大正浪漫綺憚(β‐♂)


 事の始まりは、帝都で最も難関と呼ばれる『雄英将校』に入学して三年目の春だった。
 緑谷はその日、下宿先から友人達と一緒に雄英へと向かっていた。昨夜、緑谷の下宿先に泊まっていた『ヒーロー科』の顔ぶれである。
 その中に途中から合流して混ざっていた轟が、ふと足を止めた。緑谷がそれに気づくのは早かった。
 彼が見つめているのは雄英将校の近くに建てられた女学院だ。
 女性が通う学校と言っても雄英とは大きく違い、そこで学べることは『家事・裁縫・お琴』と花嫁修業のようなそれだが、この女学院は国内でもより良い教育を生徒に受けさせているという。そんな一流の女学院に通えるのは当然のことながら『華族』ばかりで、名のある家柄のご令嬢の姿が数多く見受けられた。
 その女学院の制服を身に纏う女学生達を、いつもは冷静であまり表情を変えない轟が驚いたように目を見開きながらある一点を一心に見つめている。
 緑谷は首を傾げ、声をかけた。
「轟君、どうかした?」
 緑谷の言葉に、友人達も足を止める。
 しかし、轟は答えなかった。
 食い入るように正門の方を見つめている彼を不思議に思い、全員がそちらに目を向けた。
「相変わらずいいとこのお嬢様ばかり揃ってんな〜」
「美人な子ばっかだよなぁ。流石、帝国一の女学院なだけあるぜ」
「だが、ここに通っているのは華族令嬢ばかりではないのだろう? 聞くところによると、雄英の教育方針に則って試験に合格さえすれば平民でも通えると聞いたが……」
「平民でこんなお嬢様学校に通えるやついるかよ。ただの噂だろ」
 友人達の話し声を耳にしながら緑谷は轟に目を向けた。
 嗅ぎ慣れた匂いが彼の方から漂ってきた。
「……轟君、まずいよ」
「え……」
「フェロモン、出てる」
 轟は『ヒーロー科』でも優秀なアルファだ。ヒーローとして、いつもはオメガを怯えさせないよう自身のフェロモンを抑えながら過ごしている。逆にオメガのフェロモンに誘惑されることもない、(一部の仲間には鈍感とも言われているが)とても強い精神力の持ち主だ。
(その轟君が、無意識にフェロモンを放つって……)
 ある可能性を考え、慌てて漏れ出るフェロモンを抑えようと奮闘する彼の視線を辿る。
 そんな緑谷の耳に、また友人達の色めき立つ声が入ってきた。
「おい、あれ八百万家のご令嬢じゃねーか?」
「うひょーっ! すげぇ美人じゃん!」
「流石アルファ家系のご令嬢……雰囲気も凛々しくていらっしゃる」
 緑谷の視線もそこに注目した。ちょうど轟が向けていた視線の先に、その話題のご令嬢がいたのだ。
 長い髪を高く結い上げ、制服の裾を揺らしながら背筋を伸ばして歩く彼女は、隣を歩く一人の友人と楽しそうに話しながら正門を潜り抜けようとしていた。
 そこで、彼女達を見つめていた轟がぽつりと小さく言葉を発した。
「……オメガ」
 傍にいなければ聞き取れないような、本当に掠れるような声だった。
 緑谷は何とも言えない表情のまま視線だけを動かし、チラリと轟の横顔を見やる。
 そうだろう、とは予想していた。そうでなければ、彼が足を止めるはずがなかった。
 轟が見つめているのは友人達と同じ八百万家の娘ではない。その隣にいる白い襟巻を巻いた名も分からぬ女学生の方だ。
 満開に咲いた桜は次々と散り、季節はもう春を終えようとしている。連日の気温は上がる一方で、今日も暖かい日差しが町を照らしていた。もうこの時期になると防寒具は必要ない。
 それなのに襟巻をあんなに頑丈に巻いている──考えられる理由は、一つしかなかった。
 親しげに八百万に話しかけるその女学生を見つめながら、緑谷は心の中で「彼女達がこちらに気づきませんように」と願った。
 もし気づかれてしまったら、見知らぬアルファにフェロモンをぶつけられたオメガの彼女がどうなるか──想像するのは容易い。そしてその時、彼女の傍にいる八百万がどんな反応を見せるか──言うまでもないだろう。
 ひやひやとしながら轟のフェロモンが収まるのを待つ緑谷。しかし彼の心配など露知らず、傍らにいる友人達は八百万の話に夢中になっていた。
「なんでまだ学校に通ってんだろーな。縁談も全部断ってるって話だし……」
「ああ、それ聞いたことある。噂じゃ、幼馴染の女オメガと『番』になったとか」
「えっ!? それマジ!? 女と女か……なんかちょっと禁断の雰囲気があるな。……あ! もしかして、あの隣にいる子がその噂の『番』だったりすんじゃね……?」
 その時、ぶわりと轟のフェロモンの香りが強くなった。
 流石にこれで友人達も轟の異変に気づいたらしい。威嚇にも似たフェロモンの放出に驚き、目を丸くして轟に目を向けた。
 アルファは自分の縄張りに入り込んだアルファのフェロモンに敏感だ。
 視線の先にいる八百万はすかさず隣に立つ友人を引き寄せて抱きしめると、その鋭い眼差しで振り返って周囲を見渡した。そして立ち止まる緑谷達に気づくと、彼女もまた威嚇するようにフェロモンを放って睨みつけてくる。
 他の女学生達もそれに気づいて視線を向けて来るので、緑谷は慌てて轟の腕を引っ張った。
 だが、轟は動かなかった。
 彼らは互いを視界に入れたと同時に、好敵手であると認識したようだ。
 人目を気にすることなく睨み合う二人に気づいた友人達も詳しい理由は分からずとも状況を理解したようで、緑谷を援護するように轟の腕を引っ張った。
 結局その時、轟は友人達に連行される形でその場から立ち去ったのだった。


「轟君……流石に今朝のはまずいと思うよ」
 昼休み、どうにか二人きりで話をする時間を設けることに成功した緑谷は、弁当を手に持ちながら控えめに注意する。
 穏やかな口調だが、それなりに厳しい声だった。
 緑谷の言葉に、轟は視線を落とした。
「わりぃ……つい、かっとなった」
「僕はいいけど……向こうは多分、すごく怖かったと思う」
「やっぱり、そう思うか……?」
 不安そうに確認する轟に、緑谷は躊躇うことなく頷いた。
 緑谷はベータだ。アルファやオメガとは違い、その性の脅威を実際に体験したこともなければ目の当たりにしたことはない。彼らがどんな思いでその性と向き合いながら生きているのかも想像でしか察することはできないのだ。
 けれど、世の中には規律というものがある。最近では『バース性』に関する法律も整えられつつあるので、それらに基づいて倫理的に考えることはできた。
 緑谷の反応に轟は「そうか」と小さく相槌を打ち、また視線を落とした。
「警戒されちまったよな……」
「あの子の方は気づいてなかったみたいだけどね」
 八百万に抱きしめられていたオメガの女学生を思い返し、緑谷は神妙な面持ちで答えた。
 彼女が平然としていたのは、言うまでもなく八百万のおかげだ。彼女が瞬時に自分のフェロモンを放って轟のフェロモンを跳ね返したから、オメガの子は轟に気づかなかったのだ。不思議そうに八百万の顔を見上げていたことは、轟もしっかり目撃していたはずである。
「気になってたんだけど……轟君はどうしてあの子がオメガだってわかったの?」
 今朝からずっと抱いていた疑問を口に出して尋ねてみると、轟もまた表情を変えないまま首を傾げた。
「……勘?」
「いや、僕に聞かれても…………わかんないの?」
「わかんねぇ。顔を見た途端に目が離せなくなって、気づいたらフェロモン出してた」
 そう言った轟は本当に自分でもその時の状況が良くわかっていないようだった。
 眉をハの字にして、困惑した面持ちで彼は続けた。
「ただそん時……『あそこにいるのは自分のオメガだ』って思った。なんつーか……すげぇ、欲しくなったんだ」
「それって、あの子が轟君の『運命の番』だってこと……!?」
 緑谷の言う『運命の番』は、『番』とはまた別にあるアルファとオメガの特殊な繋がりだ。異国の学者が発見したと言われており、『子孫を残すのに最も相性の良い相手』のことを指すのだという。『番』と何が違うのかと問われれば、それは本人たちが『番』を選ぶ際に『理性』で見つけようとするのではなく、出会った時に『本能』で惹き合い相手を求める衝動に駆られることだ。
「かもしんねぇな」
 こくんと頷いた轟は、そこでやんわりとした、静かな微笑を浮かべた。とても嬉しそうな顔だ。
 本人にその気はなくとも、やはりアルファにとって『番』という存在はそれだけ重要なのだろう。本能で惹き合ってしまったのなら、なおさらかもしれない。
 ならば、と緑谷はあの名も知らない女学生を思い返す。
 轟が『運命』を感じたのなら、彼女はどうなのだろう。轟をその視界に入れた時、彼女は同じように何かを感じることがあるのだろうか。
 もし──もし万が一、彼女が何も感じることがなければ、轟の言うそれは一体なんと呼ぶのだろう。
 ただの『一目惚れ』で片づけられるのか。それとも、今まで抑え続けたアルファの本能が無意識に『番』を求めているだけだと言われるのだろうか。
 いや、それ以前に──この轟の様子では、今後もオメガの彼女を大人しく放置しているとは到底考えられないのだが。
「……どうするの? 彼女のこと」
「? もちろん、『番』にする」
「…………」
「…………緑谷?」
「……待って、轟君……簡単に言うけど、それ相手の同意が必要だってわかってる?」
「当たり前だろ。流石にヴィランみてーなことはしねぇよ」
「そ、そう……なら、いいんだけどさ……」
 当たり前と言うが、本当に理解しているのか不安だから念を押しているのである。
 今朝の一件もそうだが、こう見えて轟は冷静なようで意外と激情型なのだ。特に長い年月をかけて確執のある父親に関する話はタブーで、雄英に入学した頃と比べて態度は軟化したものの、今でも話題に出すと彼は不快そうな顔になる。父親本人が目の前に現れようものなら、言わずもがな。
 反抗期の子どもも逃げ出すような鬼の形相で、今にも相手を射殺さんばかりに睨みつける轟の顔が容易に想像できた緑谷は苦笑した。
 そんな緑谷の胸中など知る由もない轟は、今朝見た自分の『運命の番』を思い出しているのかぼんやりとした様子で呟いた。
「可愛かったよな……俺の番」
(否定はしないけど、まだ轟君の『番』でもないんだよなぁ……)
 ほんのりと赤らんだ彼の顔を見つめながら心の中で呟いた緑谷のツッコミは、もう言葉になることはなかった。


「緑谷君。轟君はいったいどうしたんだ?」
 町中でフェロモンをまき散らしてオメガを襲おうとしたアルファの男を捕らえた翌日、雄英では事件に関わった緑谷と轟の話が絶えなかった。あれやこれやと話を聞きにくる同じ学び舎の生徒達からなんとか逃げて教室に入った緑谷は、生徒のまとめ役である飯田天哉に声をかけられて首を傾げる。
 飯田の指先が向いた先に視線を動かすと、そこには轟ともう一人、色素の薄い髪を逆立てた青年が立っていた。
「おい、ふざけてんのか、舐めプ野郎……いつまでも色ボケてんじゃねーぞ……」
「別にふざけてないし、色ボケてもねぇ」
「どこがだよ!! この報告書の中身見てから言えや!!」
「? 何かおかしかったか? ちゃんと詳細を書いたつもりだが……」
「その『詳細』がおかしーんだわ!! 事件についての報告しろっつってんだよ!!」
「だからしたじゃねぇか」
「ほとんどが女の話ばっかで全然重要なところがわかるか!!  こんな報告書読んで誰が理解できんだよ! 今すぐ書き直せ!!」
 ぼんっ、と左手の平で爆発を起こしながら怒り心頭のまま声を荒げる青年──爆豪勝己は、バンッと勢いよく轟の書いた報告書を彼の机の上に叩きつけた。
