あなたへの好感度はマイナスの氷点下V(後)


「あっははははははっ!」
 オネエ様に連れられてやって来たお洒落なバー。その奥にあるカウンター席で、隣に座ってお腹を抱えながらひぃひぃと大笑いしているオネエ様の声を聞きながら、私は真っ赤になった顔を見られないように俯いてチビチビとお酒を飲んでいた。
 オネエ様とは反対側に座っている安室さんは、何とも言えない顔で苦笑いを浮かべていた。
「ごめんなさいね、いつもの悪ノリでつい……まあ、誤解を与えるような雰囲気はあったかもしれないけど、安心して。アタシ達まだそこまで深い関係じゃないから」
「まだ」
「苗字さん、そこは食いつかないで良いんですよ」
「んもう! つれないわねぇ、透君ったら。あんなことやこんなこともしてあげたのに」
「あんなことや、こんなことや、そんなこと」
「いえ、そんなことは言ってないですし、お願いですから食いつかないで。あなたも彼女の前で誤解を招く発言は控えてください。また取り返しがつかない勘違いをされたら困ります」
「あらァ。アタシはいつだって透君に本気よ? それに、勘違いされているのは透君の落ち度でしょ」
 流石オネエ様。あの安室さんがぐうの音も出ない。
 頬を膨らませながら堂々と安室さんに抗議した彼女は、注文したバーボンをぐいっと飲み干した。豪快で良い飲みっぷりだ。
 私も再び彼女と同じ飲み物に口をつける。
 うっ、久しぶりに飲んだけどバーボンってアルコールの味が強い。カクテルの方がやっぱり好きかも。
 そんなことを考えていると、安室さんに「無理して飲まなくても良いんですよ」と言われてグラスを奪われた。どうしてバレたんだろう。そんなに分かりやすい顔をしてたのかな。
「ねえ、あなたお酒強いの? さっきから顔色も変えずに飲んでるけど」
「付き合いで飲みには行きますけど、ほどほどにしか飲まないのでいつもは酔わないです」
「なら、今日は透君が奢ってくれるから遠慮なく飲みなさいな。見た感じなんか疲れてるみたいだし、今日はツイてない日だったんでしょう? そういう時は美味しいお酒で全部忘れたら良いのよ」
 そう言って続けて彼女が頼んでくれたのはインペリアル・フィズというお酒だった。良かった、柑橘系は大好きなので今飲んでいる物より格段に飲みやすい。
 ──でも、本当にお言葉に甘えて良いんだろうか。
 ちらりと安室さんを見ると、彼は肩を竦めてから頷いた。
「帰りは送りますので、安心してください」
「とか言いながら、こういう男はすぐ送り狼になるのよ。気をつけなさいね」
 私は曖昧に笑いながら頷いた。
 数年前に一度やらかしている、というのは内緒にしておこう。一杯か二杯ぐらいなら大丈夫だ。きっと。多分。すでに眠いけど。
「ねぇねぇ、せっかくだから恋バナしましょう。あ、透君の話は聞くまでもないからいらないわよ」
「自分から飲みに誘っておきながら酷い扱いですね……それじゃあ、お言葉に甘えて僕は少し席を外しますよ。仕事のことで連絡が入ってるみたいで」
「あらそう。ゆ〜っくり話してきてちょうだい」
 いやいやいや待って欲しい。人見知りがこんな押しの強い見ず知らずのオネエ様と二人きりで耐えられるわけがない。
 縋る思いで振り返り、安室さんを見上げる。
 目が合った安室さんは目をぱちくりさせたあと、ふっと優しく微笑んで私の頭を撫でた。
「話が終わったら、今日はもう帰りましょうね。いい子で待っていてください」
 マジですか。本当に置いて行くんですか薄情者。
 失礼なことに人を子供扱いした挙句、無情にも安室さんは足早にその場を立ち去っていった。「やぁね、見せつけてくれちゃって」と言いながらオネエ様は手元にあった酒を一口飲むと、ニヤニヤと笑いながら私に体を近づけてきた。
「ねえ、あなた。透君の彼女じゃないなら、他に好きな人はいるの?」
「い、いないです……」
「それじゃあ、今までどんなヤツと付き合ったのかしら?」
 あ、これは話さないと逃げられないやつ。
 絶対に聞き出すぞ、という雰囲気を感じ取った私は視線を逸らしながら答えた。
「……ストーカーと、DV野郎と、浮気男……です」
「……あなた、前世に男の恨みを買うようなことでもしたの?」
 流石のオネエ様も私の悪運にドン引きしたらしい。あからさまに「そこまで外れ引く人もそういないわよ」と憐みを込めた眼差しを向けられた。
「私、昔からそうなんです。タイミングが悪いというかなんというか……」
「それは同意するわ。でも、そんな男と縁が切れて良かったと思うわよ。おかげで良い男と出会えたんだから」
「良い男?」
「透君のこと。どう思う?」
「ああ……安室さんは、いい人ですよね」
「そうねぇ。……で?」
「で……?」
「好き? 嫌い? あ、もちろん恋愛的な意味で」
「どちらでもないです」
「あ〜、そういうのはナシナシ! こういう時は見ず知らずの女に吐いた方が楽になるのよ」
「いえ、本当にそういう感情がなくて……」
 自分のことを『女』ということに多少の疑問を抱いたけれど、そこに触れない方が身のためだ。眠気を堪えながら必死に返答していると、オネエ様は「ふぅん」と私を凝視したまま思案する。
 やけに顔が近いのはまるで目を通して私の心の内側を探ろうとしているようで、なんだか居心地の悪さを感じた。
「ストーカーにDVに浮気、ね……まあ、それだけ外れを引けば臆病にもなるか」
 ボソリと呟かれたその言葉は酔いが回った私の耳には入ってこなくて、私はただボーッと彼女の顔を見つめた。
「あなた、きっと損してるわ。もっと相手とちゃんと向き合ってみなさい。案外、次は悪いように転ばないかもしれないわよ」
「……どうして、そんなことわかるんですか?」
「良い事を教えておいてあげる。透君はね、ああ見えて結構バカみたいに生真面目で、一途なのよ。昔、一度だけ酒の勢いで惚れた女を抱いたことがあったみたいだけど、それからもずっとその彼女のことを想い続けているんだもの」
「へぇー……じゃあ、どうしてその人と付き合ってないんですか?」
「逃げられたからよ。ホテルでシャワーを浴びている間に、お金だけを置いてね」
「え」
 眠気からしぱしぱする瞼が、ほんの少しだけ力を戻した。
 なんだか既視感のある話にドキリと心臓が音を立てた。
 酒を飲もうとした手を止めて隣に座る彼女の顔を見つめると、綺麗にアイラインを引いた切れ長の目が愉快そうに細くなる。
「酷い話よね。その彼女、親友と男の浮気現場を目撃してしまって、この店で自棄酒をしていたんですって。で、酔ったまま見ず知らずの男の誘いに乗って、大事に守ってきた貞操を捧げたってワケ。ホント馬鹿な子」
 自分の体ぐらい大事にしなさい。そう言って笑うオネエ様が私の頭を撫でる。
 けれど私はその手の温もりが冷や水のように感じられて、血の気を失う感覚を味わった。
 今聞いた話は身に覚えがあるどころじゃない。彼女は明らかにそれが誰のことであるか、その目で、その口調で伝えていた。
「……うそ」
 そんな、馬鹿な。そんな偶然あるわけがない。それなら、どうして彼は一言もそんなことは言わなかったんだろうか。
 ──いや、言えなかったのかもしれない。だって、私はあの時のことを、ほとんど覚えていないのだから。今も、初めてポアロで出会った時も、私は彼のことなんてこれっぽっちも思い出せないのだから。
 行き着いた答えに手が震えたその時、電話を終えた安室さんが戻ってきた。
「さあ、そろそろお開きとしましょうか」
「んもう、透君ったらせっかちね。……でも、まあ、本当は朝まで付き合って欲しいけど仕方ないわ。透君のためにもお邪魔虫はここまでにしておいてあげる」
「え、ま、待っ、待って……」
 立ち上がった彼女の手を掴んで引き留めようとした私に、オネエ様は少し驚いた表情を見せる。
 しかし、それも一瞬だ。すぐに柔らかな笑みを浮かべながら彼女は私の手をそっと外した。
「この情報料は今度いただくわ。また一緒に飲みましょ」
 そんなご無体な! 頼んでもいない情報に金を払えと!?
 ヒラヒラと手を振って立ち去って行くオネエ様の背を青褪めながら見送る。彼女に伸ばした手は行く手を失うかと思われたが、優しい安室さんがそっと握りしめてくれた。
 ビクリとしながら見上げると、何も知らない彼はただ安心させるように微笑んでいるだけだった。
「……随分と、仲良くなったようで」
「あ、あの、あむろさん……」
「ああ、すみません。思ったより酒が回っているようですね。早く帰りましょう? 車はもう回してきましたので、店の前まで歩けますか?」
「あのっ、私は一人で帰れますから……!」
「駄目です。こんな時間に酔っているあなたを一人で歩かせたくない」
「でも、えっと……そう! 私、他にも行きたいお店があって!」
 どうしても彼の車に乗りたくなくて渋っていると、スッと目を細めた安室さんが艶やかな笑みを浮かべて私の頬を撫でた。
「それなら他の店じゃなくて、僕の家で飲みましょう。美味しいおつまみをご馳走しますよ。あなたともう少し話がしたかったので、ちょうど良かった」
 あ、やばい。これ何があっても逃がしてもらえないやつだ。笑っているけれど目が「逃がすか」と言いたげな捕食者のそれだ。
「え、えっとぉ……確かに私もお話がしたいんですけど……」
「それとも、ホテルの方がお好みですか? 僕はそれでも構いませんが……〇〇区の××ホテルなんてどうでしょう?」
 その言葉に、私は残っていたカクテルを全て飲み干して勢い良く立ち上がった。
「大事なお話しをしましょう! 安室さんのお家で!」
 返事を聞いた安室さんは嬉しそうに笑っているけれど、私の頬は完全に引きつっている。
 何故なら、彼がさっき口にしたのは、数年前に私が見ず知らずの男と過ごしたホテルだったからだ。
 嘘だと言って欲しかった。オネエ様が私ではない別の人と勘違いしてるのだと思いたかった。
 だけど、これで確信するしかない。
 安室さんは最初から、あの日抱いた女が私だと覚えていて近づいてきたんだ。


 その後は、どうしたんだっけ。
 眠気に勝てずに車の中で眠ってしまったら、次に目を覚ました私は本当に安室さんの家にいて、そこで何か話をしたはずだけどそれを覚えていなくて、気がつけばそう、私達はベッドの上にいたんだ。


 少し赤くなった頬を押さえたまま、むすーっ、という効果音が聞こえそうなほど不機嫌な表情を見せる三十路手前のイケメンを前に、私は正座をしたまま顔を覆って俯いていた。
「申し訳ございませんでした……」
「その謝罪は僕の頬を打ったことに対して? それとも酒の勢いでしたこと? それとも……君はこれまでのことを全てなかったことにしたいと?」
 命からがら朝から食われるという事態をビンタと泣き落としで全力回避した私は、昨晩あった出来事を一部思い返して自分の過ちに打ちのめされていた。
 責めるような口調で問いかける安室さんの顔を見ることも出来ず、小さな声でただ「申し訳ないです」と繰り返すしかない。謝罪以外に何も言葉が浮かんで来なかった。
 すっかりしおらしくなってしまった私に痺れを切らしたのか、安室さんは大きなため息を吐いた。
「もう一度だけ言いますが、昨夜バーで聞いた話の通りです。僕はあなたのことを初めて抱いたあの日のことも一度も忘れたことはなかった。だからポアロであなたとまた会えた時……陳腐な言葉ですが、運命だとさえ思ったんですよ。あなたは僕のことなんて全く記憶に残っていなかったみたいですけど」
「あの、えっと……はい、すみません……」
 何を言っても言い訳にしかならなくて、大人しく謝罪だけを口にする。
 けれど安室さんはそれで納得できるはずもなく、「謝罪はもう結構です」と冷たくあしらった。敬語に戻っているけれど、なんだか怒っている今の安室さんは安室さんじゃないみたいだ。いや、本名は安室さんじゃないそうなのである意味間違いではないんだろうけども。というか、その話の件が何より重要な気がするのに全く覚えてないって……駄目だ。私、やっぱりもうお酒はやめよう。
「僕があなたに求めることは二つ。僕が浮気男だという間違った認識を改めることと、これからはちゃんと僕の気持ちと向き合ってくれることです」
「それは……」
「警察としての仕事上、必要以上には関わらないとしても女性とはそれなりに接点がある……というのは説明しましたよね?」
「えっ!? ……あっ、ハイ。シッカリ覚エテイマス」
 ジトリと睨まれて思わず頷いたけれど、実はほとんど記憶にはない。疲れのせいか酒の周りが早くてしっかり記憶に留めてあるのは最初に振る舞われた安室さん手作りの美味しいおつまみと酒の味だけだ。会話の内容なんてほとんどが「そんな話もしたような……」で終わるレベルで覚えていない。本名は忘れてしまったし、彼が実は警察官でした、ということも今知ったようなものだ。
 安室さんもそれは察しているようで、疑わしいと言わんばかりに私を見つめている。
「……本当に覚えていないんですね?」
「……すみません」
「僕と付き合うという話になったことも?」
「はい……」
「僕があなたに惚れた経緯の話も? ベッドに入ってからの記憶も?」
「あ……あんまり、覚えてないです、ね……」
「……」
 ち、沈黙が痛い。悪気があったワケじゃないけれど、これは酷い。安室さんのことをスケコマシとか言ってられないレベルで酷い。駄目だ。やっぱりお酒はやめよう。禁酒しよう、うん。(二回目である)
「名前さん」
 何度目かのため息のあと、名前を呼ばれて私はおそるおそる俯かせていた顔を上げる。目が合った安室さんは怒った顔をしているかと思いきや、呆れた様子ではあったけれど穏やかに笑っていた。
「好きです。僕と付き合ってください」
「……」
 突然の告白に、私は一瞬何を言われたのかと耳を疑った。
 ──え? 告白? この流れで?
「……本気ですか?」
「ええ、本気ですよ。もちろん、今までのことも」
「でも、あの……」
「あ、もう返事はいらないです。最初から順番はめちゃくちゃですし、友達からでもなんでも良いので、まずあなたは僕との時間を作る努力をしてください。記憶もないのに『酒の勢い』で片づけられてしまうと流石の僕もヘコんでしまうから」
「うっ……」
 ──この人、本当に私のこと好きなんだよね……?
 優しい笑顔で傷を抉ってくる安室さんは容赦がない。ポアロにいる時は優しさの塊のような性格だと思っていたけど、ずけずけと言葉を放ってくるのは確かにお巡りさんっぽいというか、なんというか。二重人格のようにも思えてちょっと怖いし、色々と疑ってしまいそうだ。
「色々とすっ飛ばしてしまったものを、これから埋めていきましょう。その間に少しでもあなたの気持ちが僕に傾いたら、その時に改めて本名を名乗らせてください」
 あ、こういうところは安室さんっぽい。
 私は少しだけ肩の力を抜いた。
「でも、もし私が安室さんを……その……好きにならなかったら……」
「残念ながら、そんな未来は予定にないです」
 自信たっぷりに答える彼に、ぱかりと口が開く。
 これがモテるイケメンのセリフなのか。流石、ただの従業員でありながら他人のSNSを炎上させるだけある。
「……どうして私なんですか? 私みたいな女より、ホラ……いつもの金髪美女とかの方が、安室さんにはピッタリですよ」
「金髪美女? ……ああ、彼女とは絶対相容れないので、心配しないでください」
 きょとんとしたあと、思い当たる人物を思い出したのか少し不快そうに顔をしかめた安室さん。
 この安室さんに相容れないとか言われるあの美女がどんな人なのか気になるけれど、詳しく聞かない方が良いかもしれない。
「これも昨日伝えましたが、僕、実はバーで会う前にあなたと一度お会いしてるんですよ」
「えっ!?」
「ああ、その時のことは思い出させたくないので気にしないでください。あの時の名前さんはそれどころじゃなかったので、覚えていなくても当然でしょうし。ただ……僕があなたに惹かれた瞬間は、きっとその時だったんだと思うんです」
「わ、私、その時に一体何を……?」
 まさか、そこでもまた酒癖の悪さが出ているんじゃないだろうか。
 そんな不安に駆られて恐々尋ねてみたものの、安室さんは唇に人差し指を添えながら「それは内緒にしておきます」と意味深に笑うだけ。
 悪戯っぽく笑いながらも彼が隠し通すというのなら、無理に聞き出す手段を私は持ち合わせていない。
 しかし、隠されると気になるのは人間の性である。食い下がって尋ねてみる。
「どうしても駄目ですか……?」
「うーん……一つ言えることがあるとすれば、僕が胸を張って日本の警察官でいられるのはあなたのおかげ、ということぐらいですね」
 安室さんはそう言って、おもむろに私の頭を撫でる。髪を梳くように流れる手の動きはとても優しくて、素面の時に人に触れられる機会が少なかった私は他人の手の温もりに少し胸が高鳴るのを感じた。
「とにかく、これから全力で口説き落とすから、君は覚悟しておくように」
 そう言って私の前髪にキスをした安室さんに、今さら反論する言葉なんて浮かんでくるわけがない。
 されるがままになっていた私は、たった一言「お手柔らかに」と答えるしかなかった。

 その後、仕事の都合で隠し事の多い安室さんに「やっぱり騙されてるんじゃ……」と不安になることもあったけど、紆余曲折あって不安を感じるぐらいには彼のことを好きになっていたと気づく私がいたとかいないとか。
 他にも元カレに遭遇したりだとか、一度は禁酒に失敗したりだとか色々あるんだけど、彼への誤解が解けたあとに思い返せば全て笑い話で終わることだ。
 彼の隣で幸せそうに笑う私の苗字が変わる日も、そう遠くない未来だと思う。
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