It's a beautiful world of love


 数年前、人々が持つ『個性』の在り方を巡り、様々な改革が行われた。
 その経緯の中で最も大きな出来事があったとすれば『敵連合』による大きなテロ事件だろう。数多くのヒーローが出動したにも関わらず市民にも甚大な被害が出た事件で、ヒーローの中には大怪我を負って引退を余儀なくされただけでなく、殉職した者も少なからずいたという。
 そのテロ事件が起こる前には『神野区の悪夢』と呼ばれる事件をきっかけに『平和の象徴』の引退という報道も出ていた。
 ヒーローにとって、それは良くも悪くも激動の年だっただろう。世界が善に転ぶか、悪に転ぶか。正しく歴史の分岐点だった。

 けれど、そんな先の見えない荒々しい時代も新たな『平和の象徴』によってすぐに終わりを迎える。
 数々の事件を経て人々の考え方が変わり、数多のヒーロー達によって『個性』の在り方が変わり、明るい超人社会の未来が切り開かれたのである。


『平和の象徴、またもや事件解決』
 その文字が目に入ったのは偶然だった。下を向きながら歩いていたら、喧騒が止まない街路の端に落ちていた新聞紙がなんとなく視界に入っただけだった。
 ──そうか、また解決したのか。
 感想はそれだけだ。世間を騒がすプロヒーローの話題になんて興味はないし、正直に言えば名前すら覚えていない。『平和の象徴』と『デク』という名前さえ知っていれば、大体なんとか他人と話を合わせることができるので問題はない。
 また職場の女子が盛り上がるんだろうな、なんて考えながら落ちていたそれを拾い、近くにあったゴミ箱へと突っ込んだ──と、同時だった。
「いやっ……離してっ!」
 女性の悲鳴が聞こえ、どくり、と心臓が跳ねた。
 なんだろう、と思って目を向ければ、そこでは同じ年頃の女性が大柄な男に腕を掴まれていて、その手から逃れようと必死にもがいていた。
「やめて……誰かっ、誰か助けて!」
「うっせぇな! ぶつかってきたのはそっちだろ!! 大人しく責任取れよ!!」
 随分と横柄な態度の男だ。言いがかりであるのは十分理解できる。大方、自分から彼女にわざとぶつかったのだろう。
 何故なら、彼はそういう『色』をしているのだから。
 ──運が、悪かったな。
 道行く人は関わりたくないと言わんばかりに女から顔を背け、俯きながら歩き去る。『助けて』という声が聞こえないかのように、そちらに目も向けない。
 ただそこで騒ぐ二人に迷惑だと顔を歪めながら、彼らは皆、自分の非道さは見て見ぬふりをして逃げていく。
 ──運が、悪いのだ。
 あんな粗暴な男にぶつかった彼女も。
 そんな彼女を見つけてしまった、私も。

