恋愛イベントがやってくるまで(後編)


 何事も新しいことを始めるには、まず初期費用というものが必要である。
 と、いうわけで挨拶回りを済ませてから早速その日のうちに雑貨店をチェックし、次の日から何の作物を植えるかまとめることにした。
 春の月といえば、やっぱりキャベツだろうか。種一つでも少し値が張るし成長するまで時間がかかるけど、育てておいて損はしない物だ。かぶとじゃがいもはあまりコストもかからないし、育てやすいので最初からリストアップしている。あとは──苺だ。果物は絶対に育てると決めていたので、これだけは譲れない。
 問題は、一体あの荒れた畑を一日でどれだけ耕して種を蒔き、水を与えることができるかだ。
 これは実際に見てみなければ分からないだろうけど、ゲーム画面では大した広さではない牧場も現実で目の当たりにするとかなりの広さがある。端から端まで歩けば軽く五分から十分はかかるだろう。都会にある実家で考えると近所のスーパーやコンビニに行ける距離だ。
 そんな広さがある牧場一面に雑草が生えて石や枝が転がっているのだから、現実的に考えて一日ではそれほどたくさんの種は植えられないだろう。
 商品棚に並ぶ種の袋と睨めっこしながら悶々と考え込んでいたその時、誰かが自分の隣に立つ気配を感じた。
「あれ、新入りさん?」
 声をかけられたと気づいて、思考を中断する。
 隣を振り向くと、エプロン姿のお兄さんが立っていた。ちょっぴり髭が生えているけれど、降谷さんと負けず劣らず笑顔の素敵な爽やかな印象の人だった。
「はじめまして。俺、諸伏景光。本職は警察官だけど、休みの日はここで兄夫婦の手伝いしてるんだ」
「あ……苗字名前です、はじめまして。今日から町の奥にある牧場に引っ越してきました。警察官……ってことは、降谷さんと同じなんですね」
「ああ、ゼロにもう会ったのか……ってことは、君があの! よろしくな!」
 お兄さんは納得したように頷いてからニカッと笑った。
 ──『あの』とは、どのことなんだろう。なんとか笑みを返しながら、疑問をそっと喉の奥に押し込んで、私は彼の頭上に目を向けた。予想した通り、小さくて黒っぽいハートがそこにあった。
「何か探してる物あった? 良かったら、今回は特別に俺がおまけするよ」
「ええっ!? そんな、申し訳ないです! 諸伏さんのお兄さん達にもご迷惑が……」
「いーって、いーって! うちの兄貴優しいし、今後も贔屓にしてくれればそれでチャラだからさ。あ、俺のことは景光でいいよ」
 諸伏さんこと景光さんはそう言って私が見ていた種の袋を何種類か手に取り、じゃんじゃんと買い物袋に詰め込んでいく。
 ちょっ、ちょっと! ぽんぽん放り込んでるけど、それキャベツの種だよ! この中で一番高いやつ〜っ!!
「はい、どうぞ」
「さ、流石に受け取れません……」
「あれ、もしかして必要なかった?」
「いえ、めちゃめちゃ必需品なんですが……」
「じゃあ気にしないでいいよ。困った時はお互い様だしね。……って、いててっ」
「そうですね、困った時は助け合いが必要です。ただし、お兄ちゃんはお前のその軽率な行動にいつも頭を抱えていますよ」
 受け取るか、受け取らないか。そんな押し問答になっている間に、店長である景光さんのお兄さんがやって来たらしい。
 背後から景光さんに忍び寄ってぎゅーっと彼の耳を引っ張ったお兄さんは、弟の面影を感じる顔に呆れを滲ませていた。景光さんと違って口髭があるけれど、兄弟揃って美男さんだ。
 ぽかんと二人の顔を交互に見つめて呆けていると、景光さんの耳から手を離したお兄さんは彼が持っていた袋を手に取り、私に目を向けた。
「弟が突然失礼しました。こちらの商品は気にせずお持ち帰りください」
「え、で、でも……」
「景光の言う通り、今後もうちを贔屓にしていただければ、それで充分ですよ。女性一人で牧場の経営をするのは大変だと思いますが、頑張ってくださいね」
 景光さんのお兄さんはそう言って小さく微笑みながら私に種の入った袋を手渡し、お辞儀をして踵を返して行く。
「あーびっくりした……怒るなら後にしてくれよな……」
「お、お兄さん……優しい人ですね……」
「だろ? でも怒るとすっごく怖いんだよ〜。まあ、滅多に怒るようなことしないけど」
「ふふ……でも、景光さんも同じぐらい優しいです。種、ありがとうございました」
「ああ。大事に育ててやってくれな」
 はい、と大きく頷くと、景光さんは嬉しそうに笑ってそれじゃあ、とお仕事に戻っていく。
 その時、彼の頭上にあるハートが紫色に変わっていくのが見え、私は思わず頂いた商品を落としてしまいそうになったのだが、運良くそれは誰にも見られることはなかった。
(いや、だから……この世界のハートシステム絶対おかしいでしょ……)
 ただお話をしていただけなのに、どうしてこんなにも簡単に愛情度が上がっていくのか。いや、あれが愛情度なのか友好度なのかはイマイチはっきりしないけれど。
 とりあえず目的の物は手に入ったので、次に必要な物を買いに行こう、と店をあとにする。
 しかし、お店を出てからすぐにぐぅ、とお腹が大きな音を立てた。そう言えば、この町に来てからまだ何も食べていない気がする。荷解きして、備蓄の確認をしたあとにすぐ買い出しに出たんだっけ。
 次に向かうのは食材屋さんの予定だ。でも、それよりまずは食事にしよう。
 そう考えた私は早速地図を確認して、雑貨店のある二番通りから少し離れた西側の四番通りを目指した。
 そこには町で唯一の飲食店があるのだ。こぢんまりとした赤い屋根に黒い看板を掲げたお洒落な喫茶店で、子供の頃に何度かおじいちゃんに連れて行ってもらった思い出がある。
「あ、これだ……」
 大まかな位置だけを確認して記憶を頼りに歩いていたけれど、意外にもその店は昔と変わらない外観で町の中に佇んでいた。
 黒い看板には白い文字で『喫茶ポアロ』と書かれていて、これまた「懐かしいなあ」なんて何度目になるか分からない感想を心の中で呟きながら店の扉に手を伸ばす。
 すると、私がドアノブを掴むより先にカランコロンと音を立てて店の扉が開いた。
「あら」
「あっ」
 中から現れたのはカチューシャをつけた女の子と、ロングヘアーの女の子だった。
「えっ、あれっ……!? もしかして、新しくこの町に来た人? ですか?」
「え、ええ……そうです……」
 おわーっ! お腹空いてるのにまた初めましてのイベント起こったーっ!
 歩きながらぐぅぐぅと音を立てていたお腹が最高潮を迎えているというのに、このタイミングで住民との挨拶イベントが発生してしまった私。内心「早く店に入れてくれ」と叫んでいるのだが、そんな心の声なんて目の前の少女達には届くはずもなく、二人は屈託のない笑顔を浮かべて「やっぱり!」と嬉しそうな声を上げた。
「私、鈴木園子! 次郎吉伯父様……あ、この町の町長の姪で、こっちは幼馴染みの蘭!」
「毛利蘭です。よろしくお願いします」
「ああ、次郎吉さんの……この度は色々とお世話になります、苗字名前といいます。鈴木さん、毛利さん、よろしくお願いします」
「あ、良ければ気軽に名前で呼んでください。ずっと持ち主が不在だった牧場に新しく住民が来るって聞いて、私も園子もずっと楽しみにしてたんです」
「あ、もしかして名前さん、今からご飯食べる? 良かったら一緒しても良い? 私、名前さんが住んでた都会の話が聞きたい!」
 おおう、都会の学生に負けず劣らずのハイテンションだ。グイグイと距離を縮めてくる二人に、私は苦笑を浮かべた。
 正直に言えば一人でのんびり食べたいところだけれど、この子達も別に悪い子ではなさそうだし、食事の間に少し話をするぐらい良いかもしれない。何より、仲良くしてもらえるのは有り難いことだ。そう思って頷き返すと、二人はとても嬉しそうに頬を綻ばせて私を店の中へと引きずり込もうと腕を掴んだ──その時だった。
「え? 何なに、女子会? 俺も話に混ぜてよ〜」
「あ、萩原さん」
 私の後ろから男性の声が聞こえて、蘭さんが振り向いてその人の名前を呼んだ。思わず「また男かよ!」と言いたいのをぐっと堪えて、私は背後を振り返る。
 少し癖っ毛のある長い黒髪の、これまたイケメンのお兄さんだった。ただ、今度は降谷さんや景光さんと違って、うぅん、なんというか、一癖ありそうな人だった。
「えー、萩原さんも混ざったら女子会にならないじゃないですかぁ」
「ちょっ、園子ちゃん辛辣じゃない? お兄さん泣いちゃうよ?」
「勝手に泣いてくださぁい」
「ひどい! ねっ、君は俺が一緒でもいいよね?」
 いきなり知らない人に同意を求められても困る。
 だがしかし、それを口に出せないのが私である。
 あはは、と苦笑いをしながらとりあえず頷いてみると、お兄さんはパッと表情を明るくして嬉しそうに笑った。
「おっ、やっさし〜! 俺、萩原研二っていうんだ。んで、このポアロの店長。よろしくね」
 なんですと! 昔はおじいちゃんと同じ年代の店長さんがいたのに、いつの間にか代替わりしていたらしい。
 萩原さんはナンパ男みたいなお調子者の雰囲気があってちょっと苦手な人だ。でも今は蘭さんや園子さんもいるし、「しょうがないなあ」なんて言いながら二人の反応もそこまで嫌がっているようには見えないので、彼もまた悪い人ではないのだろう。
 ただ、一つだけ確認したいことがあった。
 自分の名前を名乗ってよろしくお願いします、と頭を下げた私は、顔を上げた時に一瞬だけ萩原さんの頭上をチラリと見た。
 ──ブルータス、お前もか……。
 もう今日一日で何度も見ているけれど、灰色がかった黒っぽいハートがそこに浮かんでいた。

 *** *** ***

 結果として、私は思ったよりも長い時間ポアロに居座って喋っていた。
 園子ちゃんと蘭ちゃん(さん付けしたら嫌がられた)は半年に一度くらいしか都会の方へ足を運ぶことがないそうで、大都会での暮らしというものにとても憧れを抱いていたらしい。まだ学生ということもあり将来は都会に出て仕事をすることも視野に入れているそうで、店の中にいた榎本梓さんという美人な女性のウェイターさんも会話に交えながら、あれやこれやと色々と質問された。
 時々近くの大きな町まで仕入れに出かけるという萩原さんも大都会の話題にはすごく興味津々のようで、四方八方から質問されてなんだか学生時代に戻って転校生にでもなったような気分だった。
 良かったらまた話を聞かせてね、と言ってくれた皆さんと手を振って別れたあと、私は市場を目指して歩きながら大きく息を吐き出した。
 長い時間知らない人と喋るのは嫌いではないけれど、その分気疲れする。一ヶ月分ぐらいのお喋りをしたような気分で、私は当初の予定通り食材屋さんに向かった。
(それにしても、萩原さんのハートはあまり色が変わらなかったな……)
 食材を買いながら、会話に混ざっていた萩原さんの様子を思い返す。
 彼は終始笑顔でお話していてくれたし、楽しそうではあったと思う。だけど降谷さんや景光さんの時とは違い、会話をしただけで少しも色が変わるようなことはなかった。
 あれが正常だと思うのだけれど、どうなんだろう。降谷さんと景光さんの頭上にあるものが本当にバグなら、早急に女神様にでもお供え物を渡して改善を要求したい気分だ。今度時間を作って町を散策しながら泉を探してみよう。うんうん、そうしよう。
「あれ、名前さん」
 噂をすればなんとやら。買い物を済ませてさっさと市場を出ようとした私の背後から、数時間前に出会ったばかりの聞き覚えのある声がした。頬を引きつらせ、なんとか笑顔を貼り付けながらゆっくりと後ろを振り返る。
 予想していた通り、声をかけてきたのは降谷さんだった。しかも、彼の頭上にあるハートが何故か水色に変わっている。
 だから! なんでこの人は勝手に好感度が上がってるの!? 一体私が何をした!?
「お買い物ですか?」
「は、はい、まあ」
「また随分と買い込みましたね……良ければ、家までお持ちしますよ」
「いえいえ、そんな! さっきもご迷惑をおかけしてしまいましたし、大した荷物でもないので!」
「遠慮しなくても大丈夫ですよ。僕もこれから家に帰りますし、方向が同じなので気にしないでください」
 言って、降谷さんは私の手から食材がパンパンに詰め込まれた袋をさり気なく奪い取り、行こうか、と愛想の良い笑顔を浮かべて歩き出した。
 荷物を人質に取られてしまったら為す術もなく、私は泣く泣く彼のあとに続くしかない。
 ハートの色がこれ以上変わりませんように、と祈りながらチラチラと降谷さんの背中を見つめて歩いていると、前を向いていた彼はくるりと振り返った。
「食材以外にもたくさん買い込みましたね。一人じゃ大変だったでしょう?」
「ああ、これ……実は買ったんじゃなくて、作物の種は雑貨店の景光さんから頂きまして……」
「景光さんって……ヒロが?」
 少し意外だったのか、器用なことにひょいと片方の眉を上げて驚いた声を上げた降谷さん。
 そう言えば、景光さんは降谷さんと同じ警察官だと言っていた。降谷さんのことをゼロと呼んでいたし、降谷さんも景光さんのことをあだ名で呼んでいるのなら二人は仲が良いのかもしれない。
「そうか……アイツと会ったんですね」
「ええ。景光さんも降谷さんのことをゼロって呼んでましたが、仲が良いんですか?」
「まあ、幼馴染みなので」
 なるほど、と私は相槌を打った。
 彼らが互いを『ゼロ』、『ヒロ』と呼ぶのは幼少期からの名残なんだろう。大人になってもあだ名で呼び合えるぐらい仲が良いんだから、きっと親友なんだろうな。
 一人で納得していると、ふと降谷さんの目が物言いたげに私を見つめた。
 あれ、私、今何かしたんだろうか。景光さんとの関係を尋ねただけのはずだけど。
 不思議に思って首を捻ると、彼は苦笑してから再び前へと向き直った。
「他には? 誰かと会いました?」
「えっと……景光さんのお兄さん、園子ちゃん、蘭ちゃん……あっ。あと、萩原さんですね」
「ハギにも!? 何かされました? 変なこと言われたりしなかったですか? まさかとは思いますけど、惚れたりしてないですよね?」
 素っ頓狂な声を上げて、降谷さんは私の顔を覗き込んで矢継ぎ早に問い詰めてくる。
 なんだなんだ、どうしてそんなに気にかけるんだ。やっぱり萩原さん、ちょっと要注意人物なのかもしれない。でも降谷さん、今ハギって呼んだ気がするんだけど……だとしたら、彼とも仲が良いのかな。
「あの、何もされてませんよ。住んでいた町の話をしただけで」
 そう答えると、降谷さんは安心したように息を吐いてから真面目な表情になる。
「あいつは悪い奴じゃないですが、少しチャラいところがありますので……気になる言動は無視しておいた方が良いですよ」
「あはは……はい、了解しました。萩原さんの言葉はとりあえず、気にしないでおきます」
「そうしてください。あなたが悲しむところなんて、僕は見たくないですから」
 どこか切なさを含んだような柔らかい笑みに、「あなたも十分なぐらい女泣かせな言動をしていると思います」と言葉を返したくなる衝動をぐっと堪え、私は曖昧に笑い返した。
 それからはお互い他愛もない話が続いた。どこのお店のご飯が美味しいだとか、隣町で時々行われるバザールのこととか、季節の旬の食べ物は美味しいだとか、役に立つ情報から豆知識まで教えてくれた降谷さん。話し上手な上に終始楽し気に話してくれるので、ほぼ初対面だというのに全然お喋りが苦に感じなかった。
「降谷さんの好きな食べ物ってなんですか?」
「セロリです」
「セロリ!?」
 何気なく訊いてみたのだけれど、意外な答えに私は目を丸くした。他にもいろいろ野菜がある中で、どうしてそんな癖の強いものを好むようになったのか気になるところだ。
「変ですか?」
「いえ、驚きましたけど、変だとは思いません。良いですよね、セロリ。私、スープに入れたり茹でて食べるのが好きです」
「炒めたりしても美味しいんですよ。あと、漬物」
「なるほど、これは通な人の発言」
 呟いて、それならばと私は自分が持つ買い物袋から一本のセロリを取り出した。
「そんなセロリ好きの降谷さんには、特別にこれを差し上げます」
「え」
「今日のお礼です。道案内だけじゃなくて、荷物持ちまでしてくださってありがとうございました」
 話し込んでいるうちに、いつの間にか私達は牧場の入り口まで来ていた。そこで私は、結局彼がここまで何も言わずに荷物を運んでくれたことに気づいたのだ。
 せめて何かお礼を、と思って選んだのがコレだったわけだが、やっぱりまずかっただろうか。
 目を瞬き、きょとんとする降谷さん。けれど私とセロリを交互に見たあと、彼はへにゃりと眉尻を下げてそれはもう嬉しそうに笑った。
「とても嬉しいです。ありがとうございます」
 刹那、降谷さんの頭の上にあるハートがポンポンポンと色を変えて真っ赤になった。つまり、今日一日で私に対する好感度がマックスになったのだ。
 思わず私の口がぱかりと開いたのは言うまでもない。
 いや、分かる。好きな物を貰えるってすごく嬉しいよね、うん。私も同じだから分かる。
 でも、だからってこれはない。人生イージーモードにも程がある。推しと結婚するために試行錯誤しながらプレゼントをあげ続けた前世のぼくものファン達がみんな泣いてしまうぞ。
 そもそも結婚候補者とはゆっくり距離を縮めることが醍醐味なのであって、こんな簡単に好感度を爆上げする仕様はファンも望んでいないと思う。
 そして私もこんな展開は望んでいない。だからと言って、頬を赤らめながら嬉しそうに微笑んでいる彼に邪険な態度で接することもできないけど。
(まあ、そのうち落ち着くかもしれないよね……)
 とにかく今は愛想笑いでやり過ごすことにした私。
 しかしこれ以降、降谷さんの好感度が下がることはなく──積極的に距離を縮めてくる彼に翻弄される私の話は、また改めて別の機会にお話しをしたいと思う。
Storyへ


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -