とある本丸の山姥切国広の物語 参


「山姥切は、主を神隠ししたいと思ったことはないのかい?」
 声をかけられて、心臓が大きく脈打つ。
 カリカリとペンを動かしていた手を止めて、山姥切は顔を上げて目の前に座る刀へ目を向けた。
 向かいに座っていた長谷部は何食わぬ顔で手元の書類を見つめたままだった。彼が今書いているのは主が審神者会議で不在の際に行った遠征の報告書だ。手を休めることなく、彼はペンを動かし続けていた。
 声の主は、彼ではない。
 山姥切は手を休めて障子の向こう側に腰かけている刀に顔を向けた。その眼差しは相手を探るように鋭く光っている。
「いきなり何だ、鶴丸」
 胡座をかいて障子に凭れて座っていた鶴丸は肩越しに山姥切を見ると、含み笑いを浮かべる。
 唐突な質問に驚いたのは山姥切だけでなく、彼と一緒に縁側でお茶を楽しんでいた伊達の刀達も同じだった。燭台切と太鼓鐘貞宗、そして普段は群れることを好まない大倶利伽羅。長谷部以外の全員の視線が彼に向けられた。
「いや、なに。この本丸で主と一番長い時を過ごしているのは、他でもない初期刀の山姥切だろう? だから、そういった気の迷いは起きないのかと思ってな」
「……馬鹿馬鹿しい」
 はあ、と深いため息を吐いた山姥切は、出陣の報告書を仕上げるために再びペンを動かした。
 鶴丸は肩を竦めた。
「俺はあるぜ」
 バキッと音がした。チラリと顔を伏せたまま山姥切が目線を上げれば、長谷部の手の中にあるペンがへし折れているのが見えた。
 鶴丸が発した声に、ぴん、と張りつめた空気が漂う。それは主に長谷部からだったが、彼の意図が読めない伊達の三振りも戸惑いながら、ほんの少し緊張感を漂わせていた。
 そんな中、山姥切は鶴丸を一瞥しただけだった。そして大して興味もなさそうに書類に視線を戻し、今度こそ仕事の手を休めることはしなかった。
「俺達の主は、政府から一目置かれるぐらいに優秀だ。刀として大切に扱ってくれる審神者を主と呼べることは、幸運なことだと思う。俺達がこうして思う存分に己自身を戦場で振るうことができるのは、他でもない主のおかげだ」
 鶴丸は縁側から見える景色を眩しそうに眺めながら「だから」と続けた。
「俺はあの赤い糸が、少しだけ憎い。俺達の大切な主をいつか攫っていくあの縁を、何度切ってやろうと思ったことか」
「……鶴さん」
 太鼓鐘が何か言いたげに口を開いて、俯く。そんな彼の頭を撫でる燭台切も思うところがあるらしく、寂しげに視線を落としている。大倶利伽羅すら何も言わなかったが、彼もまた静かに視線を手の中の湯飲みに向けていた。
「ままならぬことは、少々つまらん」
 普段の飄々とした振る舞いを払拭し、鶴丸はしんみりとした声音で、寂しげに微笑みながらそう呟いた。

 自分達の主は、人間だ。
 自分達が守るべき歴史の、その未来に生きるヒトの子だ。
 だが、今まで守ってきたその愛しい子を、見ず知らずの人間にいきなり奪われるのは癪だ。