 無駄だと分かっていながら、『色』を見てしまったことも。

 恐怖で震える足が、勝手に動いた。
 助け出す術も持たないのに、無我夢中で引きずられていく彼女の手を握り締め、引き止める。
 決死の覚悟で、震える唇を動かした。
「や……やめてください。その人、嫌がってます」
「ああ?」
 不機嫌な声が、鋭い眼差しが、苛立ちを滲ませた感情が、私の体を突き刺した。ジクジクとした痛みが胸を支配するのを感じながら、それでも彼女を守るようにその細い肩を引き寄せて相手を睨みつける。
「んだ、このクソアマ……テメェには用はねぇんだよ、失せろ!!」
 大声は嫌いだ。攻撃的な態度も、言葉も嫌いだ。それは意味もなく私を傷つけるから、怖いのだ。
 それでも、もう引き下がれない。
 引き下がっては、いけない。
「おっ……お断り、します」
「は? 今なんつった? そんな弱腰で『ヒーロー気取り』か、ああ!?」
「どれだけ怒鳴られても、私は引き下がりません!」
 負けじと強く言い返せば、男はぐっと押し黙る。
 まさかその弱腰の女に噛みつかれるとは思わなかったのだろう。その凶悪な表情はさらに不愉快そうに歪み、苛立つ感情は殺意へと変わる。
 またグサリと胸を刺すような痛みが襲った。
 けれど、それでも私は彼女を離そうとはしなかった。
「確かに、力もないのに飛び出した私は『ヒーロー気取り』だって笑われても仕方ないです……でも……でも、嫌だって……助けてって叫んでる人がいるのに……それを黙って見過ごせるほど、薄情な人間になったつもりはないです。なりたくもない!」
 見るからに陽のある場所を歩けるような風貌ではない。彼を纏う『色』から判断するに、何かしら悪事に手を染めていることは事実だ。
 ──そんな男に、易々と彼女を連れて行かれるわけには、いかない。
「ここから去るべきなのは、あなたの方だ」
 私はもう一度力強く女性を抱きしめ、そう吐き捨てた。
 すると、自分の視界がみるみる赤黒く染まっていくのが分かった。それがこの男の『色』であるのは明白で、ますます事態が悪化したのだと悟る。
「……ああ、そうかよ」
 濁る視界の中で、男が自分の手を包丁に変えた。
 なるほど。どうやら彼は『自分の体の一部を包丁に変える』個性を持っていたらしい。そんな男に連れて行かれれば、自分がどうなるかなんて考えるまでもない。
 腕の中の女性が、「ひっ」と息を呑む。その声が、感情が、何度も私の胸を刺していた。
 しくじった。穏便に済めば良かったけど、これでは彼女の心に傷が残ってしまうだけだ。
 本当に情けない。守る力もないのに出しゃばって、結局怖い思いを増やしてしまった。
 悔しさで唇を噛みしめたところで、何も変わらない。
「俺はな……お前らみてーな女が一番ムカつくんだよ……! ひ弱なくせに男にたてつくわ、偉そうに人を見下して被害者面で人を悪者扱いにするわ……何様だっつーんだよ!」
 ──それで怒るのも筋違いでしょ。自分の思い通りにならないから殺そうだなんて、ただの子供じゃない。
 その言葉はなんとか呑み込んで、心の中に留めた。
「連れてってから始末しようと思ったが、もうめんどくせーわ。二人仲良く今ここで──死ね!!」
 振り上げられた刃が鈍く光る。
 向けられたそれが勢い良く振り下ろされた瞬間、私は大きな悲鳴を上げた女性を庇うように抱きしめる。
 ──刹那、世界が凍りついた気がした。
 痛みもなければ、音もない。
 静けさと冷たい空気が漂い、私達を包み込んでいる。
 そこに、しゃりと地面を踏みしめる音がした。
 そっと目を開いて包丁男を見上げる。
 彼の腕は凍りで覆われていた。
「その辺でやめとけよ」
 落ち着いた声が響いて、私達は目を見開く。
 腕からパラパラと落ちていく氷の破片を見た男が、なんとか自由を保っている首を動かしてそちらを向いた。
「この、氷は……!」
 私も男と同じ方に目を向けた。
 視界を包んでいた色が、みるみると明るくなっていく。
 陽に照らされた赤と白のツートンカラーの髪が風に靡き、左右で色の違う灰色がかった黒と美しい翡翠の双眸が鋭い眼差しでこちらを見つめていた。
 どきん、と心臓が跳ね上がり、胸が熱くなる。
「どんな理由があんのか知らねぇが……男がそう簡単に女に手を上げてんじゃねぇよ」
 ──そういうのが一番、胸糞悪い。
 その不快感に塗れた声に呼応するように、彼の左半身から炎が漏れ出す。
 彼の怒りを体現したような、けれど力強く優しい炎だ。美しく体から燃え上がるそれは脳裏にまで焼き付き、私の目に映る世界が眩いほど輝いて、景色の全てが鮮明な色で彩られていく。
 どきん、とまた心臓が跳ねて、胸の内に熱が広がる。
(これは、一体……それに、この人は……)
 聞いたことがある。『平和の象徴』が引退してからナンバーワンヒーローと呼ばれていたエンデヴァーには、複数個性を持った息子がいる、と。
 その息子の個性は──『半冷半燃』。氷と、炎。母と父の双方の力を引き継いだ、トップクラスの強い個性だ。
 ヒーロー科の中でも超最難関と言われている雄英高校に通っていた彼は、学生時代からインターン活動でその才能を遺憾なく発揮し、数々の事件を解決している。
 今ではその名を知らぬ者はいないほど──特に女性の間では有名な、大人気の現役ヒーローだ。
 腕の中の女性もまた、その一人だったらしい。
「ショート……」

 恍惚とした表情で。
 尊敬の意を込めた眼差しで。
 好意の滲んだ声で。

 助けを乞うように紡がれたそのヒーローの名を、私はただの音として聞いていた。


「全く、無茶なことをする……ショートがいなければ君、今頃死んでいたかもしれないんだよ」
 呆れた声でそう小言を漏らす警察官を前に、私は視線を下に向けたまま静かに聞いていた。
 そんなこと、言われるまでもない話だった。いい歳して考えなしに行動したことも、彼がいなければ今頃どうなっていたかも、全部分かっている。
 手錠をかけられてパトカーへと連れて行かれる男を一瞥して、私は「ご迷惑をおかけしました」と小さな声で謝った。
「まあ、これに懲りたらトラブルは我々に任せることだね。通報されすれば、必ずヒーローや警察は来るよ」
 私はその言葉に何も返さなかった。言いたいことはあったが、それは『彼ら』に喧嘩を売るも同じ言葉だ。
 何より、『個性』の反動で会話をするのも億劫だった。だから無言のまま頭を下げて、その場を去るべく踵を返す。
 もう、なんでもいい。ひどく疲れてしまった。ただ早く帰って、休みたい。
 しかし、そう考えて静かに立ち去ろうとした私の腕を、誰かが掴んで引き止めた。
「あ、あの……!」
 振り返ると、そこにいたのはあの男に絡まれていた女性だった。
 私は咄嗟に視線を逸らした。
「あの、助けてくださって、ありがとうございました!」
「助けてくれたのはヒーローですよ。私じゃないです」
「いいえ。あなたもまた、助けてくれました」
「? ……私の無謀な行動で、あなたを怖い目に遭わせたでしょう?」
 訳が分からない。私は現場をかき回したようなものだ。もっと利口な人だったら、もっと有益な個性であれば、彼女を怖がらせるような事態にはならなかっただろう。
 チラリと彼女を横目に見て、私は目を丸くした。社会人としては情けなくも素っ気ない態度をとっているのに、彼女は柔らかく笑っていた。
「確かに、最後に助けてくれたのはショートです。でも、私の心を守ってくれたのはあなたです。『助けて』という声に応えてくれて、最後まで私を守ろうと抱きしめてくれたのは、あなたなんです」
 だから、ありがとうございました。
 そう言って満面の笑顔を向ける彼女の『色』はとても温かくて、私はそれが本心であると意図せずに知ることができた。
 ──ありがとう、は私の方だなあ。
 未熟さを、無力さを痛感したばかりの私の自尊心は、今この瞬間、彼女の言葉で救われたのだ。お礼を言いたいのは私も同じだ。
「……私の『個性』……人の感情の色を見ることができるんです」
「え……」
「だから、あなたが口にした『助けて』も『ありがとう』も、ちゃんと伝わりました。あなたが声に出してくれたから、私はあなたに気づくことができたんです。むしろ、お礼を言いたいのは私の方なんですよ。……無事でいてくれて、ありがとうございました」
 少しでも助けになったのなら、守ることができたなら、それで良かった。安心した。
 そう言って頭を下げて力なく笑い返せば、ぽかんとしていた彼女は途端に化粧を施したその愛らしい顔をくしゃりと歪め、大きな瞳から大粒の涙を零した。

「あなたも無事で、良かった」

 震える唇で紡がれたその一言に、彼女の気持ちが全て詰まっている。
 不安。感謝。恐怖。安心。いくつも綯い交ぜになったその『色』を見て、私は申し訳なく思う。
 そりゃそうだ。誰だって、自分を庇ってくれた人が自分のせいで傷ついたらショックを受ける。
 やっぱり、私は考えなしだ。見過ごせないからと言って、武器も持たずに敵に立ち向かっていくんだから。
 視界いっぱいに滲んでいく『色』を見つめながら、俯いて涙を流す彼女の頭をそっと撫でる。
 慰める資格なんて怖い思いをさせた私にはないけれど、今この時だけは許して欲しいと思った。
 視界の端で白と赤の髪の間からこちらをじっと見つめている男の視線を感じながら、私は静かに瞳を閉じる。
 頬を伝うものには知らないフリをして、私もまた、震えた声で告げた。

「もう、大丈夫だよ」

 そこにあった悲しい『色』は、もうどこにも見えない。


 *** *** ***


 日曜日の午後は、決まってお気に入りのカフェテラスで読書をする。
 夏は少し暑苦しいし少し騒々しいけれど、人通りに面しているそこは陽当たりが良くて、花壇越しに見える街路の景色もちょっぴり好きなのだ。時折、本を読むのをやめて通りすがりの人を眺めるのも好きだったりする。
 今日は読書を早めに切り上げて、ただまったりと紅茶の味を堪能していた。読みかけのままだった本を全て読み終え、やることがなくなってしまったのだ。
 どうしようかな、と足をぷらぷら揺らす。
 道を行き交う人の『色』を見るのは、少し飽きてしまった。──というより、先日の一件であまり見ないようにしている。
 あれから、私の日々は平穏だ。人と関わることさえなければ、いたって平和なままだった。
 あの日は本当に、偶然だったのだ。今まで誰かの声に応えたこともなかったし、応えようとも思わなかった。
 それでも動いてしまったのは──そう。多分、辞めたばかりの職場での出来事が原因だ。
(そうだ、仕事……探さなくちゃ……)
 こうしてのんびりしてばかりもいられない。正直に言えば全然気は進まないけど、今この時間に少しだけでも次の仕事のことを考えないと。
 憂鬱な気分のまま、スマホの画面を指で撫でる。ぼーっと転職サイトを眺めていると、気分はさらに滅入ってきた。
 最近の転職サイトは、ヒーロー事務所の事務員の募集ばかりだ。ヒーローの数が増え、彼らが活躍する場面も増え、色々な面で人手が足りないのかもしれない。
 はあ、とため息を吐き、スマホをテーブルに置いて視線を空に向けた。
 その瞬間、視界一杯に赤と白のツートンカラーが入り込んで、切れ長のオッドアイと目が合った。
「……」
「……」
 静寂。
 驚いたのに、声が出なかった。
 周りにいた人達の視線も感じるが、私と同じでみんな衝撃のあまり言葉が出ないらしい。
 ──誰……いや、知ってる。めちゃめちゃ見覚えあるイケメンの顔だ。覚えてるんだけど、ただ、そうじゃない。どうしてこの人がこんな所にいるんだ。それもコスチュームじゃなく私服で。
 天を仰いだまま混乱している私。そんな私をじっと見下ろしていた彼は、しばらくしてからふっと微笑んだ。
 途端に彼の背後にある空が美しく青々とした色に変わり、私の視界がパステルカラーのように淡く輝き出す。
 ──また、だ。
 理由は分からないけれど、この人だけ他の人と『色』が違って見える。景色さえ鮮明になって、とても美しくて、目が離せなくなる。
「苗字名前、さん……だよな」
「は、ぃ……?」
 かの有名人に、ただの一般市民の私が名前を知られている、だと。
 硬直したままたどたどしい返事をする私に、彼──『ショート』はちらりとテーブルの方を一瞥しながら、言葉を続けた。

「ずっと探してたんだ、あんたのこと」

 切れ長の色違いの瞳を細めて。
 薄い唇はゆるりと口角を上げて。
 あの日に見た怒りを滲ませた険しい表情とは真逆の、穏やかで柔らかな表情。

 そんなショートの微笑を見つめたまま、私はいつかのように胸がどきりと跳ねたのを感じた。
「良かったら、少し話をしないか? ……できれば、二人きりになれる場所がいいんだが」
 プロヒーローの彼が私にどんな用があるのか、考えたところで分かるはずもない。
 でも、だからといって公衆の面前で堂々と誘いを断れる雰囲気でもなく、私はこくこくと小さく頷いた。荷物を手に取って慌ただしく立ち上がり、テーブルの上に置いてあった伝票を取ろうとする。
 しかし、それは横から伸びてきた彼の手によって遮られて、するりと抜き取られてしまった。
 え、と驚いたのも束の間。行き場を失った手は彼に掴まれて引っ張られる。
「あ、あのっ……!?」
「時間が惜しいんだ。今は大人しくついてきてくれ」
 優しいが、有無を言わさない口調だった。会計はどうするのか、伝票をレジの傍に立つお姉さんに渡した彼はそのままカフェを出てどこかへに向かって歩いて行く。
 私は、そんな彼の背中を呆然と見つめることしかできなかった。
 ──本当に、何が起こっているの。
 突然目の前に現れたイケメンプロヒーロー。そのヒーローに連れ出される一般市民の私。守る側と、守られる側。ただそれだけの関係で、今までもこれからも関わりなんてないはずの二人だ。
(でも……一つだけ分かる……)
 自分に向けられる彼の『色』は、他の人よりもずっと温かい。
 あの日、彼女が私に「ありがとう」と言ってくれた時よりも、もっと胸が熱くなるような、優しい温もり。
 同じくらいの熱が、握られた手から伝わってくる。
 なんだか離れてはいけないような気がして、無意識に大きなその手を握り返した。
 すると、前を向いていたショートが振り返る。

 灰色がかった黒と綺麗な翡翠の双眸が、真っ直ぐにこちらを見据えた。
 まるで逃がさないと言わんばかりの眼差しから、目を逸らすことはできなかった。
 やがて、色違いの双眸はまた淡く、優しく微笑む。

 その表情に胸が高鳴って顔が熱くなったのは、彼には内緒の話だ。


 ──彼がいるだけで、世界が彩る。
 その理由を私が知るのは、このすぐあとの話。


 そしてこれが将来の夫──轟焦凍と私の、愛おしい出会いの物語である。
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