにしていく仲間達を振り返った。
 その目に静かな怒りの炎を灯しながら、山姥切は己の刀を力強く握りしめる。

 審神者と一から築き上げた最初の本丸。
 ここは最前線で戦う審神者の本陣であり、彼女が帰る唯一の場所となった『家』だった。
 だが、同時にそこが戦場となることもあり得ることを、山姥切は強く心に刻みつけた。

 二二××年、八月十五日。
 この日、将来有望と言われた東雲の審神者が率いる刀剣部隊は壊滅した。


 *** *** ***


 ガヤガヤと賑わう町の中を歩く。
 道行く人達は誰も山姥切に目を向けない。目立つ出で立ちだというのに、誰も彼がそこにいることを認識していないようだった。
 自分に目を向けない彼らに対して何か思うところがあるかと問われれば、山姥切の答えは否だった。
 刀剣男子がその時代の人間達に認識され難いというのは、出陣や遠征の任務でもよくあることだ。声をかければ反応こそあるが、ただ町を歩くだけなら誰も気に留めない。
 それはおそらく、山姥切自身が刀剣男子という付喪神であり、その姿を人間の霊力で保っているということに理由があるのだろうと考えられる。
 つまり、霊力が高い人間でなければ自ら彼らを認識することはできないのである。
 そんな都合の良い状況を利用して、山姥切は歩きながら先ほど見つけた審神者そっくりの女性のことを思い返す。
 彼女が遊女であるのは明白だ。安室が朝方に帰ってくる理由が彼女にあることは、言わずもがなである。人目を避け、彼女と束の間の逢瀬の時間を作っているのが何よりの証拠だろう。
 そして、あの糸──東雲の縁が反応したということは、少なからず現世にいる彼女にも何かしらの影響があるのかもしれない。
 もしそうならば、あの二人の関係はより強いもので結ばれているということだが──。
「!」
 人混みの中で、ひらりと布の端が見えた。山姥切と同じく布を被ったあの謎の人物だ。
 道行く人は誰も彼を気にしない。ということは、やはり彼は刀剣男士なのだろう。
 だが、単身でこの時代に潜んでいることが山姥切には理解できなかった。
 思考を中断した山姥切はすぐにその布が見えた方へと足を向け、後を追いかける。
 相手もまた、山姥切が追って来ると分かっていたようだ。人目を避けるように狭い路地へと入ると、彼はその足を止めた。
「何か用かな?」
「あんた、刀剣男子なんだろう? 俺は今すぐ本丸に戻りたいんだ。帰還する術があるなら教えてくれ」
「……? ……一応、話を聞こうか」
 何か思うところがあるのか、彼は山姥切の方へ振り返った。
「俺の所属している東雲本丸が襲撃を受けている。俺は時間遡行軍との交戦中にこの時代に飛ばされてしまったんだ。ここで過ごした時間が長かったせいで今は本丸がどうなっているか分からない。主の霊力がまだここに残っている限りは可能性があると信じたいが……」
「襲撃だと? そんな話は…………いや、そうか。そういうことなら辻褄は合う」
 謎の人物はそう言って一人で納得すると、仕方ないと言わんばかりにため息を吐きながら話を続けた。
「俺は政府からとある命を受け、この放棄された世界に来ている」
「? 放棄……された?」
「何度も改変を重ね、歪み、そして正史から外れてしまった世界だということだよ、偽物君」
 偽物。耳に残るその悪意が込められた呼び方に、山姥切は目くじらを立て、その目にあからさまな怒りと苛立ちを滲ませた。
「自分は名乗りもせずに俺を『偽物』呼ばわりか。……偽物は、写しとは違う」
 鋭い眼差しで相手を睨みつけ、嫌悪感を隠さず言い返す。
 すると、謎の人物はその布から見える口元を静かに緩め、おかしそうに笑みを象った。
「十分『偽物』だろう? この俺を差し置いて『山姥切』の名で顔を売っているお前が、まさかこの世界で一人彷徨っているとは思いもしなかったが」
 言いながら、彼はおもむろに自身が目深に被っている布を頭の後ろへとずらし、その顔を惜しみなく曝け出した。
 山姥切とは対照的な銀色に染まった髪の間から、瑠璃色の瞳が挑戦的な色を浮かべている。自信と自尊心に満ち溢れた強い意思さえ感じられるその瞳を見つめ返しながら、山姥切はまさか、と自分の中に沸き上がった疑念に目を見開いた。
「俺は山姥切長義。俺こそが備前長船の刀工、長義が打った本歌『山姥切』だ」
 包み隠すことなく名乗りを上げた彼に、山姥切は静かに心の中で「ああ、やはりな」と独り言ちた。そうでなければ、彼の口から『偽物』だなんて言葉が飛び出すはずもなかったのだ。最初から山姥切に対して敵意を向けていたことにも納得がいく。
 ついに、この時が来たか。本物の山姥切を前にしたら、東雲は何を思うだろう。
 一瞬だけそんな考えが脳裏を過ったけれど、その前に山姥切がしなければいけないのは彼の言う『放棄された世界』から主が待つ本丸へと帰還することだった。
「本歌のあんたが顕現されたという情報はまだ本丸には届いていなかった。ということは、あんたも政府に置かれていた身か……どうして仲間も連れずこんな所にいる?」
「そうだな……まあ、事は一刻を争うようだ。説明しよう。……最初に東雲の本丸が襲撃を受けた時点で、政府は時間遡行軍の侵入経路を辿り、この放棄された世界への経路が一時的に開かれていることを確認した」
「!? この世界から奴が……!?」
「審神者会議でも事前に通達されただろうが、本来なら敵に本丸の座標を特定されることはない。信じ難い話ではあるが、内通者の可能性は十分にあった。再び東雲の本丸が襲撃を受けたというのであればきっとその存在は間違いないだろう。そして援軍がすぐに出ないのであれば……おそらく現世にある政府本部も時間遡行軍による襲撃を受けていると考えていいかもしれない」
 援軍を阻止するのは戦において基本である。
 長義の説明に山姥切は否が応でも納得するしかなかった。
「偽物君が置かれた状況は確かに最悪だろう。だが、そう悲観することはない。お前は運がいい」
「どういうことだ?」
「おそらく、俺達はお前のいた年代よりも過去にあたる。上手くいけば……いや、『お前なら』望む時間に還ることができるだろう」
「!」
「だが、すぐには帰してやれない。俺達にも仕事があるんでね……。当時、敵に関する手掛かりがこの世界にあると分かっても、その時に奴らが使った侵入経路はすでに閉ざされる寸前で、こちらが攻め入ることも不可能だった。そこで政府は作戦を切り替え、時代と場所を特定しすることに専念し、政府に属する俺達監査官が調査することになったんだ」
「監査官……」
 聞き慣れない役職に山姥切はまた眉を顰め、怪訝な顔をする。
 歴史を守る戦いが始まってから随分と長い時間を要しているというのに、時間遡行軍のことも刀剣男士のことも謎に包まれていることは多い。
 時の政府なるものについてもそうだ。現世に本部を構えてこそいるが、いつからあの施設が建てられ、現代に繋がる技術が備えられたのか知る者は限られているのだろう。
「俺達は今、この放棄された世界でとある人物を調査している。それが君と一緒にいたあの『透』という男だった訳だが……」
「……この世界は、正史から外れたと言っていたな。この世界で歪められた歴史とは何だ? あいつと何の関係がある?」
「あくまで後世に語り継がれることのない、隠された人の歴史さ」
「……?」
 山姥切は首を傾げた。
「現代の人間は、どこの学び舎でも同じ歴史を覚えるだろう? しかし、伝えられるのは長い時間のほんの一部の出来事だけだ。それは何故か……答えは簡単だ。伝えるべき人間達が『知る必要のないこと』だと判断し、隠蔽したからだ」
「では、この時代は……その隠蔽された歴史が変わってしまったと……?」
「そうだ。お前も、あの男が遊女と逢瀬しているところを見ただろう。気づいていると思うが、彼女は東雲の審神者の前世の姿だ。奴はこの数日間で何度もあの遊女の所へ出向いていた」
「……知っている。香の匂いを纏って明け方に帰って来ることが何度かあった。そして、時々血の臭いを纏って帰ってくることも」
 山姥切がそう言って頷くと、長義は少し呆れを含んだ笑みを浮かべて告げた。
「その時点で何か怪しいと思わなかったか? あの男の正体は同心──隠密廻りだよ」
「隠密廻りだと……? 透が?」
「ああ。それも、数年後にはあの坂本龍馬を暗殺する張本人だ」
「な……」
 信じられないと思った。
 しかし、同時に「同心なら」と納得もできる。現代において、隠密活動をしていた者達の情報はあまりにも少なく、その活躍も語り継がれることがない。唯一彼らの歴史を知るであろう刀でさえ、その一生を主と共に終えてしまうのだ。
 透が夜な夜な血の臭いを纏って帰ってくることを考えると、彼が隠密廻りであるという事実は腑に落ちる。
「奴が足く花街へと出かけているのは、そこで情報を仕入れているのだと思うよ。その協力者の一人があの遊女なんだろう。……まあ、彼女は近いうちに一人の客によって殺されてしまうのだけれどね」
 山姥切は絶句した。
 いくら見知らぬ他人だとは言え、自分が守ると誓った主と同じ顔をした人物の死を知らされるのは幾分か衝撃があった。
 そんな山姥切の心を知ってか知らずか、長義はふんと嘲笑った。
「この時代では、そう珍しい話じゃないだろう。女の間者は存在していたし、どこからか彼女のことが漏れていた可能性は十分にある。そして、その運命を受け入れられなかった者も、ね」
 おそらくそれが、あの透という男だ。
 そう言った長義の言葉が、山姥切の頭に何度も響いた。
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