 轟は自分が手渡した報告書を見下ろすと、素直にそれを手に取って読み返した。そして、しばらくしたあと、彼の言う通りまずいと思ったのだろう。納得したのか、柳眉を寄せて困った表情で「わりぃ」と反省しているのいないのかわからない声で謝罪した。
 そんな二人を見た緑谷は顔を引きつらせ、飯田の顔を見上げる。
 飯田もまた、やや心配そうな表情で緑谷に目を向けた。
「今朝からずっとあんな調子なんだが……」
「えっと……轟君、昨日の事件の時に例の女学院の子と会ってね……」
「ああ、あの『運命の番』かもしれないっていう……?」
「うん、そう。それで……まあ、色々とあるみたい」
 事細かに事情を説明するのは憚られるので言葉を濁した。
 大まかに轟から『運命の番』に関する話を聞いていた飯田は怪訝な顔をするどころかその説明で納得したようで、安心したように笑みを浮かべて頷いた。
「なるほど。つまり恋煩いだったのだな!」
 恋、という表現に緑谷は僅かに首を捻った。
 その概念があの二人に当てはめて良いものか悩ましいところだが、確かに他人から見ればそう捉えられてもおかしくない。少なくとも、轟の反応はそれらしいものだ。
(いや、でも……そもそも人間が恋するのは本来彼らのそれと同じ理由なわけで……)
 人間も動物だ。子孫を残すために自分の伴侶を探す。それはアルファとオメガも同じで、つまる話、彼らは人よりもその意識が高いだけである。
 数十秒ほど悶々と考えて辿り着いた結論に納得し、緑谷は飯田の答えをすんなり受け入れた。
「恋……うん、そうだね。恋煩いだと思う」
 緑谷が頷いたその時、彼の耳に大きな舌打ちが届いた。
「なぁーにが恋だ、アホらしい」
 爆豪だ。鋭い三白眼をさらに吊り上げ、眉をひそめ、不機嫌を隠すことなく顔に表した彼はギロリと緑谷と飯田を睨みつけた。
「爆豪君、班長なら班員の様子はきちんと把握しておくべきだと思うぞ」
「っせーな……だからこーしてわざわざ注意してやってんだろーが」
 確かに、と緑谷は心の中で頷いた。
 雄英のヒーロー科は班行動を重視した育成を行っている。毎年三回に分けて班替えも行われるのだが、今年は爆豪を班長とした班に轟が配置されていた。
 座学、実技ともに優秀な爆豪は基本、唯我独尊を地でいく人間だ。併せて個の能力が秀でているあまり、自尊心が山よりも高く他人と協力するということにあまり向いていない。
 だが、そんな彼が今回は(言動はいつも通り荒々しいが)しっかりと班長らしく轟の補佐をしている。
 彼と幼馴染の間柄である緑谷は、密かにその事実に驚愕していた。
「あいつの事情なんて知ったこっちゃねーが、俺の成績に響くような真似はぜってー許さねぇ。この際、ちょうどいい……今のうちにあいつの欠点という欠点を全部見つけ出して指摘してやる」
「み、みみっちぃ……」
「あ? 何言ってやがる。そもそも、んな浮わついたままでこの先やっていけるほど甘くねーだろ。ヒーローってのはよ」
 ヴィランのようなあくどい顔で心狭い発言もするが、爆豪の言葉は真摯なものだ。本人には自覚があまりないみたいだが(というより、認めたくないみたいだが)、轟に厳しく叱責するのも仲間のためを思っての行動なのだろう。
 とりあえず、猛々しくも冷静な爆豪がこうして轟の意識を現実に引き戻してくれるなら、一先ず心配はいらないだろう。
 今期の轟が爆豪班であることに安心し、ぽろりと緑谷は感謝の言葉を零した。
「……かっちゃん、ありがとう」
「はぁ〜あ? クソデクに礼を言われる覚えはねえよ!」
(ほんと、こういうところがなければもう少し人気も出るだろうになぁ……)
 青筋を浮かべ、親指を下に向けてすぐさま感謝の言葉をはね除ける爆豪。
 幼い頃からの天邪鬼な性格は健在のようで、緑谷はただ苦笑するしかなかった。
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