大正浪漫綺譚(α)


「どうしてあなたがこんな所にいるんですの」
 轟が初めて八百万と対面した時、彼女が開口一番に放った言葉はそれだった。
 美しく着飾った着物姿で、その整った眉を吊り上げ、不機嫌な表情で自分を睨みつける彼女を轟はただ無感情の瞳で見つめる。
 怒られる理由はわかっていた。
 ただ、今回は轟にも言い分はある。
「見合いだなんてわかっていたら、俺だってこんな所まで来ねぇよ」
 ──それも、よりによってお前とだなんて。
 唇から零れ落ちてしまいそうなその言葉はなんとか呑み込んで、轟は目を逸らす。視界に入った庭のど真ん中で、鹿威しがカコンと音を鳴らした。
 二人がいるのは帝都でも有名な旅館の一室だ。一流と呼ばれるだけあって居心地の良い部屋だった。この庭の風景も悪くない。
(一緒にいるのがこいつじゃなけりゃな……)
 ため息すら吐き出してしまいたい気分だった。
 八百万はともかく、轟はなんの説明もなしに呼び出されてここにいる。
 本来なら、今日は緑谷達と『英雄展示会』に出かける予定だった。世界中の『ヒーロー』の活躍を知れる数少ない機会だったのだ。
 それなのに、わざわざ父が休みの日に従者まで寄越すので、さぞかし緊急の要件なのだろうと『やや』心配したから彼はここにきたのだ。
 それがまさか『お見合い』のためだったなんて──誰がその時に予想できたか。案内された部屋に八百万の姿を見つけ、事態をいち早く理解した轟が傍らに立つ父親を射殺さん勢いで睨みつけたのは言うまでもなかった。もちろん、相手にもされなかったが。
 そして双方の両親はというと、着いて早々に席を外してしまった。親同士で話し合うこともあるのだろうが、一番はやはり、子どもの意思を尊重している八百万家の当主の意向だろう。やんわりと笑んで「子ども達だけで話し合うといい」と言葉を残し、彼は誰よりも先に腰を上げてしまった。
 轟の父はというと、やや不満そうではあったが相手の意向を無下にすることはできないようで、「粗相のないように」といつもと変わらない苦言を残して出て行った。
 実に不愉快だ。父親の顔を思い出した轟は、腸が煮えくり返る思いで手元にある湯飲みを睨みつけた。
「そのような怖い顔で名前に近づかないでくださいね」
「!」
 八百万の言う『名前』が誰であるかすぐに理解し、轟は顔を上げた。
「最近、アルファによる事件が相次いでいるのはご存知でしょう。普段は態度に出しませんが、自分の立場を十二分に理解している子です。アルファの人間には人一倍警戒心を持っています。今のあなたが近づけば、あの子は怯えて逃げてしまいますよ」
 とても真剣な表情だった。
 威嚇というよりは威圧に近いそれに、轟は瞬きする。
「……近づくな、とは言わないんだな」
「何を今さら。何度『跳ね返して』も隙あらば接触しようとしていたこと、私は全て知っていましてよ」
「だろうな。……わりぃ」
 隠しても無駄だと早々に観念した轟は、ぽつりと謝罪の言葉を口にした。反省しているような顔には見えないだろうが、自分なりに考えるところはあった。
 残念ながら轟は他人との距離の縮め方がわからない。雄英では同じ学び舎で切磋琢磨するうちに友人ができたのだが、それまで自分を取り囲む人間は家族やそれに関わる人達だけだった。同世代の子ども達はみんな自分の生まれ持った『炎と氷の個性』や父の『名声』に惹かれて近づいてくる者ばかりで、轟自身に目を向けることはない。なので轟もそんな彼らと親しくなるつもりがなく、いつも他人と距離を置いて生活をしていた。
 だから、轟は見ず知らずの女性に声をかける術がわからなかった。名前を見かける度にフェロモンを放ってしまったのはその所為だ。無意識だったり、意図的に彼女に気づいてもらおうとわざと放つ時もあった。
 自覚はしている。出会えるとは思っていなかった『運命の番』を見つけて、それからしばらく浮かれていた。アルファの性に抗うことなく、自分勝手な感情で『番』を求めていた。
 正直、八百万の存在は助かった。
 幼馴染として、身近にいるアルファとして、彼女が常に名前を守るようにフェロモンを放っていなければ、今頃きっと轟は名前に怖い思いをさせていただろう。
「でも、諦めるわけにはいかねぇ。お前もアルファなら、少しはわかるだろ」
「……残念ですけれど、私は『運命』には出会ったことがありませんの。ただアルファとして、オメガを求めてしまう衝動は理解できますわ」
 否定も肯定もできない。そう言いたげな表情で八百万は続けた。
「ここ最近、父が見合いの話を頻繁にしてくるのです。おそらく、私が彼女についていられる時間は限られていますわ……今日もお父様は私の意思を尊重してくださいましたが、いつまでも決まらない縁談に焦っておられるようでした。私も、そろそろ覚悟を決めなければなりません」
「……おう」
「だから私、ここのところ考えていましたの。もし貴方が本気であの子を望むなら……あの子に無理強いをしないと約束してくださるのなら、協力を惜しまないでおこうと」
「! それって……」
 つまり、八百万がオメガの彼女と轟の間に入って仲を取り持つということだ。
 僅かに目を見開いて期待を込めた眼差しを向けると、八百万はほんの少しだけ悔しそうに表情を歪め、つんとした態度でそっぽを向いた。
「あくまで『協力』ですわよ。あの子が貴方を受け入れるかどうかは別です」
「ああ、構わねえ。そこは俺が自分でなんとかする。……ありがとな」
「貴方のためではありませんわ。名前の幸せを考えた結果です」
 つんけんとした態度なのは、自分を慕うオメガを手放すのが惜しいと思うからだ。そこにどんな感情があろうと、アルファの本能が無意識に身近にいるオメガを自分のモノとして認識していたのだろう。
 しかし、その本能さえ理性で抑えつけて彼女は親友の幸せのために最善の道を選ぼうとしている。
(女って、強ぇな……)
 その強さが自分の母にもあれば良かったのだろうか。
 昔を思い出して顔に残る火傷の痕に触れる。
 その表情がどこか思いつめた表情になっていることなど気づくはずもなく、八百万は気を取り直したように朗らかに微笑んだ。
「せっかくですし、もう少しだけお話でもしませんか? ……『友人』として」
 同じオメガを想うアルファとして、同士として。そう言った彼女の提案はとても心地良いものだった。否定する理由もない。
 迷うことなく頷き、しばらく考え込んだ轟はそういうことなら、と言葉を発した。
「八百万の幼馴染の……名前との思い出とか、聞きてぇな」
 その時の自分がどれだけ優しい顔をしていたか、轟は知る由もなかった。


 *** *** ***


「綺麗に色づきましたねえ」
 のんびりとした口調で言った穏やかな声に、意識が引き戻される。
 隣に目を向けると、立ち並ぶ木々を見上げて移り変わっていく景色を感慨深い様子で見つめる名前の顔があった。
 視界の端ではらりと落ちていく紅葉を捉え、轟は「ああ」と小さく相槌を打った。
 彼女と知り合ってから一つ、また一つと季節が過ぎようとしている。
 最初は遠慮がちだった名前のために八百万や緑谷を交えて食事に行ったりしていたが、最近では彼女も轟に慣れたようだ。女学院に通う日は八百万の代わりに轟が付き添うようになり、二人きりでの外出も増えてきた。
 彼女との距離が確実に近づいているのだと感じながら、今日も轟は日課となっている彼女との短い逢瀬を楽しんでいた。
「寒くねぇか?」
「ええ、平気です。これがありますから」
 言って、名前は白い襟巻をひらひらと振った。
 強がりではないようだ。いつも以上に厳重に巻きつけられたそれは防寒具としての役割をきちんと果たしているらしい。
 そうか、とまた相槌を打った轟は小さく微笑む。眉目秀麗であるという自覚のない、甘さの滲む微笑だった。
 そんな彼の笑顔を見つめて少し惚けていた名前だったが、すぐに我に返って目を逸らす。
 俯いたその頬がぽっと赤く染まったのを見て、轟は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたか?」
「いえ、何も」
 早口で否定したあと、名前は紅葉に視線を戻した。
「……この赤、轟さんの髪の色に似ていますね」
「そうか?」
「はい。とても色鮮やかで綺麗です」
「……好きか?」
「はい。とても」
「……そうか」
 恥ずかしげもなく頷く彼女に、三度目の短い相槌を打った。そして、轟は視線を落としながら静かに自分の顔に触れた。
 左側にある大きな火傷の痕に触れながら押し黙ってしまった轟に気づき、名前は彼の顔を覗き込んだ。
「轟さん、どうかしましたか? 火傷の痕が痛むんですか?」
 轟は色違いの双眸を再び彼女に向け、首を横に振った。
「いや、そうじゃない。ただ……以前までこの色が……こっちの『個性』があまり好きじゃなかったから、お前の言葉が少し……なんか、むず痒くなった」
 轟がそう答えると、名前は目を瞬かせた。
 そして自分が口にした言葉を振り返り、また顔を赤くする。
「……すみません」
「なんで謝るんだ。別に怒ってるわけじゃないし、むしろ嬉しいと思うぞ。……お前が好きだと言ってくれるなら、この髪も悪くねぇな」
「ああぁぁ……!」
 両手で顔を覆い隠しながら悲鳴を上げる名前は耳まで真っ赤になっていた。
 こうして自分の失言で羞恥心と戦う姿は見ているだけで愛らしい。轟はまた静かに笑みを浮かべて名前の手を掴んだ。
「いい加減慣れろよ。そんな調子で、夫婦になってからどうすんだ」
「!? ふっ……!?」
「別に今さら驚くことじゃねぇだろ。いつもそのつもりでお前と接してたわけだし……それとも、やっぱり俺と番になるのは嫌か?」
「そ、そういうわけでは……!」
 目をそらしてごにょごにょと口籠る名前に、轟は今度こそ堪えきれずにふっと小さな笑い声を零した。聞き逃してしまいそうなほど小さな音を拾った名前は恨めしそうな眼差しを向けた。
「どうして笑うんですか……」
「わりぃ。可愛かったから、つい……そうか。嫌じゃなかったんだな、俺と番になるの」
「嫌だと思ったら、こうして大人しくあなたの隣を歩いていません」
 それもそうか、と納得した。
 いくら幼馴染の知り合いだとしても、名前は出会ったばかりのアルファと番ったり『男女の仲』になることには抵抗があるらしい。そもそも八百万のフェロモンに包まれている状態では他のアルファの匂いを感知できないため、轟の言う『勘』が彼女にはあまり理解できず、『運命の番』ということも信じてもらえなかった。気持ちが先走って「番になりたい」と告げた轟の申し出が丁重に断られたのは言うまでもない話だ。
 それでも二人がこうして名前と友好な関係でいられるのは、単に轟が彼女の意見を尊重してきた結果だ。
 二人の間に入っている八百万が妥協案として友人関係になればいいと口添えしたことも大きいだろう。「それなら」と快く頷く女に自分勝手な気持ちを押しつけられるわけもなく、自分もまだ学生の身分であることを考え、轟は『卒業まで』という期限を設けてその妥協案に乗ったのである。
 それが数ヶ月という月日を経て、こんな喜ばしい結末を迎えるとは。
「好きだ、名前」
「そ、れは……もう、何度も聞いていますが……」
「ああ、そうだな。だから俺はお前の気持ちも知りたい」
「う……私も、その……好き、です」
「俺の番になってくれるか?」
「……はい」
 消え入るような声音で紡がれた名前の言葉に胸が温かくなる。同時にさっきまで肌に触れていた冷たい空気さえ忘れてしまうような高揚感が抑えきれず、フェロモンを溢れさせた。
 ──なるほど。これは確かに、厄介だ。
 轟は繋がったままの手を強く握り返し、ほんのりと頬を赤らめ、熱のこもった瞳でじっと彼女の顔を見つめ返した。
「……少しだけ、アルファのヴィランがオメガを襲う理由が分かった気がする」
「え」
「求めた番に受け入れてもらえるのって、こんなにも嬉しいもんなんだな」
 きょとんとしている名前を引き寄せ、腕の中に閉じ込めて自分の匂いで包み込む。
 突然の行動に名前は体を強張らせたが、漂う香りが落ち着くのかすぐに緊張を解いて大人しくしていた。
 それがまた轟の庇護欲を増幅させた。
「と、轟さん……ここ、往来なのですか……」
「心配すんな。今は誰もいねぇ」
 すりすりと襟巻をまいたままの首元に額を擦りつける彼に、そういう問題ではない、と名前は困った顔をする。
 しかし、幸せで胸がいっぱいの今の彼には何を言っても無駄だった。
「もっと早く言ってくれれば、この間のヒートの時にさっさと噛んでおいたんだが……」
「流石にそんなことはできませんよ。ちゃんと轟さんのお父様やお母様にもご挨拶をしませんと……」
「クソ親父には必要ねぇよ」
「そういうわけにはいきません」
 名前は平民だ。名のある商人の娘だが、どれだけあの八百万家に優遇されていようと身分は変わらない。それ相応の礼儀を尽くす必要がある。
 強い口調で自分を窘めてくる彼女に、轟は真面目なのも考え物だと舌を巻いた。
「……わかったよ。近いうちに文を出しておく」
 渋々と承諾した彼に、名前は満足げに頷いた。
 その様子を見て、近い将来には彼女に尻に敷かれる日がくるのだろうと想像してしまうのも、なんだかおかしな話だ。でも、それも悪い気はしない。
 前髪で隠れた額に唇を寄せ、緩んだ表情のまま番を見下ろす。真っ赤な顔で照れているのは一目瞭然だ。それでいて、幸せそうに笑っている顔がとてもいじらしい。
「寒くなる前に、襟巻を贈ってもいいか?」
「襟巻を?」
「お前の項を守る物だからな。番う時が来るまで、俺が贈った物を身につけていて欲しい」
「ま、また恥ずかしげもなくそういうことをさらっと言って……」
「嫌か?」
「……嬉しいです」
 腕の中を覗き込むように首を傾げる轟の視線から逃げるように、名前は襟巻に顔を埋めて彼の胸に顔を押しつけて答えた。耳まで真っ赤になっているのは隠せていない。
 このご時世、アルファがオメガに襟巻を贈るのは独占欲の証だ。中でも自分のフェロモンを染み込ませたそれは番となる約束を交わした証拠になる。つまる話、『婚約』したも同義だ。
 冷静沈着で感情表現の少ない彼の胸の内に潜んでいたそれを感じ取り、名前はますます照れ臭さが勝って顔を上げられなくなったらしい。
 人目を気にしていたはずが、今度は自ら轟の背中に腕を回して離れなくなった。
 そんな彼女を見下ろして、その白い項を噛む瞬間を心待ちにしながら、轟は彼女のこめかみに一つ口づけを落とすのだった。
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