「少なくとも、俺はお前も同じだと思ってるぜ。山姥切」

 鶴丸のその言葉に、山姥切は唇を引き結んだ。
 紙面を滑らせていたペンの先が、ほんの少しだけ、震えていた。


 世界が暗転して、意識が浮上した。
 ゴリゴリと何かを擦るような音が聞こえ、次にカチャカチャと陶器がぶつかり合う音がした。
「っ……」
 ずきりと痛む腹部を抑えながら、山姥切は目を開いた。
 見慣れた木目の天井が見えた。本丸の医務室でよく薬研が漂わせている匂いもする。確か、これは薬草をすり潰した時の匂いだ。手入れ部屋に入らなくても治るようなほんの軽い怪我は薬研が手当てをしてくれていたので、よく覚えている。
「あ、目が覚めましたか?」
 声が聞こえて、首を動かした。
 開いた障子からふわりと風が入り込んで、自分と同じ金色の髪がゆらゆらと靡く。海のような深い青色をした瞳を柔らかく細めて、一人の男がこっちを見ていた。
 その顔を視界に捉えた瞬間、山姥切は反射的に飛び上がり身近にあった刀に手を伸ばした。
「お前っ……!」
「安心してください。僕はあなたに何もしませんよ」
 優しい微笑を携えた男はそう言いながら、山姥切に少し薄緑色の液体が入った器を差し出した。
「ここは僕の家です。傷だらけのまま山道で倒れているのを見つけたので、勝手に連れて帰りました。とりあえず、これを」
 山姥切は自分を保護したという男の顔をじっと見つめ、困惑しながらも痛みで少し震える腕でその器に手を伸ばした。そっと器を受け取った山姥切は、身に覚えのあるその液体を見てうっ、と顔をしかめる。
「……煎じ薬か」
「早く治したいなら、ちゃんと飲んでくださいね」
 ニコリと満面の笑顔でそう言った男に思わず舌打ちを零しそうになるのを堪え、山姥切は言われた通りそれに口をつける。本当は警戒して遠慮するべきなのだろうが、あまりに人の好い顔をするので疑い過ぎるのも躊躇われてしまった。
 息を止めて全て飲み干したが、口の中に残った後味があまりに不味くて吐きそうだった。口を抑えて俯きながら器を返す山姥切を見て、男は軽く笑い声を上げる。目覚めた直後より顔色が悪くなったことは見て見ぬフリのようだ。
「あははっ。ちゃんと飲めましたね。偉い偉い」
 馬鹿にしているのか、この男。
 山姥切は青筋を浮かべてギロリと睨みつける。が、顔色が悪いせいで覇気を感じられないのだろう。その証拠に、男は全く相手にしていない様子だった。
 ここで、しばらく男を睨んでいた山姥切は我に返った。
 さっきこの男は山道で倒れていたところを連れ帰ったと言ったが、自分は東雲の本丸で迎撃戦を行っていたはずだ。敵の大太刀の追撃を受けてあの壊れた転移装置に放り込まれたまでははっきりと覚えている。
「すまない! 今、何年の何月何日だ!?」
「? 元治元年の四月二五日ですが……」
「元治元年……」
 山姥切は顎に手を添えて考える。
 確かその年は池田屋事件が起こり、歴史修正主義者がよく関与してくる時代だ。やってくる時間遡行軍もそこそこレベルが高く、いくら数多くの戦場を切り抜けてきた山姥切でもたった一振りで相手をするのは骨が折れる。
(早く帰らないと……)
 それに、ずっとここに居ては、いずれ検非違使もやってくるだろう。彼らは自分達と同じく時間遡行軍と相対する存在だが、何の意図があってか、その時代に常駐する全ての異物を良しとしない。刀剣男士と同等の力を持つ彼らを相手に生き残れる可能性は非常に低かった。
「どうかしましたか?」
「い、いや……すまない、世話になった。俺はもう帰――ぐおっ」
 痛む体を何とか動かし、布団の横に置かれていた刀を手にして立ち上がる。その瞬間、彼が身に纏っていた襤褸布が青年によって引っ張られ、山姥切は無様にも尻もちをついてしまった。
「なっ、何をする!?」
「その怪我で、そんな奇妙な装いをしていたら普通に目立ちますよ。また野党にでも襲われたいんですか?」
「いや、俺がここに居る方が危険なんだが……。というか、あんたも大概変わった風貌じゃないか」
「ええ。あなたの言う通り、僕はこの国では珍しい髪と肌の色でして……あまり人の多いところで過ごすことができないんです」
 にっこりと笑いながらそう言った彼に、山姥切は口を閉ざした。
「だからここ、僕の隠れ家になってるんですよ」
「……つまり?」
「追われているなら、ここでしばらく隠れていては?」
「……悪いが、仲間も襲われているんだ。早く戻らないと」
「どこへ? どうやって? さっきも言いましたが、あなたはここからすぐ裏手にある山道で倒れていたんですよ? 僕がそこを通った時には誰かと争った形跡はなかった。獣の足跡すら見つからなかった」
「それは……」
 山姥切は歯切れ悪く言い淀む。
 彼の言う通り、山姥切は山道で襲われたわけじゃない。本丸だ。
 どうやって戻れば良いのかも分からないが、それでもここで養生しているうちに本丸は壊滅に追い込まれているかもしれない。
(主……)
 山姥切にとって一番気掛かりなのは審神者のことだ。審神者の力がなければ山姥切は刀身に戻ってしまうので無事ではあるのだろうと思うが、それでも彼女が怪我をしていないか心配になる。
「せめて、怪我が治るまで休んでいってください。あなた一人匿うなんてこと、どうってことはありませんから」
 その言葉に、黙っていた山姥切は怪訝な表情で青年を見つめた。
「助けてもらったことには礼を言う。だが、どうして見ず知らずの俺を助ける?」
「え? 困っている人を助けるのに理由がいるんですか?」
 不思議そうに首を傾げている彼は、本当に善意で助けてくれようとしているようだった。そう言われてしまっては山姥切も何も言えず、ただただ肩を竦めるしかない。
 その仕草を諦めと受け取ったらしい。青年はくすっと小さく笑った。
「僕は透といいます。あなたの名前を伺っても?」
 逡巡して、山姥切は仏頂面で答えた。
「……国広だ」


