恋愛イベントがやってくるまで(前編)


 それはよく晴れた冬の朝、何の前触れもなく突然やってきた。
「──だよ、──ちゃん……なあ、おき──れよ」
 何やら長い長い夢を見ていた私は、ゆさゆさと誰かに揺り起こされるのを感じてパチリと目を開く。
 どうやらたっぷりと睡眠時間を確保できたらしく、眠気も気怠さも感じなければ思考もやけにクリアだった。
 そのスッキリとした頭でまず最初に考えたのは「どうしてこうなった?」だ。
 目を覚まして虚空を見つめたまま何度も瞬きを繰り返す私を見下ろしている弟の慎は、やや面倒くさそうな、そして呆れを滲ませた表情で私の目の前で手を振った。
「おーい。起きたのか? 頼むからそろそろリビングに来てくれよ。じいちゃんからの遺言書が届いて面倒なことに……──って、姉ちゃん? 聞いてる?」
 ──ごめん、可愛い弟よ。お姉ちゃんは今それどころじゃないんだわ。
 なんて、そんなことも言えないぐらいパニックを起こしている私は、弟の言葉を右から左へと聞き流しながらムクリと体を起こす。
 ぼんやりと布団を掴んでいる自分の手を見下ろすと、まるでこの体が自分のものでないような、すごく奇妙な違和感があった。
 なんだ、この綺麗な女の手は?
 私の手ってこんなに細かったっけ?
 爪は卵形じゃなくて深爪しやすい四角い形をしていたし、もう少しこう、子供みたいな厚みのある手だったような……?
 さらりと横から流れ落ちてきた髪だって、驚くほど長い。多分、母さんと同じぐらいの長さになったんじゃないだろうか。『前の私』ならこんな長い髪は手入れが面倒だと言ってすぐ切ってしまっていたのに、特にこれといって何も手をつけていない髪は艶があってさらさらと指通りが良かった。女性としてこれ以上なく恵まれている体質だと思う。
(……ん? 『前の私』……?)
 そんなことを考えて、ふと混乱している頭に昨日までなかった記憶が次々と浮かび上がっては記憶の奥底に沈んでいく。
 ──おかしい、なんだこれは。
 私は生まれてから一度も引っ越した記憶なんてないのに、知らない町で知らない友人達と談笑している記憶がある。これは間違いなく私ではない『私』の記憶だ。
「つまり……私……転生した……?」
「は? なんだって?」
 目を覚ましてようやく口を開いた第一声が『私は転生してた』なんて、確かに傍から見れば頭のイカれた厨二病のような発言だっただろう。こんなの、誰が聞いても「テレビや小説の影響を受け過ぎだ」と馬鹿にして笑うに決まってる。
 だって、ほら。現に状況を理解していない可愛い弟は頓珍漢なことを言った私に対して完全に白けた目を向けている。あからさまに馬鹿にしている顔だし、なんならその目は今にも「病院に行くか?」と言いそうだ。
「頼むよ、姉ちゃん……ただでさえ朝からじいちゃんの遺言書のことで母さん達が面倒くさいんだから、これ以上ワケの分からないことを言わないで」
「あ、ハイ、スミマセン」
「謝るのはいいから、さっさと着替えてリビングに来て。話が進まないよ」
 弟の慎は父親に似てクールな性格をしている。いつも落ち着いていて非常事態にも冷静に話を進めていくのが常なのだが、そんな彼も今日は朝から少々苛立っているようだった。
 慎がこんなに疲弊するほど、一体お父さんとお母さんはおじいちゃんの遺言書を見ながら何を話し合っているのか。
 気になるけれど、それはリビングに行けば分かる話だ。
 可愛い弟に辛辣に謝罪をあしらわれた私は、こくんと頷きながらパジャマのボタンを外しつつ、布団から這い出て急いで着替えようとした。
 すると、それを見た慎が顔を真っ赤にして遂に怒りの声を上げた。
「ちょっと姉ちゃん! 僕の前で服を脱がないで、っていつも言ってるでしょ!」
「だって、さっさとしろって言うから……っていうか、そんな恥ずかしがることないでしょ。弟なんだから」
「そういう問題じゃないの! ちょっとは羞恥心を持ってよ、姉ちゃんの馬鹿! アホ! セクハラ!」
 恥ずかしさから顔を真っ赤にして地団駄を踏んで抗議してくる姿は可愛いと思うけれど、そこまで照れる必要ないと思う。
 というか、え? セクハラ? これセクハラになるの? 弟にセクハラって言われる姉ってどうなの?
 ええ、と困惑した私は着替えを中断し、ぷりぷり怒って部屋を出て行く慎を見送る。その背を見ながら、そういえば前の私にも弟がいたよなぁ、と懐かしむように前世を思い出した。
 確か、その時も前世の弟は私の裸を見るなり顔を背けて浴室の脱衣所から逃げ出した気がする。あとで「いるならいるって言ってよ!」「弟の前で素っ裸になるとか恥ずかしくないの!?」なんてよく理不尽に怒られたものだ。
 バタンッと勢いよく閉められた扉を見つめながら、私はポツリと呟いた。
「……年頃の男の子って……よく分からないな……」
 ちなみに、前世でも今世でもこの手の話題をすると「あんたが悪い」、「弟君が可哀想」とみんなから総じて悪者扱いされるのだが、全くもって納得できない話だ。


 何はともあれ、慎の言う通りさっさと着替えてリビングに向かった。
 部屋を出た瞬間からリビングで何かを話している声は聞こえたけれど、そこまで緊迫している様子はない。けれど真面目な話をしている雰囲気は感じ取ることができて、少しドキドキしながらそこに足を踏み入れる。
 食卓ではいつものように新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるお父さんがいた。そのお父さんの傍らには頬に手を添えて正に困っています、と言わんばかりの表情をしているお母さんがいる。
 なるほど、この様子だと慎の言う『面倒くさい』のは多分心配性なお母さんの方だろう。
 状況を何となく把握した私は、すでに二人のことは知らんぷりでこんがりと焼けた食パンにハムとチーズを乗せてサクサクと音を立てながら食べている慎に目を向けた。
 朝からなんて贅沢な食べ方をしているんだ、この子は。しかも朝から食パン二枚だと? それだけでは飽き足らず、目玉焼きにサラダにフルーツとヨーグルトまで食べているとは、育ち盛りとは本当に末恐ろしいな。見ているだけでお腹がいっぱいになる。
 唖然とその光景を見つめているとふと、足下にトコトコと我が家の愛犬──黒い柴犬のココが近づいてきた。
 ダンボールに入れて公園に捨てられていたところを、偶然私が見つけて拾った愛らしい仔犬だ。まだまだ遊びたい盛りのココは甘えるように私を見上げてぶんぶんと尻尾を振っている。
 私はココの小さな頭と体を撫で回してから、お父さんとお母さんに声をかけた。
「おはよう」
「あ……ああ、名前ちゃん……おはよう」
「おはよう、名前。よく眠れたか?」
 お母さんはなんだか歯切れ悪く、お父さんはいつも通り物静かな雰囲気で私に尋ねてきた。
「うん……あの、慎がわざわざ起こしに来てくれたんだけど、何かあったの?」
 我関せずで朝食を食べている慎があまりにうんざりとした表情をしていたのを思い出しながら、質問を返して手早く話を切り出してみる。
 すると、お父さんとお母さんはお互いの顔を見合わせてから食卓テーブルの上に置いていた一通の手紙を私に差し出した。
「随分前に亡くなったおじいちゃんが、お前宛てに残した遺言書だ」
「おじいちゃんから?」
 私は首を傾げてその手紙を受け取った。
 開けてみなさい、と促されるまま中身を開く。まず開いた紙には、おじいちゃんの友人だという町の町長さんからの手紙が入っていた。
 なんでも、亡くなる直前におじいちゃんから『牧場を孫の名前に授ける』という遺言書を預かっていたそうで、その牧場を引き継ぐかどうか返事が欲しいとのことだった。同封されていたのはおじいちゃん本人が直筆で書いたであろう遺言書で、確かにおじいちゃんの言葉で『もし良ければ、名前に牧場を継いでもらいたい』という旨が書き記されていた。
 ──牧場。
 その言葉が目に留まった時、私の脳裏にはこの世界で過ごした幼少期の記憶が蘇ってきた。
 昔から外資系企業に勤めているお父さんは多忙な人で、長期休暇というものがない人だった。それでも年に一度、夏休みになると有給を使って家族旅行を計画してどこかへ連れて行ってくれていた。私はその旅行が大好きで、毎年楽しみにしていたのだ。
 なのに、その楽しみにしていた旅行がたった一度だけ、「仕事が忙しくて行けない」と言われた年があった。
 今になって思い返してみれば、あれは慎がまだお母さんのお腹の中にいた時の話だった。きっとお父さんは、お母さんやお腹の中にいる慎のことを気遣って旅行を諦めたのだろう。そんなことも知らない私はぎゃんぎゃんと泣き喚き、「旅行に行きたい」と駄々をこねて困らせたのを覚えている。
 そして私の我が儘に困り果てた二人はおじいちゃんに事情を説明し、いつもなら年末年始にしか行かないおじいちゃんの家に一人で遊びに行っても良いと言ってくれたのだ。
 子供だったとはいえなかなか酷い我が儘っぷりだったと思うけれど、あの夏の日のことは今でも鮮明に覚えている。
 列車に揺られ、馬車に揺られ、都会から随分と離れた場所にある広い町に一人で足を踏み入れた時は堪らなく楽しかったものだ。
 何より楽しかったのは、その町で牧場を営んでいるおじいちゃんの家で過ごした日々だった。
 私の他に孫がいなかったおじいちゃんは、忙しくしながらも家に遊びに来た私を喜んで迎え入れてくれて、仕事の合間に牧場のいろはについてもたくさん教えてくれた。
 特に私は畑仕事や動物達の世話が大好きで、自ら進んでおじいちゃんの手伝いをしていた。それを見たおじいちゃんは大変嬉しそうに笑って、張り切って牧場に関する色々なことを教えてくれたのだ。
 そこまで思い返して、私はふと「ん?」と首を捻る。
 なんだかこういった話題に見覚えがあるというか、既視感がある。
 確か、前世でよく遊んでいた大好きな育成ゲームのストーリーもこんな感じだったような──。
(えっ……もしかしなくてもここ、『牧場物語』の世界なんじゃ……!?)
 それも自分が主人公の枠だ。
 今は一般企業に勤めて働いているけれど、おじいちゃんの家で過ごした影響で大学は農学部を出ているし、学校で教わることが出来なかった知識についてはおじいちゃんからしっかりと学んだので覚えている。
 なんてことだ。物語のスタート時点で充分に牧場主としての素質は持っていた。知らない間に自分でしっかりとフラグも育てていたようだ。
(リアルでほのぼの牧場生活……? 何それ、絶対人生楽しいじゃん……!)
 勿論、牧場仕事が楽だなんて一つも思っていない。
 しかし、特に好きでもない仕事を続けるよりは断然こっちの方が楽しいに決まってるし、私は自分が好きだと思う仕事をしたい。
 何より、おじいちゃんの家で過ごした時から私はおじいちゃんのような牧場主になりたいと密かに夢を抱いていたのだ。
 ──これは、間違いなく一世一代──いや、千載一遇のチャンスだ。
「決めた! 私、牧場を引き継ぐ!」
「ほら、言わんこっちゃない! 駄目よ! 絶対に!! 駄目っ!!」
 すぐさま猛反対の声を上げたのはやっぱりと言うかなんというべきか、お母さんだった。
 お父さんと慎は少々呆れた表情を浮かべてお母さんを見ている。
 私の足下にいたココが悲しげにくぅんと鳴いた。
「母さん、いい加減子離れしなさい」
「そうだよ、母さん。姉ちゃんは昔からおじいちゃんの牧場を引き継ぐとか言ってたし、止めても無駄だよ」
「子離れってどういう意味かしら? 親が子を心配して何が悪いの? 牧場仕事は肉体労働なんだから、都会でのんびり過ごしてきたこの子にできるはずがないでしょう。駄目よ、絶対に駄目。お母さんは認めないから!」
「大丈夫。学校でもある程度は勉強してるし、おじいちゃんにもたくさん教えてもらったし、なんとかなるよ」
「何年も前の話でしょ! 犬や猫を育てるのとはワケが違うの、諦めなさい!」
「ほらね、さっきからずっとこの調子なんだよ……」
「俺は名前の好きにすれば良いと言っているんだがな」
 我が家の男性陣は朝からぷんぷん怒るお母さんに肩を竦めていた。
 でも、まあ、お母さんが言わんとすることも分かる。都会暮らしの女がいきなり牧場の運営を始められるか、と聞かれたら誰だって一度は渋い顔をするに決まっている。私だって自分の娘がそんなことを言い出したら不安になって仕方ない。それが現実だ。
 だが、それは『全く牧場に関する知識を持っていない』人であれば、という話だ。私には昔からおじいちゃんという味方がいるし、そのおじいちゃんの友人だという町長さんからは『できる限りサポートするので是非町に来て牧場を引き継いで欲しい』とまで書かれている。
 お母さんが何より心配しているのは、慣れない遠くの土地で一人暮らしをしなくてはならないということかもしれない。お母さんは一度も一人暮らしをしたことがないと聞いているし、以前にも私が一人暮らしを始めたいと話したら「家からでも充分職場まで近いし、何も問題ないじゃない」と反対されたことがある。
 つまりは、そういうことだ。お母さんは一人娘が遠くに行ってしまうことが不安で仕方ないのだろう。
(だがしかし! そんなことは関係ない!)
 私はもう大人なのだ。いつまでも親に甘えてばかりの生活をしていることの方が不安があるし、これを機に自立したい。そして夢を叶えたい。
 私は「じゃあ、もういい」と癇癪を起こしたフリをして手紙を持ったまま一度部屋に戻り、急いでペンとレターセットを取り出した。
 お母さんには申し訳ないけれど、もちろん手紙の返事は『イエス』だ。断る理由なんてどこにもない。やってみれば案外なんとかなることだってあるものだ。
 少し字が汚くなってしまったけれど、なるべく丁寧に返事を書き上げて私は再びリビングに降りる。
 そして返事を書いた手紙を食卓に座る家族に見せた私は、正々堂々と宣言した。
「私、勝手に牧場引き継ぐから!」
 一瞬の沈黙のあと、食卓に肘をつきながら深い溜め息を吐いたお母さんが額に手を当てた。あからさまに疲れた表情で首を横に振っているので、もうこの件に関して何も言う気がなくなったのだろう。
 ──勝った。
 ふふんと鼻を鳴らした私を横目で見たお父さんと慎がようやく小さな笑みを浮かべる。
「ほら、僕が言った通りだ。母さんの負けだね」
「決まりだな。だが、まずはご飯を食べながら先に大事な話をしよう。ほら名前、早く座って食べなさい」
 どうやら最初から私の考えは二人にはお見通しだったらしい。
 少し意気込んだのが恥ずかしいぐらいだったが、大人しく頷いてお父さんに言われて椅子に座る。
 そしてテーブルの上に置いてある食パンに手を伸ばしながら、私はお父さんの話に耳を傾けた。


「何も父さんも、手放しで賛成しているワケじゃないぞ」
 おじいちゃんの牧場はそこそこに広い。
 もともと持っている敷地も広く、開拓をすればさらに管理が大変になる。しばらく放置していた作物を植えるための畑は荒れていて一から畑を耕す必要があるし、家畜を育てるための小屋も少し古びて傷んでいるところがある。家だって台風になんとか耐えられる程度で、雨漏りすることだってあるだろう。
 そんな環境で全てを一から始めるのは生半可な覚悟でできることじゃないし、並大抵の努力では女一人で牧場を経営しても成功しないだろう。
 冷静にそう言ったお父さんは今ならまだ考え直せるぞ、と念を押して私の意思を確認してくれた。
 もちろん、それでも私は首を横に振ることはしなかった。
 牧場の仕事がどれぐらい大変か、おじいちゃんが住んでいた家がどんなものだったのか、小さい頃に何度も遊びに行ったことのある私は身をもってそれを理解している。
 だとしても、私はやりたいのだ。
 おじいちゃんのように畑を耕して作物を育て、動物の世話をして、忙しいながらもまったりほのぼのとした充実した牧場生活をしてみたい。
 ゲームをしながらこんな生活をしてみたいと密かに思っていた夢が叶うのだ。そのチャンスを逃すわけにはいかなかった。
「父さんだって、母さんの気持ちが分からないわけじゃない。子供の頃からおじいちゃんが仕事をしている姿を見てきたわけだし、多少は不安に思っている。だから、条件をつけよう」
「条件?」
「ああ。一年だけ様子をみよう。一年経っても牧場の経営が上手くいきそうにないと父さんが判断したら、そこで牧場経営は諦めるんだ」
 なるほど、この条件もゲームと同じなんだな。
 納得して、私は大きく頷いた。
「……わかった。絶対に成功してみせるから、心配しないで」
「……だ、そうだぞ?」
 頑なに諦めようとしない私に、お父さんはどこか愉快そうに笑みを浮かべながらお母さんの方へ顔を向けた。
 ぶすりと剥れているお母さんは素っ気なく「好きになさい」と言い、黙々と朝食を食べ終えていた。もうなげやりになっているようだ。
 そんなお母さんの反応に、ついにお父さんが肩を震わせながらクスクスと笑い声を零した。
「姉ちゃん、あとで泣くことになっても僕は助けないからね」
「大丈夫よ。いつかあんたの大好きなトマトを美味し〜く作って家に送ってあげるから、楽しみにしててよね」
「いや、それ僕が一番嫌いなやつだし! ただの嫌がらせじゃん! いらないよ!」
「可愛い可愛い弟の苦手なモノを克服するお手伝いをしてあげるんだから、感謝しなさい」
「大丈夫。その可愛い弟はそんなこと少しも望んでないから!」
 そう言って憎まれ口を叩いた慎はお母さんに負けず劣らず不機嫌そうな表情でフルーツにヨーグルトをかけた。
 それを見ながら果物も作ろう、とひっそり考えたのは、可愛い弟にはやっぱり内緒の話だ。
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