恋愛イベントはお呼びじゃない


 とある冬の日の、天気の良い朝だった。
 コッコッコッという鶏の声や牛や羊の鳴き声が遠くから聞こえてくるのを耳に入れながら、私は収穫間近の作物に水をあげていた。どの作物も数日前に種を蒔いたばかりだけれど、毎日晴れ続きのおかげですぐに土から芽を出し、冬の肌を刺すような厳しい寒さにも負けず、一つも枯れることなくすくすくと順調に育っている。定期的に取り替えている肥料のおかげもあって、小さく実り始めた果実は艶が良く、とても大きくて美味しそうだった。この調子なら、明日には収穫できるかもしれない。
 収穫した食材で温かい料理を作る楽しみは、この牧場生活の醍醐味でもある。明日を待ち遠しく思いながら水やりを済ませた私は、作物から視線を動かして馬小屋の方に目を向ける。
 畑の近くにある馬小屋の周辺で、外套を身に着けた愛馬が楽しそうに飛び跳ねて遊んでいるのが見えた。先週は雪が降ったり吹雪だったりと天気が荒れていたので、ここ最近は毎日温かい日差しを受けて自由に外を動き回れることが嬉しいんだろう。興奮しているようにも見えるので今は下手に近づくことができないが、寒さを感じることなく本人が楽しんでいるなら何よりだ。
(よし……水やりは終えたし、次は動物達の小屋でも掃除しようか)
 毎日小屋の掃除を行っていても、一晩で汚れは出てくるものだ。何日も放っておくと動物の体に汚れが付着し、それが原因で動物達が病気になることもある。そんなことになると動物達から取れる畜産物にも影響が出てしまうので、掃除は欠かさず行わなければならない。
 日課の動物達の毛並みの手入れもしなければ。それから餌を置いて──そう言えば、そろそろ動物達の餌の備蓄も底をついてしまいそうだった気がする。
 あとで買い物に行かなくちゃ、と午後からのスケジュールを考えながら、ジョウロを置いて物置小屋に立てかけてあるピッチフォークを手に取る。悴んだ手では少し握り難いけれど、落とさないようにしっかりと手に力を込めた。
 その時、畑の周りを見回っていた愛犬が吠えた。うちの子は動物達の放牧する手助けをしてくれる賢い牧羊犬だ。他の動物達を吃驚させないように、余程のことがないと滅多に吠えたりしない。
 ただし、来客の時だけは別だ。主人の領域に足を踏み入れる者がいれば、この子は必ず私に知らせてくれる。
 ──それも、この子が嬉しそうに尻尾を振っているということは。
 警戒心を感じない鳴き声とソワソワとし始めた愛犬に「まさか」と思って顔を上げる。
 予想通り、牧場の入り口から一匹の白い犬を連れて一人の青年が歩いて来るのが見えた。青い制服の上に羽織った防寒用の黒いコートの裾を靡かせてツカツカと迷いなく歩く彼は、私がこの牧場生活を始めてから毎日のように会っている人物だ。
「おはようございます、名前さん」
「お……おはようございます、降谷さん」
 ビシッと姿勢正しく敬礼をしてから挨拶を交わした彼に、私はピッチフォークの柄をぎゅっと握りしめながら返事をする。ほうっとお互いの口から白い息が零れて、空気中に溶けて消えていった。
 緊張で体を強ばらせている私に気づいているのか、いないのか。彼は穏やかに微笑みながら私に歩み寄り、気さくな様子で話を続けた。
「今日も変わらず寒いですが、良い天気ですね。牧場の方はいかがですか?」
「特には、何も」
「異常がないのは良いことです。今日も元気なあなたの姿を見ることができて、僕は安心しました」
「は、はぁ……ありがとうございます」
 私の顔なんて、見飽きるほど毎日見てるじゃないか。そう言いたいのをぐっと堪えながら、曖昧に返事をして一歩下がる。しかし、せっかく開いた距離はすかさず彼が詰め寄ることでなくなってしまう。
 なんだなんだ。今日はいつにも増して勢いが強い気がするぞ。
 足下で自分の愛犬と彼の相棒が戯れているのを他所に、私はまた一歩、もう一歩と後退りする。それに構わずズカズカと距離を縮めてくる彼は、満面の笑顔で話を続けた。
「実は、今日はプレゼントを持って来たんです」
「? プレゼント、ですか?」
「はい。……と言っても、ただのクッキーなんですが……良ければ、仕事の合間にでも食べてください」
 そう言って彼が差し出したのは、可愛らしくリボンでラッピングされた袋だった。その中に詰められたクッキーにはチョコレートが混ざってあったり、クルミやジャムが入っていたりと、一枚一枚がとても美味しそうだ。
 私は躊躇いながらそっとプレゼントを受け取り、手の中にあるそれと降谷さんの顔を交互に見つめる。
「えっと……作ったんですか? 降谷さんが……?」
「そうなんです! 実は昨日、ちょうど非番だったもので……あっ! すみません! 突然男から手作りのクッキーなんて渡されても困りますよね……!?」
「あ、いえ……そんなことは」
 こういう時、遠慮することなく喜んで受け取ってあげるべきなのだろう。正直に言えば、私だってクッキーは好きだ。お菓子の中では大好物の部類なので、手作りだろうが店で買った物だろうが貰えたらとても嬉しい。
 ただ、私が素直に喜べないのには訳がある。
 口ごもり、言葉を探しながら私はそっと降谷さんの頭上に目を動かす。
 頭上にある真っ赤な色のハートがドキドキと脈打っているのが見えた。それが他の誰でもない降谷さん自身の想いであると知っている私は、気恥ずかしさやら戸惑いやらで何と言葉を返すべきか迷った。
「とても美味しそうで……嬉しいです。ありがとうございます。美味しく頂きますね」
 なんとか無難にお礼の言葉だけを並べると、一人で慌てた後にしょんぼりと落ち込んでいた様子の降谷さんは目を丸くして、それから嬉しそうにはにかんで笑った。
 うっ。その笑顔、眩しくて真っ直ぐ見れないです。
「ありがとう。……ところで、名前さんは明日町で行われる星夜祭に参加されますか?」
「え? えぇ……町長からも是非、とお声をかけて頂いてますので……」
「でしたら、その夜……僕と一緒に見ませんか?」
「あっ、はい……って、ええっ!?」
 早く話を切り上げたい一心で思わず条件反射で頷いてしまった私は、嘘だろ、と降谷さんの顔を見た。星夜祭と言えば、所謂カップルで過ごす一大イベントでもある。たとえ恋人同士でなくとも、約束を交わした男女が一緒に参加してイベントを過ごすとなれば、誰が見てもその関係は一目瞭然というやつになってしまう。
「駄目ですか?」
「いえ、駄目とかそういう問題ではなく……あの、本当に私で良いんですか?」
「あなたとが良いんです」
 とろりと甘く蕩けるような眼差しで真っ直ぐと私を見つめてくる降谷さん。こんな美形に真正面からアピールされて「嫌だ」なんて言える女性がいるのだろうか。
 彼の想いに気づきながら「私はまだほのぼの牧場生活がしたい」なんて言って尻込みしているくせに、こういう時の押しにいつも弱い私。そんな私が、期待の込もった眼差しを前に首を横に振れるわけがなかった。
 気圧されるがまま小さく頷くと、降谷さんは目を細めて少年のような晴れやかな笑みを浮かべた。
「やっとだ……星夜祭をあなたと過ごせるなんて、僕は幸せ者だ」
 そんな甘い声で、言葉通り幸せそうな表情なんて見せないで欲しい。今までつれない態度をしてきたことを思い返して、私は自分の胸が痛くなるのを感じた。
 そんな私の心境なんて知る由もなく、「それじゃあ、また明日」と手を上げた降谷さんは自分の相棒のリードを引っ張って踵を返していく。
 牧場を出る前にもう一度振り返ってヒラヒラと手を振る降谷さんに対し同じく無意識に力無く右手振って見送った私は、ぎゅんっと心臓を掴まれたような衝動を感じながら力無く地面に突き刺したピッチフォークに寄りかかる。
「好感度が見えるのは有り難いけど……恋愛イベントは頼んでない……」
 温かい人達で溢れるこの町に引っ越してきて、季節がもうすぐ一巡りする今日。
 ずっと目を逸らし続けていたけれど、いよいよ本気の彼からは逃げられない事態になったようだ。
 彼のことは嫌いではないし、むしろ好感が持てる人だ。好意を向けられることも決して嫌ではない。ただ、逃げたいような、このまま捕まってしまっても良いような、そんな複雑な感情が胸の中を渦巻いている。
(私はまだ、独り身で牧場生活を満喫したいんだけどな……)
 ポツリと呟いた心の声は、当たり前だが降谷さんに届くわけがなかった。


 そしてこの翌日、星夜祭の最後に人生最大の恋愛イベントであるプロポーズを受けた私は、彼の熱烈な想いにまた押し負けて、春から新たな生活を始めることになるのだった。
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