 *** *** ***


 ぜー、はー、と息を切らしながら若竹と背中合わせで異形の者と向き合う降谷は、己の手の中にある欠けた刃を見て舌打ちを零す。
「これは……キリがないな……」
 若竹はちらりと周囲を見渡し、遡行軍の亡骸を見て挑戦的な笑みを浮かべた。
「死んだ仲間の獲物を手に遡行軍に攻撃を仕掛けるなんて……あなた、本当にただの人間ですか……? 化け物ですね」
「失礼ですね。僕はこれでも警察官なんですよ? この国を脅かす存在を排除したまでです」
 まだ二人の目の前には時間遡行軍が立っている。さっきから本部に所属している部隊が総動員で討伐にあたっているというのに、敵の数は一向に減っている気がしない。
「戦闘に特化した警察官なんて、聞いたこともありませんが」
「僕も、このご時世で刀を振り回してる軍人なんて見たことなかったです」
「それはそれは。良い経験になりましたね」
「そっちこそ、また一つ賢くなったんじゃないです、かっ!」
 びゅん、と飛んできた短刀の体を躱して、降谷は刀の切っ先を突き出しそいつを壁に押しつけた。グサリと壁にぶら下がったそれは、ビクビクと体を震わせてそのままだらりと力を失う。
 その降谷の背後から迫ってくる打刀の刃を、今度は若竹が割り込んで自身の刀で防ぐ。しかし、力の差で押し負け、刀が弾かれた。
 ぐらり、と体が傾く彼女の隙を狙い、打刀が容赦なく続けて刃を振り下ろす。しかし、それはパンッと短く響く音と共に遮られた。どさりと尻もちをついた若竹は、打刀の手が赤く染まったのを見て呆然とする。
「立て!」
 降谷だ。彼は咄嗟に懐に隠し持っていた銃を取り出し、打刀に向かって発砲したらしい。
 若竹はすぐに刀を手にして打刀に斬りかかる。
「ここで食い止め続けるのは無理があるぞ!」
「くそっ……結界の保護システムはまだ回復しないのか!!」
 遡行軍に応戦している政府の職員達も体力に限界がきているようだ。一人、また一人と仲間が倒れていくのを見て、若竹と同じ職員達は少しずつ後退を始めた。
(まずい……)
 降谷は周りを見渡してその目に焦りを滲ませた。
 敵は残り一体にまで減らせているというのに、明らかに全体の士気が下がっている。職員達の表情には疲労しか見えない。
 降谷は最後に残った大太刀を見た。図体も他の時間遡行軍に比べて遥かに大きく、素人から見ても、あれは常人が相手をするには抵抗を感じる相手だろう。何度も斬りかかられているというのに、その巨体には傷一つ付いていなかった。
「くそっ……まだ東雲のところへ応援も出せていないというのに……!」
 若竹が悔しげに呟く。
 降谷も同じく劣勢になっている戦況に顔を歪めた。
 ――その時だった。
 びゅん、と一つの陰が大太刀の背後から飛び出し、目にも止まらなぬ速さで敵を切り刻んだ。声を発することもなく、どぉん、と大きな音を立てて大太刀の巨体が地面に倒れていく。
 ──誰だ。
 瞠目した若竹達が動きを止め、素早い太刀筋に見惚れていた降谷も同じく呆然とする。
 宙を舞って華麗に着地したその人物を、全員がその目で追った。
 血塗れの襤褸布がばさりと翻り、赤橙色の鉢巻と金色の髪がふわりと靡いた。


 *** *** ***


 透と名乗った青年は山姥切と同じく幼げな表情をしているが、歳はもうすぐ二九を迎えるらしい。普段は何をしているのか聞いてみれば、老夫婦が自由気ままに営む茶屋で働きながら、本人もまた呑気な生活を楽しんでいるという。
 老夫婦の気分で店を開けていると言っていたが、そんな調子で儲かるのか。首を傾げてしまったが、彼が振る舞う料理は決して贅沢なものではないというのに、どれも絶品だった。これなら、例え短い時間でも営業しているだけで店は繁盛するだろう。年老いた者達にはそれぐらいの営業時間でちょうど良いのかもしれない。
「燭台切といい勝負だな……」
「え? 何か言いました?」
「いや、何でもない。美味いと思っただけだ」
 聞き取れなかった透の質問に、山姥切は味噌汁を口に含んで誤魔化した。
 山姥切がここで過ごし始めて早数日が経った。痛みを軽減させるため、薬の中に睡眠薬も混ざっていたのだろう。何度か痛みに呻いて目を覚ました記憶はあるが、気がつけばそんなにも時間が経っていた。
 今日の陽はまだ高いところあるが、竹林しかない家の周辺はとても静かだ。人里から離れているというのは、どうやら本当だったらしい。これだけ静かだと敵の気配も感じやすいので、山姥切にとっては有り難い環境だった。
 ――さて、どうしたものか。
 黙々と食事を進めながら、山姥切は今後の予定を考えた。
 透には悪いが、これ以上は悠長に療養していられない。どうにかして本丸の状況を把握する術が必要である。長くこの時間に居座れば、必ずここにも敵の手が回ってくるだろう。関係のない人間を巻き込むわけにはいかないのだ。
 それは東雲の本丸に所属する物として、何よりも遵守すべきことなのだから。
「国広。僕はこれから茶屋の仕事に出かけますが、くれぐれも無茶をして動き回ったりしないでくださいね」
「ああ。善処する」
「……まあ、良いでしょう。判断は君に任せます」
 疑わしい、と言わんばかりの視線を向けてきた透は、山姥切が焦っていることも理解しているのか特に彼の返答を咎めたりはしなかった。
 そんな透を、山姥切もまたじっと見つめ返した。
 この数日間、大人しく彼の家で療養していた山姥切だが、透について少しだけ疑問に思うことがあった。
 彼は、どうやら夜更けに出歩くことも多いようだ。家に帰ってこない訳じゃないが、朝方だったり、夜中だったりと時間が定まっていない。なのに昼間は茶屋へ出稼ぎに行くのだから、この短い期間で一体彼はいつ休んでいたのか山姥切には皆目見当もつかなかった。
 分かることがあるとすれば、夜更けに帰ってくる時は血の匂いを纏い、朝方に帰ってくる時は香の匂いを纏っていることだ。香については、つまり、女のところへ行っているんだろう。こんな生活をしていて、一体どこに女を買う金などあるのか不思議だが。
 ――だが、血の匂いは、どういうことだ。
 料理をする時に生肉でも捌いているのだろうか、とも考えなかったわけじゃない。だけど、その考えは夜更けに帰ってくる彼の手にある刀を見て間違いなのだと気づいた。
 下手人か。
 それとも辻斬りか。
 はたまた暗殺の任務でも請け負っているのか。
 現時点では、全く想像もつかなかった。
(何より、この男はあまりにも──)
「国広の傷も、この短い期間で随分と癒えてきましたね」
 透の言葉に、思考の波に呑まれていた意識が浮上する。
 食後に、と出された煎じ薬を飲み干して、山姥切は素っ気なく答える。
「そりゃあ、これだけ苦い薬を飲み続けたらな」
「良薬は口に苦しと言いますからね。安心しました」
 透はそう言って、穏やかに微笑んだ。
 透という男は、こんな風にいつでも穏やかだ。優しい好青年という印象が非常に強い。いや、実際にこうして傷ついた山姥切を介抱してくれるので、根は優しい人間なんだろう。気も利く方で、とても甲斐甲斐しい。
 だが、それが人殺しをしない人間である証拠にはならない。それは、現代においても同じことだ。悪人は善人を装いながら生きている。
 そして、この時代は江戸だ。倒幕を狙う侍が闊歩している江戸において、人を殺す役職というものは必ず存在しているのだ。
 ――そろそろ、潮時なのかもしれない。
 家を出た透を見送った山姥切は、身支度を軽く済ませて縁側に腰掛けると、手入れでもしようかと刀を手に取った。
 その時、ビリビリと肌を突き刺すような感覚が全身を襲った。
 これは、身に覚えがあるものだ。
 戦場で常に感じ続けていた、敵の気配。
「時間遡行軍……!」
 頭上で、雷鳴が轟く。空に幾つかの穴が空き、そこから雷と共に降り立つ異形の姿をした何かが、緑、青、赤の双眸をぎらりと光らせて、山姥切を視界に捉えた。
 自分と同じく刀を手にした者を見据え、山姥切は己の刀身を鞘から引き抜こうと柄に手を添える。
 だが、山姥切が己の刀身を鞘から引き抜く前に屋根の上から布を被った何者かが飛び降りて、布を翻しながら敵を屠った。

「邪魔だ」

 それは山姥切が思わず見惚れてしまうほど、とても素早く鮮やかな一撃だった。
(誰だ……? 気配がなかった……)
 唸るような声を上げて力を失って消えていく異形の体の向こうに目を凝らした山姥切は、姿を見せた人物に目を瞠る。
 もしかして、同位体の山姥切国広だろうか。いや、確かに布を被っていればそれっぽく見えるが、それが纏う霊力は山姥切のものとは少し違う気がする。
 一瞬で全ての敵を倒してしまったその人物は刀を鞘に戻して山姥切と向き合う。目深に被った布の奥から、深い青の瞳が鋭く山姥切を見据えた。
「刀剣男士が……いつまでもこんな所で何をしている?」
「お前は……?」
 普通の人間に時間遡行軍は殺せない。政府の人間であれば対時間遡行軍用の武器を持つ者はいるが、時代を遡ることが出来るのは刀剣男士のみだったはずだ。ならば、目の前にいる相手は山姥切と同じ刀剣男士だろう。
 布を被った人物はふぅと息を吐き、その青の双眸を僅かに細くした。
「俺のことよりも、この家の主を探した方が良いんじゃないのか?」
「何……?」
 呆れを含んだようなその声音に、山姥切は自分の眉がピクリと動いたのを感じた。
 こうした態度の刀剣男士も本丸にいないわけじゃない。山姥切は大して仲間の態度を気にかけたことはないが、今のは初対面の相手の言葉尻に滲む悪意のせいだろうか。無性に山姥切の中の何かが「こいつとはウマが合わない」と言っていた。
 小腹を立てた山姥切がむっとした表情を浮かべたのを見て、布を被った男はふんと鼻を鳴らす。
「何も知らないで一緒に居たのか。見たこともない奇妙な格好をした奴を、何の理由もなく匿うと思ったのか? おめでたい話だな」
 山姥切はすぅ、と己の顔から感情を消した。
 ──無だ。無になれ山姥切国広。ここで腹を立てたところで何も話は進まないぞ。
 すーはーと数回大きく深呼吸をして、刀を腰に携える。
「……あいつが、俺を監視していたとでも?」
「監視、と呼ぶには……少々甘い気もするけどね」
 布の男はそう言いながら山姥切に背を向け、どこかへ向かって歩き出す。そして、肩越しに少しだけ振り返り、口元に笑みを浮かべた。
「あの男のことが気になるのなら、今から追いかけて市中に行ってみると良い。君にとっては、なかなか興味深いものが見れると思うよ……──石見国東雲本丸の偽物君」
「!」
 所属先が知られている。本丸が襲撃されたこともあって、山姥切は相手に情報が漏洩していることを危惧して身構えた。
 けれど、布を被った人物はそれ以上何か言うこともなく、再び歩みを始めた。
「……」
 その背中が「ついて来い」とでも言っているように感じる。
 山姥切はその背中をしばらく睨みつけたあと、こうしていても仕方ないと肩を竦めて静かに彼の後を追いかけることにした。


