トリップは雨上がりのあとで


 雨の日は、嫌いだった。
 どれだけ髪を整えても湿気で毛先がクルクルするし、お気に入りの靴を履いてお出かけもできない。傘を差していても服は濡れてしまうし、楽しみにしていた予定はキャンセルになったりする。
 雨の日は、嫌なことばかり起こる。
「暇だねぇ、ピー助」
 畳の上に横たわりながら去年から我が家にやってきた白いインコのピー助に声をかけると、小屋の片隅で蹲って眠っていたピー助は軽く目を開けて私を見る。けれど、すぐに身動ぎして目を閉じてしまった。
 それを見た私は青紫色になった右頬を摩って、力尽きたように仰向けになる。
 ザアザアと降り続ける雨粒がベランダの手摺りにぶつかり、バチバチと弾ける音が部屋に響く。
 誰もいない、やや薄暗い部屋の中。
 詳しい理由は知らないが、朝から派手に大喧嘩していたお父さんとお母さんはしばらくして二人ともどこかへ出かけてしまった。喧騒で目を覚ました時と違って、今の家の中はとても静かだ。
 二人の喧嘩を止めようとした数時間前の恐怖を思い出したくなくて、私は目を閉じる。
 雨音に紛れて車が通り過ぎる音が何度も聞こえた。
 自転車がブレーキをかけた音もする。
 ごろんごろんとピー助の小屋にぶつからないように気をつけながら、畳の上を転がって体の向きを変えた。
 目を開ければ窓から見える空は濁った灰色で覆われていて、滝のように勢いよく水が落ちていた。
 ──ユーウツ、だ。
 誰かが書いた小説で見かけた単語を思い出して、心の中でポツリと呟いた。
 ふーっ、と大きく息を吐いて、腕と足を投げ出して大の字になる。
 そして、今度こそ眠ろうと私は瞳を閉じた。


 雨の日は、大嫌いだ。


「ピョッ」
 甲高い鳴き声が聞こえた。
 ハッとして目を開くと、いつの間にか小屋から脱走していたピー助がちょこんと顔の近くにいた。ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返し、チラチラとこちらを窺うように見つめながら首を傾げ、もう一度「ピィーッ」と鳴いた。
「いやいやいや……いつの間に出てきたの、ピー助。駄目じゃん、勝手に出てきちゃ」
 驚きながら体を起こし、その足元に人差し指を差し出す。
 けれど、ピー助は近づけられた私の指には乗ろうとはせず、避けるようにトコトコと窓の方へ早足で向かった。
 そこで、私は窓が開いていることに気づいた。
「え、嘘……!?」
 自分が眠る時にそこはしっかりと閉じていたはず──いや、今はそんなことを考えている暇なんてない。
 逃さないように、と慌ててピー助を掴もうと伸ばした手は、虚しくも空を切った。
 私の手から逃れた鳥は綺麗に伸びた翼を羽ばたかせ、晴れ渡った青空の中を飛び出して行く。
「ピー助!」
 逃げ出したはずの鳥はまるで私を待っているかのように部屋の前を旋回していて、窓からそれを見た私は転がるように家の中を駆け抜け、急いで靴を履いて外へと飛び出した。
 エレベーターから降りて、人の気配のないマンションのエントランスホールを通り抜け、私が空を見上げてその姿を捉えると、ピー助はどこかに向かって方向を変えた。
「待って、ピー助! 勝手にどっか行ったら、また私が怒られちゃうよ!」
 私はその白い塊を見失わないように空を見上げたまま、誰もいない町の中を走り続けた。
 ばしゃん、と雨の後に残った水溜まりを何度も踏みつけて、お気に入りの靴や服を汚れていくのもお構いなしに無我夢中で走り続ける。追いかけて、追いかけて、ぐしょぐしょになった靴や肌にべっとりとへばりつく服が気持ち悪く感じても、ピー助を追いかけることは止めなかった。
 やがて息も絶え絶えになってきた頃、ピー助がまた頭上を大きく旋回した。何をしているんだろう。上を見上げたまま、降りてくるのを待ってみる。じーっと眺めていると、どこか真っ白なピー助の体が太陽に照らされて輝いているように見えた。
 ふと、小さくて白い塊が大きく空に向かって飛び上がったかと思うと、そのままぐるりと回り、地面に向かって頭から落ちてきた。
「……え?」
 ひゅんっと目の前を高速で落ちていったそれは、ぼちゃん、と音を立てて姿を消した。
 おそるおそる足元に視線を落とす。
 目の前には雨水で出来た水溜まりが大きな波紋を広げていた。だけど、ピー助の姿はどこにも見当たらない。
(え、ピー助……? どこ行ったの?)
 普通、水溜まりはそんなに深くないはずだし、上から見下ろせば水の底も見えるはずだ。なのに、そこにあるのは底なしの暗闇だけ。
 もうこうなってしまってはどうすれば良いのか分からず、青空と自分の顔を映している水溜まりを見つめたまま私は立ち往生した。
 すると、波打つ水面の景色が魔法の水鏡のようにゆっくりと変わっていった。
「何、これ……」
 波打つ水面の向こうでは、夕暮れのように空が赤く染まっていた。
 頭上を確認するけれど、白い雲を泳がせた空はまだ青い。
 もしかして、自分は夢でも見ているんだろうか。どう考えてこれはもおかしい。なのに、異変を感じていながら無意識に自分の手は水面に伸びていく。
 そして、ちょんと水面に指先が触れた瞬間。
 私の体は吸い込まれるようにそのまま水の中へと引きずりこまれた。
 ざぶん、と落ちた衝撃で生じた水泡が水面に向かっていくのを見ながら、慌てて息を止める。
 だけど、それが長く続かないことも分かっていた。
 ──苦しい。どうにかして浮上しなくちゃ。
 私は必死にもがいて水面へ上がろうと腕と足を動かす。
 でも、自分の意思とは反対に体は底に向かって沈んでいくばかり。
 すでに陽の光を映した水面は、遥か遠くになっていた。
(もう、駄目……)
 ゴポリと口から空気が溢れる。
 ──死にたくない。
 そう思っても、誰にも助けてはもらえない。
 重力に従って体は真っ暗な水の底へと沈んでいく。
 するとその時、視界の端でキラリと何かが光った。
 何だろう。そう思って目を動かすと、自分の周りを大小異なる光る水泡がいくつも浮いていた。どうやらこれは下から上がってきているらしい。
 その中の大きな水泡の一つに、二人の少年の後ろ姿が見えた。一人はパーカーを着た黒髪の男の子で、もう一人は金髪に日焼けしたような肌の色をしていた。
 彼らは笑い合いながら、夕陽に染まる公園で遊んでいた。
 ──いいな。楽しそう。
 死ぬ前に自分も混ざりたい。ピー助を追いかけるのも、もう疲れてしまった。どうせ帰ったらお父さんとお母さんには怒られるのだ。このまま、彼らと一緒に遊んでいるのも良いかもしれない。
 私はさっきまで感じていた息苦しさがなくなっていることも気づかず、何となくその水泡に手を伸ばす。
 柔らかな表面が凹んで、手が水泡の中へ呑まれていく。
 彼らを映し出した泡は眩い光を放つと、ゆっくりと大きくなり、限界まで膨らむとパチンと大きな音を立てて弾け飛んだ。
 その瞬間、体が大きな衝撃を受けて、水の底へ向かって勢いよく弾き飛ばされた。


「いたっ!」
 べしゃ、と地面を転がった衝撃に声を上げる。
 私は運動神経が良い。そのおかげで滅多に転ぶことがないせいか、足を擦りむいた感覚に涙が出そうになった。お腹も強く打ってしまって、一瞬息が詰まって咳き込む。もそもそと体を起こして手を見ると、手の平も擦りむけて血が滲んでいた。
(どうしてこんな事に……こんな目に遭うなら、ピー助を追いかけるんじゃなかった)
 ここで、はたと違和感に気づく。
 さっきまで水中にいたというのに、自分の体は少しも濡れていない。水溜まりを踏んだはずの靴も乾いていた。

「な、なあ……大丈夫か?」

 呆然としていると、誰かに声をかけられて、ゆっくりと顔を上げる。
 目の前にいたのは、水の中で見かけた男の子だ。夕陽に照らされて輝きそうな綺麗な金色の髪に、日焼けをした肌。顔には怪我をしているのか、絆創膏が貼られている。
 吸い込まれてしまいそうなほど綺麗で真っ直ぐな青の瞳を見つめていると、痛みがすぅっと引いていくような気がした。
「立てるか?」
「う、うん……」
 優しく怪我をしている手を握られて、腕を引っ張られて立ち上がる。
「うわー……すげぇ擦りむいてんな」
 パーカーを着た黒髪の男の子も近づいてきて、手と足にできた傷口を見てぎょっとした表情になる。自分が負った傷でもないのに、彼は青褪めながら痛そうに顔を歪めていた。
「とにかく、水で傷口を洗わないと……あと、顔も赤くなってる」
「あ、これは……」
「殴られたんだろ? それもちゃんと冷やした方が良いよ」
 金髪の男の子はそう言って手洗い場に誘導してくれた。洗っても拭く物を持ち合わせていないんだけれど、「しっかり洗え」と金髪の男の子に注意されたので大人しく傷口を洗う。その間、パーカーを着た男の子はどこかへ走って行ってしまった。
「〜〜〜〜っ……」
 傷口に水が染みる。じくじくと痛むそこにまた泣きそうになりながら何とか土を流すと、金髪の男の子は自分が持っていたハンカチを貸してくれて、絆創膏も分けてくれた。
「あ、ありがとう」
「! ……うん」
 初対面だというのに面倒見の良い彼の優しさに嬉しくなる。笑顔でお礼を言えば、照れ臭いのか彼はちょっと目線を逸らしたあと、鼻の下を指で擦ってからふいっと顔を背けてしまった。
「あのさ……顔、どうしたんだ?」
「あ……朝、お父さんとお母さんが喧嘩してて……」
「……もしかして、止めようとした?」
「え、どうして分かったの?」
「僕も前に同じことしたから……大人が殴り合いを始めたら、間に入っちゃ駄目だぞ。子供の言葉なんて、どうせ聞いてくれやしない」
 諦めを含んだ声で、金髪の彼は憮然としながらもどこか寂しそうな様子でそう言った。
 あまりに大人びたことを言うので、この子も苦労してるんだろうな、なんて、子供ながらそんな親近感にも似た感想を抱く。
「おーい!」
 声が聞こえて顔を向ける。パーカーの男の子がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「ほら、お茶買ってきたから、これで顔冷やせば良いよ」
「え、買ってきたって……」
「良いから!」
 なんだか申し訳なくなって受け取るのを躊躇うと、わざわざ買ってきてくれた男の子は笑顔のままべちっと頬に缶を押しつけてきた。
 突然やってきた冷たい感触にびくりと体を震わせる。それから大人しく缶を受け取って頬に押し当てる。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして! なあ、名前は? 俺、景光っていうんだ」
「僕は、零」
「わ、私は、名前……」
 随分と友好的で積極的な男の子だ。突然の自己紹介に戸惑いながらも名乗ると、二人は顔を見合わせてからニッと笑った。
「俺達と一緒に遊ぼうぜ、名前!」
「ちょうど良いから、それ飲んだら缶蹴りしないか?」
「! ……うんっ!!」
 知り合ったばかりの私を気遣ってくれた優しい男の子達。水の中で彼らと遊びたいと思っていた私は、友達だと認めてもらえたように「一緒に遊ぼう」と誘われたことがすごく嬉しかった。
 ピー助を追いかけていたことなんてすっかり忘れて、大きく頷く。
 するとその時、私の頭にポツリと水滴が落ちてきた。
 ポツポツと続けて落ちてくるそれに気づいた二人も空を見上げた。
「あれ……晴れてるのに……」
「狐の嫁入りだな。あっちで止むのを待とう」
 零君が半球体の穴が開いた遊具を見て私に手を差し伸べる。
 しかし、差し出された彼の手を、私は掴むことができなかった。
「え」
 零君の手に乗せようとした手がすり抜ける。
 驚いて固まる私と同じように、動きを止めた二人も私を凝視していた。
 そっと手を翳す。自分の手が透けて、目を見開く零君と景光君の顔が見えた。
「お、おい、名前……」
「な、んで……透けてるんだ……?」
 驚きと、怯えが滲んだ二人の瞳。
 そりゃそうだ。誰だって人が突然透けてしまったら怖いに決まってる。

 雨粒が増える。
 まるで私の姿を少しずつ覆い隠すように、雨粒のカーテンが彼らと私の間に境界線を引いた。

 どうして。
 これから零君と景光君と遊ぼうと思ったのに。
 せっかく、友達になれると思ったのに。
 手に持っていた缶が滑り落ちる。
「──────」


 ああ、やっぱり、雨なんて大嫌い。


 世界が、反転して、ぐるりと廻った。
「……っ!?」
 ぱちりと目を開く。
 目の前にある小屋の中で、ピー助が下段に備えた木の棒に掴まりながら私を見つめていた。
「……ピー助……?」
「ピッ」
 名前を呼ばれたピー助は返事をしているかのように短く鳴いて、チラチラと窺うように私に目を向けてから自分の毛繕いを始める。
 ──どうやら、さっきまで夢を見ていたようだ。
 ふう、と息を吐き出した私はいつの間にか目尻に浮かんでいた涙を拭って、四つん這いになってピー助に近付こうとする。
 けれど、畳に手をついた時、手の平にずきりと痛みを感じた。
 おかしい。寝ている間に怪我なんてしないのに。
 そう思って手の平を見ると、そこには夢の中で零君から貰った絆創膏が貼られていることに気づいた。
 どうして。そんな言葉が頭の中を支配して、呆然とする。
「夢じゃ……なかった……?」
 呟いてみても、口から溢れた疑問に答えてくれる人なんていない。
 夕陽が差し込む部屋の中。
 呑気に毛繕いをしているピー助を見つめたまま、私はお父さんとお母さんが帰ってくるまで呆然としていた。



 *** *** ***



「……消えた……」
 ぽつりと呟いた景光の言葉を聞きながら、僕はコロコロと転がってきたお茶の缶を拾い上げる。
 さっきまでこれを持っていた女の子は、突然目の前に現れて怪我をしたかと思えば、急に降ってきた雨に隠れるように姿を消してしまった。
「も、もしかして、幽霊……だったとか?」
「……分からない」
 その質問に首を横に振る。
 でも、彼女は幽霊なんかじゃない、と僕は思う。
 だって、短い間だったとしても僕は彼女に触れることができたのだから。
 それに、幽霊であるかどうかよりも、僕は最後に彼女が見せた表情の方がずっと気になっていた。

『帰りたく、ないなぁ』

 雨に紛れて消えていく彼女の唇が最後に呟いた言葉。
 転んでも泣かないよう堪えていた愛らしい顔が、雨に紛れて静かに涙を零しながらくしゃりと歪んでいた。
 傷口を洗っている時よりも痛みに耐えるような、苦しそうな彼女の顔が、いつまでも僕の脳裏に焼き付いている。
「こ、怖ぁ〜……なあ、ゼロ。もう今日は帰ろう」
「……うん」
 怖い怖い、と腕を擦って寒さに耐えるような仕草をした景光。
 頷きながら景光と一緒に歩き出した僕は、何度も彼女がいた消えた場所を振り返る。
 本当に彼女は幽霊だったんだろうか。
 それなら、帰りたくないと言った彼女は、どこへ帰ったんだろう。
 帰った先に、彼女の居場所は本当にあるんだろうか。
 絆創膏を渡した時の、彼女の笑顔が脳裏を過る。
「名前」
 忘れないように、僕は彼女の名を心に刻む。


 これは、幼い日にあった不思議な出会い。
 だけど、この日を境に僕達は何度もこの不思議な現象を目の当たりにすることになる。
 それが大人になっても続くことになるだなんて、この時の僕は──僕達は、まだ何も知らない。
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