大正浪漫綺譚(β-♀)


「ねえ、聞きまして……? うちの組にいらっしゃるオメガの苗字さん……あの雄英に通っている轟家のご子息に見染められたんですって」
 廊下を歩いていると、ふと囁くような話し声が聞こえた。
 歩みを止めることなく、視線をそちらに目を向ける。話をしているのは、向かい側から歩いて来る見知らぬ女学生だ。
 誰が通るかも分からない廊下のど真ん中で楽しそうに話している彼女達は口元に手を添えているものの、隠す気があるのかないのか判断のつかない声量で話を続けた。
「ええ? 何かの間違いではないの?」
「それが、どうやら本当らしいの。なんでも先日、町でフェロモンをまき散らしたアルファがいたらしくて、そこを彼に助けられたんだとか……」
「まあ、雄英の……おかわいそうに。彼女、きっと助けられたことを勘違いなさっているんだわ。轟家は代々アルファの『ヒーロー』家系ですもの。困っている人を見捨てられなかっただけでしょう」
「そうですわよね……噂では、轟家の末のご子息様は『番』をお選びになるつもりはないようですし……」
「そういえば先日退学なさった八百万家のご令嬢……その轟家のご子息様ともお見合いなさったそうね。けれど、嫁がれたのは別のお家の方だと伺いましたわ」
「あの八百万家のご令嬢でさえ見向きもされないんですもの。次席であろうと、下賤な庶民の娘など相手にされるはずもありませんわよね。何より……『個性がオメガ』ですし」
 クスクスと嘲笑う声を漏らしながら、自分達に向けられた視線など気に留めることもなく二人の女学生は自分の横を通り過ぎて行った。
 麗日お茶子はそんな彼女達を振り返って見つめ、ぽつりと呟く。
「……なんや、それ」
「お茶子ちゃん。気にしちゃだめよ」
 彼女の隣を歩いていた親友の蛙吹梅雨が、怒りを滲ませた声音に気づいてすぐに宥める。
「でも梅雨ちゃん……! 流石に今のは言うたら駄目やと思うんよ!」
 麗日が憤慨したのは『個性がオメガ』という発言だ。
 それはつまり『無個性のオメガは子を産むしか能がない』という意味で、オメガを侮辱し、差別する言葉だ。
 ただでさえオメガというだけで人権を軽視されやすいというのに、加えて『無個性』であるとなるとその存在はまるで家畜のように扱われる──麗日は、そんな風に考える人が大嫌いだった。
「なんで華族のお嬢様って、みんなあんななんやろ……」
「ケロ……それは違うわ、お茶子ちゃん。華族の中にも常識のある人はたくさんいるのよ」
「それは……そうなんやろうけど……」
 頭では理解しているが、胸の内で渦巻くもやもやとしたそれをどう昇華したらいいのかわからない。
 麗日は「うあーっ」と小さな唸り声を零して頭を掻き毟った。
 そんな彼女を静かに見つめた蛙吹は、ふと視線を動かして丸い目を瞬かせた。
「……あら。噂をすれば、かしら」
「え?」
「あの子でしょう。噂のオメガの苗字さん」
 蛙吹がそう言って人差し指を向けた先に、一人の女学生がいた。
 長い白の襟巻で首を隠した彼女は、あちこちから自分に向けられる周りの視線を気にすることなく、堂々と顔を上げて歩いている。『次席』と呼ばれるだけあってかなり勤勉な子らしく、今も数冊の書物を手に持っているところから察するに学院の書庫から戻って来たようだ。
 女学院で最も優秀な生徒だった八百万家の令嬢を連想させるその振る舞いに、思わず二人は見惚れてしまう。
「……?」
 自分を見つめる麗日と蛙吹に気づいたらしい。すれ違う寸前に彼女はその大きな瞳を二人に向け、けれど何も言うことなく会釈だけを残して通り過ぎて行く。
 わたわたとしながら会釈を返した麗日と蛙吹は、遠くなっていく彼女の後ろ姿を見つめながらぽつりと呟くように言った。
「……オメガで次席なんて、すごいよね」
「ええ……きっと、たくさん努力をしたんだと思うわ」
 そうでなければ、あんな風に背筋を伸ばして歩くことはできない。
 二人の知るオメガはみんな下を向いて生きていた。どれだけ周りに優しく声をかけられても、どれだけ明るく振る舞っていても、その生まれ持ったバース性を理由に人々から虐げられることの多い彼らはいつだって日陰を歩こうとするのだ。
 でも、彼女はそうではない。
 それはおそらく、彼女の傍にずっと寄り添っていたアルファのおかげなのだろう。
「私達も行きましょ、お茶子ちゃん」
 次の授業に遅れてしまう、と促す蛙吹に、麗日は静かに頷いて止めていた足を動かす。
