その運命の果てには


「降谷、零……?」
 降谷が自分の名前を彼女の口から聞いたのは、入学式当日のガヤガヤと雑談の煩い教室でのことだった。
 自分から遠く離れた場所で親友とお喋りに花を咲かせていた彼女は、教室の後ろの壁の一番上の部分に貼られた生徒の名前を見上げながら、ぽつりとその名を口にした。
 どきり、と降谷の心臓が嫌な音を立てる。
「あそこにいる、ハーフの子だって」
「へえ。そうなんだ」
 興味もなさそうな相槌の声が降谷の耳に届いた。
 おそらく自分の顔も見えたであろうに、あんなにも関心の薄い反応は初めてだった。今まではハーフ、というだけで降谷を奇異の目で見つめてくる子供達がほとんどだったため、降谷は少しだけ戸惑う。
 こっそりとそちらに目を向けてみると、すでに彼女は降谷から目を逸らしており、ずっと自分の名前を記されたそこを見つめ続けていた。
 ぽつりと、彼女はまた呟くように言った。
「日本人らしくて、素敵な名前だね」
 また大きく心臓が高鳴り、思わず耳を疑った。
 これまで降谷は何度も『日本人らしくない』と子供達に言われ続けてきた。それが原因で喧嘩をしたことも数えきれないほどある。
 それでも、自分の容姿を見てもまだ、そう言えるのか。
 たった個を表すためだけに与えられたその名を、褒めることができるのか。
「え、なんで?」
 彼女の親友が不思議そうに問いかけた。
「だって、零って『静かに降る雨』って意味があるらしいんだよ。なんだか梅雨の風情を感じない? 私は好きだな」
 自分と彼女が直接喋っていたわけじゃない。ただの他人同士の会話を聞いていただけ。
 だけど、降谷は彼女の言葉が頭から離れなかった。友達と楽しそうに喋っている彼女の姿が目に焼きついて離れなかった。

 この頃の自分達が、遠い未来で家族なるだなんて、誰が想像できただろう。
 しかし降谷と彼女の運命の歯車は、この時から静かに、けれど確実に、動き始めていた。



 ──電話だ。
 懐かしい夢を見ていた降谷は、枕元に置いたスマホのバイブ音でパチリと目を開いた。どうやら部下からの電話のようで、彼は腕の中の温もりから名残惜しそうに手を引いてのそりと起き上がる。
 渋々と画面に指を滑らせて、通話を繋いだ。
「朝早くからすみません、降谷さん」
「どうした?」
 この日、降谷は休日の予定だった。
 朝から家族とのんびり食事を楽しんで、その後は子供達が最近ハマっているというアニメを一緒に見て、昼はいつも子供達の面倒を見てくれる妻の代わりに自分が遊びに連れて行ってやろう、と考えていた。そして夜になれば疲れ切って眠ってしまうであろう子供達を差し置いて、愛しい妻と仲睦まじく過ごす予定だったのだ。
 しかし、朝日が登ると同時に目を覚ました降谷が耳にしたのは、自分の隣で眠る妻の「おはよう」でもなければ、寝ぼけた様子で目を擦りながら自分を見て「お父さんがいる!」という我が子達の嬉しそうな声でもない。
 ヴーヴーと鳴り響く電話のバイブ音のあと、申し訳無さそうに「実は──」と話す部下の声だった。急に自分が抱えている事件に進展があったとかで、緊急の招集がかかったらしい。
「すぐに行く」
 そう答えて電話の通話を切るが、これには降谷も思わず舌打ちが溢れた。職業柄、休みが返上になるのは仕方ないとは思うが、何も今日でなくても良いじゃないか。
「おしごと……?」
 ベッドから離れようと腰を浮かせた時、隣で眠っていた妻の声が聞こえた。振り返ると、眠そうに目をしぱしぱとさせて降谷を見ている。
「ああ、すまない。急な呼び出しがかかったんだ」
「そう……」
 のろのろと体を起こした彼女は、自分のスマホの画面を確認する。そこに映し出されているのは時刻と日付と今日の天気予報だ。いつ撮ったものか降谷は知らないが、画面の背景には笑顔でピースする我が子達の写真が設定されている。
「今日は急に雨が降るかも、って……傘、持って行ってね」
 うつらうつらとしながらそう言った妻にスーツを着込みながら降谷は「うん」と相槌を打って、まだ起床するには早い彼女を再び寝かしつける。
「今日もあの子達をよろしく頼むよ」
「はぁい。忙しいと思うけど、たまには早く帰ってきてあげてね……」
 ふっと苦く笑って「努力するよ」と答えた降谷は、二度寝しようと目を閉じた妻の額を優しく撫でて、頬に静かに口づけてから部屋を出た。
(あれ、そう言えば……)
 愛車に乗り込んでエンジンをかけたところで、降谷はあることに気づく。
 彼女から「早く帰ってきて」と言われたのはこれが初めてだったかもしれない。
「……」
 少しだけ照れ臭い思いが込み上げて、鼻の下を指で擦る。これまで「家に帰りたくない」という父親の声はあちこちで耳にすることはあったが、結婚してからの降谷は一度もそんな風に思ったことはない。
 家で自分の帰りを待つ妻や子供達のために、早く事件を解決させて少しでも早く家に帰ろうと意気込みながら、彼はアクセルを踏んだ。


 *** *** ***


「雨ですねぇ」
「雨ですねぇ」
「わふん……」
 はあ、と大きなため息が同時に二つ。
 つまらなさそうに窓枠に肘をつきながら、ザアザアと激しく雨の降っている外を見て残念そうに呟く息子と娘を見る。二人の間にちゃっかりハロまで混ざっていて、思わず笑みが溢れた。あの二人と一匹は本当に仲が良い兄妹のようで、見ていると微笑ましい。
 けれど、同時に申し訳なくも思った。
 本当なら、今頃二人は久しぶりに休みが取れた夫の零君と動物園か水族館にでも行っていたのだろう。
 運の悪いことに朝早くから仕事の招集がかかってしまった零君も残念そうな様子だったが、朝から父親もいなければ、土砂降りの大雨で私と外出も出来なくなった二人は心底落胆しているらしい。
 目が覚めてドタドタとキッチンに走って来るなり「お父さんは……!?」と姿の見えない父親の所在を尋ねてきた瓜二つの顔をしている子供達は、零君が仕事に行ってしまったと知るとがっくりと項垂れていた。
 朝のニュースの天気予報によると、梅雨特有の大雨は今日からしばらく長続きするらしい。それを静かに聞きながら、もそもそと朝ご飯を口に含んでいる二人を見るのはこちらも胸が痛む話だった。
「止まないかなぁ」
「止むわけないよ」
「せっかくお父さんとお出かけできると思ったのに……」
「楽しみにしていたのになぁー……」
「ごめんね、二人とも。お父さんにはお母さんからも早く帰ってきて、って伝えてあるから……」
 そうボヤく子供達の頭をぽんぽんと撫でてやるけれど、残念そうに肩を落として浮かない表情は変わらなかった。しょんぼりとしている二人にこればかりは仕方ない、と思うけれど、なんだか可哀相になってきた。
「う〜ん……そうだなぁ……あっ、そうだ!」
 そこで私はぐるりと部屋を見渡し、壁に吊るしたカレンダーを見て、ピン、と閃く。
 そして不思議そうに見上げてくる我が子達とハロを見下ろし、私はにっこりと笑った。


 *** *** ***


 思っていたよりも早く仕事が片付いた。
 休日を返上して出勤したためか、後の始末書のことは自分達でやると言った部下に残りを任せ、降谷は急いで駐車場へと向かう。
 外はバケツをひっくり返したような大雨だった。こんな雨だと、少しの距離を歩いただけでずぶ濡れになるのは間違いないだろう。バタバタと傘布に打ちつける雨の音を聞きながら、忠告通り傘を持っていて良かったな、と降谷はひっそりと心の中で妻に感謝した。
 車に乗り込んでスマホを取り出し、妻とのやり取りで使っているメッセージアプリを開く。素早く簡潔に「今仕事が終わった。何か買って帰る物はあるか?」という短い文章を送った。
 しばらくして『お疲れ様です』という可愛らしい熊のスタンプと、続けて『今日は大丈夫だよ』というメッセージが入ってきたのを確認して、降谷は車のエンジンをかけた。
 寄り道することなく家族が待つ家へと真っ直ぐ向かい、赤信号で止まる度にまだかまだかとハンドルを指で叩く。ようやく自宅の駐車場に辿り着くと、車から出た彼は一直線に自宅を目指した。
「ただい──……」
 家の扉を開けると、ごちんと音がした。
 なんだ、と降谷が目を丸くすると、子供達がお互いの頭を抑えて蹲っている。相当痛かったのか、二人は揃ってプルプルと体を震わせていた。
「ったぁ〜……ね、寝るなって言ったでしょ……!?」
「寝てないよ……! そっちこそ寝てただろ……!」
 涙目で睨み合う娘と息子が今にも喧嘩をしそうなので、降谷は苦笑を浮かべながら彼らがお互いにぶつけたであろう部分を撫でて宥める。
「はいはい。大丈夫か、二人とも」
 そこでようやく二人は降谷の姿を捉えた。自分達の父親が帰ってきたことに気づき、瓜二つの顔がパァッと明るい表情を浮かび上がらせる。
「本当にお父さんだ!」
「今日はたくさん一緒にいられるね!」
「「おかえりなさい!」」
 声を揃えてそう言った子供達は、おそらく自分を出迎えようとここで待っていたんだろう。待ちくたびれてうとうとしてしまったようだが、その気持ちは降谷の心を温かく包み込んだ。
「ああ……ただいま」
 優しく微笑んで、降谷は大切な我が子達をぎゅっと抱きしめた。
「お父さん、早く着替えてご飯食べよう」
「今日はね、トクベツなんだよ」
「特別?」
 歯を見せてにしし、と笑う子供達の言葉に首を傾げ、降谷は急いで着替えてからリビングへと向かった。
 そこには、すでに食事が並べられていた。綺麗にふんわりと巻かれた美味しそうなオムライスが四つ。そこに妻がスープの皿を置いている。
「おかえり」
 そう言って優しく笑う彼女に「ただいま」と返事をして、降谷は彼女の頬に口づけた。
「今日は特別なんだって?」
「うん、そうなの。さ、零君は座って座って」
 わけも分からず促されるまま席に着くと、今度はニコニコと笑う子供達が近寄ってくる。手を後ろにやり、二人は何か持っているようだ。
 なんだなんだ、と不思議に思いながら二人に目を向けると、彼らはお互いに目配せして隠し持っていたものをサッと降谷の前に差し出した。
「「お父さん、いつもありがとう!」」
 満面の笑顔で目の前に差し出されたのはクッキーが詰められた袋だった。綺麗にラッピングされ、袋の中には小さなメッセージカードも一緒に入っている。
 これは、どういうことだ。驚いて妻を見ると、してやったり、と言わんばかりに彼女は得意げな顔を見せた。
「今日は父の日だからね。二人が頑張って作ったんだよ」
 なるほど、そう言えばそうだ。
 カレンダーを見た降谷はようやく納得した。
 父の日は、母の日に比べて話題になることが少ない。全国の父親達のほとんどは、そんな日はあってないようなものだと考えていると思う。なかなか家に帰ることができない降谷もまた、その一人だった。
 仕事ばかりで子供達の相手を全然してやれないというのに、幼稚園や小学校の行事さえ参加してやれなかったというのに、そんな降谷に我が子達はこうして感謝の気持ちを伝えてくれる。それは、警察官という仕事の大切さを常日頃から妻が教えてくれているおかげなのかもしれない。
 さっきよりもぎゅっと心臓が締めつけられるような感覚だった。胸いっぱいに込み上げる感情で視界が僅かに滲むのをぐっと堪え、そっと幼い二人の手からクッキーを受け取る。
「……ありがとう、二人とも」
 嬉しいよ、とっても。
 そう言って破顔した父親の顔を見た子供達もまた照れ臭そうに、けれど喜んで貰えたことを誇らしげに感じながら、瓜二つの顔つきで笑い返す。
 そんな我が子達を優しいまなざしで見つめる妻を見た降谷は、何より愛しくて大切な家族のためにも毎日帰れるように頑張ろう、とこっそり一人だけ胸に誓うのだった。
Storyへ


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -