僕は義理の姉に恋してる


 家の扉を開けようとして最初に違和感に気づいたのは、鍵がかかっていないことだった。
 あれ、と思いながら差し込んだ鍵をゆっくり引き抜いて玄関の扉を音を立てないように開ける。
 最初に確認したのは、靴だ。一足だけ乱雑に脱ぎ捨てられた黒のパンプスが転がっている。母さんの靴でも父さんの靴でもない、もう一人の女物の靴だ。
(そういえば、今日は早く帰ってくるって言っていたな……)
 朝の会話を思い出す。だけど、朝食を食べながら「今日は零君の好きなご飯を作ってあげるからね!」と楽しそうに喋っていた彼女の気配はどこにも感じられない。父さんと母さんも今日は帰ってこないと言っていたのでいるわけがないし。
「ただいま」
 小さな声で呟いて、玄関の扉を閉めた。鍵をかけるのも忘れない。それから足音を極力立てないように気をつけて家の中を進み、開かれたままのリビングの扉から部屋の中を覗き込む。
 長いソファの端から、白い腕がだらりと落ちているのが見えた。それが誰の腕なのか、そして何故その状態になっているのかを理解して、半目になる。
 ――ああいう状態の時は、ちょっとだけ面倒臭いんだよな。
 心の中で独り言ちながら、おもむろに口を開いた。
「……死んでる?」
 垂れ下がっていた手がピクリと反応した。続けてガバリとソファの背凭れの部分から女の頭が飛び出してくる。寝転んで少しボサボサになった黒髪と、汗で落ちてしまった化粧。目は腫れぼったくなっており、唇は一日見ないうちにガサガサに荒れていた。
「聞ぃ〜で〜よぉ〜!! れぇぇえぐぅぅうんんんん!!」
 ボロボロと涙を流しながら全力で「話を聞いてくれ」と訴えてくる彼女は、普段は家族の贔屓目がなくても愛らしい顔立ちをしている。
 だが、今の彼女はその面影が感じられない。どこからどう見ても山姥のようになっていた。
 ――女性は身嗜み一つで変わるというが、これは酷いな。
 はあ、と深い溜息を吐いて大人しくリビングに足を踏み入れる。
「姉さん。いつ帰ってきたんだ?」
「ぐすっ……さっき……ちょっと残業した」
 がっくしと項垂れて、ソファーの背凭れに額を押しつけながら俯く彼女はヒックヒックとしゃくりあげている。
「いい大人が号泣するなよ……今度は何? 自分のミス? それともまた理不尽に何か言われた?」
「誰のミスかわかんないことで怒られた……」
「聞き流せば良いだろ、そんなの」
「だってぇ〜……一概に関係ないとは言えないんだもん!! それに、どうせミスしたのお前だろ、って言われて……うぅっ……ミスってんのどう考えても貴様の方だろぉ〜〜っ!!」
「姉さん、言葉遣いが悪い」
「どう考えてもお前様だ〜〜〜〜っ!!」
 素直に言い直したけど意味なかった。様を付けたら何でも許されるってもんじゃないんだぞ。でも余計なことは言わずに黙ってうんうんと相槌を打っておく。
 どうやら、今日の姉さんはいつも以上に荒んでいるらしい。いや、これだけギャンギャンと号泣されたら一目でわかるけど。
 こういう時は黙って聞いてやるのが一番だ。ソファーに顔を押しつけたままグスグスと泣き続ける姉さんの頭をポンポンと軽く叩いて、乱れた長い髪を整えるように撫でる。
「姉さん、疲れてるなら先に風呂でも入ってきなよ。今日は僕がご飯作るから」
「ぐすっ……お味噌汁……」
「はいはい。ちゃんと作るって」
 のろのろとソファーから立ち上がった彼女は、やや覚束ない足取りで風呂場の方へ向かう。そんな情けない後ろ姿を呆れながらも見送って、僕も学校の制服から着替える為に一度部屋に戻った。

 僕と姉さんは血の繋がりがない。僕が小学生の頃、親同士が再婚したとかではなく養子として一人この家にやって来たのが彼女だ。所謂、義理の姉弟になる。
 姉さんの本当の家族は、もうこの世界のどこにもいない。父も、母も、弟も、家族全員事故で亡くなったそうだ。そこで友人として葬式に出席した父さんが、親戚の人達が彼女を押しつけ合うのを見ていられなくて連れて帰ってきたらしい。
「零、あなたのお姉ちゃんになるのよ」
 母さんが嬉しそうに笑いながら僕の肩に手を置いてそう言った時、彼女は戸惑ったように表情を曇らせながら、それでも少しだけ微笑んで「よろしくね」と挨拶をしてくれた。

 僕とは違う日本人らしい黒髪。
 僕とは違う雪のような白い肌。
 僕とは違う愛嬌のある黒い瞳。

 ――何もかも自分とは異なる彼女が、姉になる。

 日本人らしくて羨ましいと思った。嫉妬心もあったかもしれない。
 だけどそれ以上に、彼女を可愛いと思った。今思い返してみれば、この時に初めて一目惚れをしたんだと思う。こんなにも可愛いくて優しそうな人が自分の姉になるのだと思うと、嬉しくて仕方がなかった。
 そして、それと同時に引け目も感じた。
 金色の髪に、褐色の肌と、青色の目。どう見ても日本人らしくない僕の容姿は同級生達に虐められる原因になっていたし、そんな僕が彼女を「姉さん」と呼んで慕ってはいけないと思っていた。
 ――もしかしたら、僕が原因で学校で虐められるかもしれない。
 そう考えたことも、今まで何度もあった。だから、僕は彼女を素直に受け入れてすぐに「姉さん」とは呼べなかった。
 そんな僕の思いを感じ取っていたのかは分からないけれど、その頃の姉さんも必要以上に僕には関わろうとしなかった。


 そんな僕達の関係を変えたのは幼馴染である景光の言葉がきっかけだった。
 家に遊びに来ていた景光と姉さんが初めて出会った時、姉さんは母さんと二人でクッキーを焼いていた。
「ゼロのねーちゃんなの? ゼロにそっくりじゃん!」
 景光が僕達の何を見てそう言ったのかは分からない。その頃の景光はまだ僕と姉さんが義理の姉弟であるとは知らなかったし、僕も姉さんのことは何一つ話したりはしなかった。
 だからこそ、何も知らない景光が姉さんと僕を見比べてケラケラと笑っているのがとても不思議だった。
 その時の姉さんも戸惑っていたんだと思う。視線をあっちへこっちへ向けながら、笑って良いのか悪いのか迷っているような、そんな曖昧な笑みを浮かべていた。
「似てるって、どこがだよ?」
「うーん……目?」
「僕と姉さんの目、全然色が違うだろ」
 言ってから、はっとして口を抑える。この時が、初めて僕が彼女を姉と呼んだ瞬間だった。
 しまった、と思いながら彼女の方へ目を向けると、姉さんはきょとんとしていた。隣にいる母さんはニマニマと笑いながら僕を見ている。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
「え、何。なんでそんな真っ赤になってるの?」
「あっ、赤くない!」
「お姉ちゃんのこと、初めて『姉さん』って呼んだから照れてるのよね〜?」
「え? そうなの?」
「母さん、うるさい!」
 ギャイギャイとカウンター越しに騒いでいると、甘い匂いを漂わせていたオーブンからピロピロと音楽が鳴った。その音に反応した母さんがオーブンを開けて中を覗き込む。
「零君、景光君」
 名前を呼ばれてドキリとした。
 目を向けると、お皿といくつかのコップを用意していた姉さんがふわりと笑う。
「一緒におやつ、食べる?」
「……食べる」
 初めて向けられた優しい笑顔にドキドキと高鳴る自分の鼓動。気恥ずかしさと、受け入れてもらえた喜びがぐちゃぐちゃになって、目を合わせられないまま頷いた。

 僕達が姉弟らしくなっていったのは、この日からだった気がする。
 そうして何年もの間、僕達は仲の良い姉弟だと言われ続けることになるのだ。

 僕の心に宿った淡い恋心は、今も胸の中で燻ったまま。


 *** *** ***


「はぁ〜……ごちそうさまでした」
 風呂を済ませて食事を終えた彼女は泣いてたことなんて嘘のように、幸せそうにほぅ、と頬を綻ばせて和んでいた。
「零君が作ったお味噌汁、いつも美味しいから毎日飲みたいわぁ」
「大袈裟な……味噌と出汁の素を放り込んだだけだろ」
「その匙加減で味は変わるんだって! 分かってないなぁ〜」
「はいはい、すみませんでした」
 お茶を飲みながら唇を尖らせる姉さんの小言を、食器を片付けながら適当に聞き流す。
 姉さんは味噌汁が好きだ。だからなのか、作る時の味付けにはすごく拘りがあるようで、出汁を取るところから作り始めることもある。僕としては姉さんが作る味噌汁の方が断然好きだけど、本人が好きというなら、まあ、悪い気はしない。
「それにしても零君、料理上手になったよね……料理ができる男の子はモテるぞ〜?」
「別に、これぐらいでモテないよ。残り物の材料で炒め物を作っただけじゃないか」
「え〜? うっそだぁ〜。今時の子は男の子も料理ができた方が良いんだよ? 学校の女の子達、人を見る目ないねぇ……」
「……そういう姉さんは彼氏できたのか?」
「え、私? 職場の男性、既婚者が多いしねぇ……」
「ふぅん?」
「え、何? その目は何?」
「いや、別に」
 姉さんは自分で気づいていないのかもしれないけれど、意外とモテる。少なくとも僕のスマホに入っている姉さんの写真を見た同級生は姉さんを可愛いと言うし、姉さんと同学年の兄や姉がいる子達からは姉さんがどれだけモテていたかという話を噂程度で聞いている。幼馴染の景光も姉さんがモテないという言葉だけは信用していない。
 少しだけ疑わしい目を向けたら姉さんが首を傾げていた。この無自覚め。
「あ、そう言えばこの前借りた映画まだ見てないんだった……零君、会社で貰ったお菓子食べながら一緒に観ようよ」
「観るのは良いけど……因みに、そのお菓子、誰に貰ったんだ?」
「ん? 同期の男の子」
「……」
 そういうところだろ、姉さん。というか、さっき既婚者が多いって言ったじゃないか。好きでもなんでもない女性にお菓子を渡す男なんていないと思うんだが。
 とりあえず、姉さんはその同期の男の子には興味がないようだけれど、特に好かれている自覚がないというのも考えものだ。
「……ちゃんと『弟と一緒に美味しく頂きます』って言った?」
「うん。言ったら苦笑いしてた」
「だろうな」
 まあ、好きでもない男から食べ物貰ったらそう返事しておけと言ったのは、他でもない僕だけどな。


 二人で食べ終えた食器を片付けた後、僕はソファーを背凭れにして床に座りながら、姉さんはソファーの上に座ってお気に入りの柔らかいクッションを抱き抱えながら映画を眺めていた。
 内容は高校生の妹と大学生の義兄と幼馴染の三角関係のラブコメだ。妹が大学生の兄に恋をして告白をするけど、『妹としか見れない』と言われてフラれてしまい、幼馴染に告白されるお話。――内容を聞いた瞬間、自分の恋心がバレたのかと思って心臓がうるさかった。本当に焦った。
「……姉さん、こういう話好きだったっけ?」
 彼女が会社で貰ったというチョコレートのお菓子を口に放り込みながら、ちらりと背後を振り返る。
 姉さんは少しだけ難しい顔をして首を捻った。
「ううん。前に話題になってたから気になっただけ。あまり思ってたより面白くはないね。零君、観ていて楽しい?」
「設定が身に覚えがありすぎて楽しめない……」
「? ……あっ、私達のこと? なるほど。恋愛感情なくても義理の姉弟ってところが気になるもんなのね……」
 いや、そうだけどそうじゃない。高校生の妹が僕と同じ立場ってところに共感し過ぎて楽しめないんだ。
 本音を口に出しそうになって、慌ててぎゅっと口を閉ざす。
「これ観た人に『義兄に壁ドンされるシーンときめくよ!』ってめっちゃ推されて借りたんだけど、ハズレだったね」
 うぅん、と難しい顔で唸った姉さんはお菓子を口に放り込み、もごもごと口を動かす。それから一緒に用意していた酒を一口飲んだ。
「次、何観よっか?」
 言いながら、僕の傍に置いてあったレンタル屋の袋に手を伸ばす。あ、これは本当につまらないと思ってるな。ゴソゴソと他に借りてきたDVDを漁っている彼女は、どうやら完全にこの映画に興味を無くしたらしい。
 それにしても、一体何本借りてきたんだ。結構な厚みがある袋に目を向けると、すぐには自分で選びきれなかった姉さんに「零君、好きなの選んで」と山積みになったDVDのケースを手渡された。
 とりあえず、一番上にあったホラーっぽいものはそっと袋に戻しておいた。
「……あ、これ観たかったやつだ」
「そうなの? じゃあ、次はそれにしようか。零君、先にお風呂入っておいでよ。私これ観ながら待ってるから」
 そう言いながら風呂から上がってきたら自分は寝ていたりしないよな。
 疑わしい視線を向けると、今にも寝転んでしまいそうな体勢だった姉さんが体を起こしてソファーに座り直した。なるほど、そのまま眠ってしまうという自覚はあったらしい。
「ほらほら。早くしないと遅くなるよ〜? 私寝ちゃうかも〜」
「はいはい」
 僕は急かされるまま、着替えを取りに部屋へ向かった。
 多分、いや絶対、リビングに戻ったら寝てるんだろうな。早く戻ろう。


 なるべく早めに入浴を済ませてリビングに戻ると、既に映画は終わっていた。けれどソファーに座っていたはずの姉さんの姿がない。
 まさか、と思ってソファーの上から覗き込んでみる。すぅすぅと静かな寝息を立てる姉さんがいた。何この寝顔。天使か。
 テーブルの上には置いてあった酒の缶が増えている。僕が入浴している間、チョコレートをつまみ代わりにおかわりしていたらしい。それで程よくアルコールが回って眠くなったんだろう。
「姉さん。僕、風呂上がったんだけど」
「ん〜」
 不満をボヤきながら人差し指でつんつんと頬を突くけれど、彼女は鬱陶しそうに唸るだけで一向に目を覚ます様子もなく気持ち良さそうに眠り続けている。
 風呂に入ってからご飯を食べたら元気になったように振る舞っていたけれど、やはり今日は本人の想像以上に疲れていたのかもしれない。
 やれやれ、と溜息を吐いた。風邪を引かないように彼女の体にブランケットをかけて、またソファーの前に座り込む。
「人の気も知らないで呑気に寝るなよな……」
 彼女の頬を撫でて、薄く開かれた唇に軽く指を這わせる。
 昔はこんなに荒れていなかったんだけどなあ、なんて思いながら、そっとそこに自分の唇を寄せた。ふに、と柔らかい感触を静かに味わいながら、ゆっくりと離れる。
 僕がこうして意識のない彼女に触れるようになったのはいつからだっただろう。最初はおでこや頬だったのが、高校生になってからは気がつけば唇になっていた。
 姉さんは僕を普通の弟としてしか見ていないようだったけれど、僕は初めて会った時からずっと彼女を女として意識してきた。好きでなければ彼女のために料理をしようとも、彼女が選んできた映画を一緒に観ようともしなかっただろう。
 でも、どうすれば鈍感な彼女に男として意識してもらえるかも分からないまま、今日まで月日が流れてしまった。姉弟らしく振る舞えば振る舞うほど、この恋は成就し難い状況へ追い込まれていくのだ。
(何やってんだ、僕は……)
 面と向かって告白もできないのに、こうして寝込みばかり襲っている。そんな情けない自分に、片手で顔を覆いながらがっくりと項垂れる。
 もう一度、ちらりと彼女の顔を見た。やはり彼女は相も変わらず、すやすやと穏やかな顔で眠っている。
「……好きだよ、姉さん」
 そんな彼女の頭をもう一度だけ撫でて、聞こえていないと分かっていながらぽつりと呟く。
(仕方ないな。一人で映画を観て、終わってもまだ寝ていたら起こそうか……)
 僕はDVDを手にテレビの方へ近づいてDVDデッキの中身を入れ替える。
 だから僕は、背後で姉さんが寝返りを打ったことに気づかなかった。

「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」

 この時にブランケットを頭まで被った姉さんが顔を真っ赤にしていたと知るのは、まだ半年以上先の、彼女と恋人になってからの話だ。
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