 謎の人物が向かった先は、江戸の城下だった。
 彼は人の間を縫うようにすいすいと進んでいく。彼から目を離さないように気をつけながら、山姥切も後を追い続ける。
 大通りを抜け、川沿いを歩き、城下町から少し離れた一角の区域へと足を踏み入れた場所を見渡して、山姥切は足を止めた。
 辿り着いた場所は、花街だった。
「ここは……」
 その一瞬の隙がいけなかったのだろう。ふと視線を前に戻した山姥切は、さっきまで目の前を歩いていた謎の人物が姿を消していたことに気づいた。
 しまった、と慌ててぐるりと周囲を見るが、どこにもいない。
「……なんなんだ、一体」
 何も聞かないまま彼の後をついて来てしまったのは自分だが、こんな場所で一人残されてもどうしようもない。
 だが、後を追われていると知りながら意味もなく花街へと誘うようなことをするだろうか。
(もしかして、ここに『何か』があるんだろうか……)
 そう考えた時、山姥切の目に一本の赤い糸が映った。
 ふよふよとどこかへ泳いで行こうとしているそれは今にも消えてしまいそうなほど薄く、けれどしっかりと山姥切の右手の人差し指から伸びていた。
 その糸から感じられる霊力は審神者のものだ。おそらく、この時代に飛ばされる前に山姥切が掴んだもので間違いないだろう。
 まるで自分を誘うように漂っている糸の先を見つめながら、山姥切は迷いながらも導かれるように足を動かす。
 何も持っていないのに手を浮かしているせいか、ちらちらとすれ違う人や店の前を掃除している人から不思議そうな目を向けられたが、彼は構わず糸に集中して歩き続けた。
 やがて、赤い糸はとある店の間へと入っていく。
 山姥切は人気のない通路を進み、また糸が右へと曲がったのを見て自身もそちらに体を向けようとした。
 刹那、通路の先に人の姿を見つけた山姥切は慌てて建物の陰に身を隠し、息を殺す。糸だけはするりと山姥切の指から解けていき、ふわふわと漂いながら通路の向こうへと行ってしまった。
 その後を追うように、こっそりと山姥切もそちらを覗き見る。
 店の裏口に、透の後ろ姿があった。彼は向かいにいる誰かと話しているようで、時折小さく肩を震わせて笑いながら談笑している。
 山姥切が目を凝らすと、赤い糸の先端が透の向かい側にいる誰かの手に絡まり、次第にその姿を色濃く現した。
(どういうことだ……? 審神者の糸が何故……?)
 この時代に飛んでから、山姥切は赤い糸の姿を見ることはなかった。
 それが、どうして今になって見えたのか。
 どうして審神者ではない者の指に絡みついたのか。
 その理由を、山姥切は透が向かい側にいる人物の横を通り過ぎようとしたことで知ることができた。
「なっ……」
 透の向かい側にいたのは、遊女だった。それも、山姥切にとって見覚えのありすぎる顔をしていた。
(主……!?)
 男に頬を撫でられながらいじらしく微笑む審神者にそっくりなその女は、愛おしそうに目を細めて彼を見つめ返している。
 透もまた、愛情を秘めた優しい眼差しで彼女を見ていた。
 そんな彼の左手にも、いつの間にか女の指から伸びた赤い糸が絡みついている。
 その瞬間、山姥切は頭を強く殴られたような衝撃を受けた。考えたくもない可能性が浮かぶ。
 審神者にそっくりな女がいて、審神者の赤い糸があの二人を結んだ。いくら霊力が宿っているとはいえ、流石に縁の糸が他人同士を結びつけるとは考え難い。
(つまり彼女は……主の先祖にあたるか──)
 或いは──前世の姿、だ。
 自分で導き出した結論に呆然とする。
 ほどなくして、透が女に背を向けて歩き出す。
 彼の姿が見えなくなるまで見送る女の背中を、山姥切もまたその場に立ち尽くして見つめていた。
 綺麗な着物を身に纏う姿。
 少し動けば揺れて鈴の音を鳴らす簪。
 化粧を施された女の顔。
「……主……」
 山姥切の脳裏に、敵襲を受ける前に見た審神者の姿が過った。
 心には、何だか少しだけ苦い感情が燻っていた。
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