 その時、麗日はなんとなく、もう一度だけ肩越しに彼女を振り返った。
 遠くに見えたオメガの後ろ姿は、とても眩しく感じられた。


 麗日が彼女に声をかけられたのは、その翌日のことだった。
「あの、あなたが麗日さん?」
「へ……?」
 他の教室の生徒が声をかけてくることはほとんどない。
 呼び止められた麗日は目を丸くして振り返り、その人物を視界に入れて驚愕した。
「初めまして。苗字名前といいます」
「ひゃ、ひゃい……! 初めまして……!」
 丁寧にお辞儀をして微笑む彼女に、麗日は自分の体に緊張が走るのを感じた。
「実は、先生方からあなたの話を伺いまして……護身術の授業で、とても素晴らしい成績を修められているとお聞きしました」
「え、いやぁ、そんな……大したことない、です……」
 ──まさか出会い頭に褒め言葉が飛んでくるとは。それも護身術のことで。
 所作も口調も華族に劣らないそれに、麗日はますます委縮してしまった。首の後ろに手を置きながら、視線を逸らす。
 それがどうかしたんだろうか、とチラリと名前を見つめると、彼女は真剣な表情で麗日を見つめていた。
 その真っ直ぐな瞳からつい目が離せなくなり、麗日は戸惑いながら問い返す。
「あの……何かご用でも……?」
「はい。実は折り入って頼みがありまして……もしあなたさえ良ければですが、私の護身術の稽古に付き合っていただけませんか?」
「ええっ!?」
 まさかの頼み事に堪えきれず麗日は声を上げた。
「あなたも知っての通り、私は『無個性』のオメガですので……できるだけ、自分の身を護る術を身につけておきたいのです」
「そ、そういう理由なら私は別に構わんのやけど……で、でも私なんかが稽古の相手じゃ苗字さん、もの足りんとちゃうかな……!?」
「そんなことありません。何度か合同授業でお見かけしておりましたが、あなたの動きは勉強になります。私は是非、あなたにお願いしたいのです」
 なんて真面目なことか。努力家であることはなんとなく察していたが、これは想像以上だ。
 そこまで言われては拒否できないし、断る理由もない。麗日は本当に自分でいいのか悩みに悩んだものの、うんうんと唸った末に快く頷いた。
「いいよ! 私で良ければ一緒にやろう!」
「! ありがとうございます!」
 駄目だろうか、と不安げな表情になっていた名前の顔が、瞬く間にぱあっ、と明るくなった。
 普段の大人びた雰囲気と違って子供らしさのあるその笑顔に、麗日も思わず笑みが溢れた。
「どうせなら、友達も誘ってええかな? 蛙の個性の子なんやけど、頭が良くてすっごく頼りになるんだ。護身術の成績もそんな悪くないと思うんやけど……」
「もちろんです。その方のご迷惑でなければ、是非」
 嫌な顔をするどころか、嬉々として頷いた彼女にホッとした。
 八百万と一緒にいる時はやや近寄りがたい人物だと思っていたが、実際に話してみるととても気さくな性格のようだ。
 胸を撫で下ろし、麗日は親しみを込めて手を差し出した。
「私、ずっと苗字さんと話してみたかったんだ。良かったら、お茶子って呼んで気軽にお話しして欲しいな」
「ありがとう、お茶子ちゃん。なら、私のことも名前と呼んで。迷惑をかけてしまうけれど、仲良くしてもらえると嬉しいわ」
 それはとても優しく、喜びを噛みしめるような声だった。
 躊躇うことなく握り返してくれた手の温もりを感じながら、麗日はまたにっこりと笑った。


「えっ……!? あの話ほんまやったんや!?」
 女性客の多いカフェーの窓際のテーブル席。そこで異国の食べ物であるホットケーキに舌鼓を打っていた麗日は、驚いた顔をして目の前に座る名前を見つめた。
 名前の隣に座る蛙吹は冷静な様子だったが、彼女もまた興味深そうに目を向ける。
「ええ……まあ……」
 麗日と蛙吹の注目を浴びた名前は、少し居心地が悪そうに頷いた。
 二人が名前と親しくなって二週間ほどたつ。
 稽古を通して『友達』として急速に距離を縮めていった麗日と蛙吹は、もっと名前と話す時間を作ろう、ということで最近巷で流行りのカフェーに彼女を誘っていた。
 バース性のこともあり学校でも八百万以外の生徒とあまり接触のなかった彼女は、どうやら学校帰りに寄り道することが新鮮だったらしい。初めての経験に目を輝かせ、二つ返事で麗日と蛙吹についてきた。
 女子の話題というものは尽きない。最近流行りのカフェーのメニューから始まり、帝都に新しくできた大型のショッピングモールの話になり、巷で噂されている舞台俳優や『ヒーロー』の話題になった。
 そこで麗日が思い出したのは、先日名前が巻き込まれたという事件の話だった。同時に名前が轟家のご子息に見染められたという噂も思い出し、三人の話題は自然と名前の近況に変わった。
 オメガである引け目があるのか悩んだ素振りはあったものの、名前は当時の出来事を包み隠さず話してくれた。轟との間にある噂についても、迷いながら説明があった。
「私にはよくわからないけれど……彼曰く、『運命の番』というものらしいの」
「あ、私それ知ってる! あの人気舞台俳優が出てる作品のテーマにもなってるやつじゃない? 確か、『魂の繋がり』……だっけ?」
「そう、多分、それのこと」
「へぇ……本当にあるんやね、そういうの」
「それで、その轟家のご子息とはどうなったの?」
 蛙吹の質問に、名前の顔がぽっと赤く染まる。
 お、と麗日と蛙吹の目が煌めいた。女の勘が、面白い話になりそうだ、と告げていた。
「それが……その……実は私、彼の言う感覚がいまいちわからなくて……番の話はお断りしたの」
「えーっ!?」
「お茶子ちゃん、声が大きいわ」
 固唾を飲んで話を聞いていたら、まさかの展開だった。
 驚きと失望の混ざった声を上げた麗日に、蛙吹は冷静に注意した。
 周りから冷ややかな視線を向けられた麗日は慌てて口に手を当てる。
「ご、ごめん……でも、それ、大丈夫なん……?」
 その疑問に不安が混じるのは仕方のないことだった。
 基本、アルファはオメガに執着しやすい質であると謂われている。実際、そのせいで世間では数少ないオメガがアルファに狙われる事件が多い。先日に名前が巻き込まれた事件もその一つだ。八百万が絶えず彼女を守り続けていられたのも、その特性のおかげである。
 麗日の質問に、名前は赤い顔のまま困った顔で微笑む。
「うん……とりあえずは」
「ということは、まだその話は終わってないのね」
 蛙吹の言葉に頷き、名前は話を続けた。
「実は彼のことは……もともと百から会ってみないかって言われていたの。アルファの知り合いが増えることは悪いことじゃないから、って」
「でも、八百万さんは確か、その轟家の人ともお見合いしたんじゃなかったかしら?」
「うん。よくわからないけれど、そこで意気投合したんですって。結婚よりも友人でいる方がいいってなったみたい」
「ふぅん……華族って、そういう考え方をする人もいるんやね」
「男女の友情なんて、あまり聞かないものね。素敵だわ」
 感心した様子の二人に、名前はにこりと笑って「百は賢い人だから、人脈を作るのも上手なの」と誇らしげに言った。幼馴染を褒めてもらえたことが嬉しかったようだ。
「だから今回も『番』に関する話はひとまず置いといて、轟さんとは『友達』になることから始めたらどうだって話になって……」
 なるほど、と麗日と蛙吹は頷いた。
 実に健全で、賢明な判断だ。
 アルファとオメガであるとはいえ、轟と名前はその出自が全く異なる華族と平民だ。家柄に囚われない名前はともかく、末子であっても轟は雄英将校の『ヒーロー科』に通う将来有望な跡継ぎ候補だ。どんな思いで名前と『番』の契約を結ぼうと、彼の親が認めなければオメガである名前の立場はない。
 その時、一歩でも選択を間違っていれば二人の未来はひどく荒れ果てたものに変わっただろう。そんなことは口に出さずとも、名前も理解しているはずだ。
 気恥ずかしそうに微笑みながら轟との今後の付き合いについて語る彼女を見つめ、麗日と蛙吹は静かに表情を緩ませた。
「私、思ったことはすぐ口に出してしまうの」
 その前置きのあとにじっと名前を見つめた蛙吹は、にこりと微笑んで続けた。
「名前ちゃん、その彼のことが好きなのね。今のあなた、恋する女の子の顔をしているもの。とても可愛いわ」
 その瞬間、名前の顔が真っ赤に染まった。ホットケーキを食べようと動かしていた手からはフォークが滑り落ち、からんと音を立てて床に転がった。
 自覚がなかったのか、それとも指摘されて恥ずかしかったのか。
 目の前で手を振る麗日に声をかけられても、音に気づいた給仕が駆け寄ってきても全く反応を示さない彼女を見て、「想像以上に照れ屋さんだったのね」と蛙吹はひっそり心の中で揶揄いすぎたことを反省するのだった。
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