とある忍ぶ恋草の行方


「あ〜っ……仕事辞めたい……」
 午後三時の昼過ぎとはすでに呼べないおやつの時間。
 ようやく昼休憩になって行きつけの喫茶店にやって来た私はカウンター席に座り、料理が運ばれてくるまでの間ずっとテーブルに頬をくっつけて突っ伏していた。
 そんな私を、ポアロ一の美男美女店員と噂される二人が苦笑いを浮かべて見ていた。
「今日もお疲れ様ですね」
 梓ちゃんが私の顔の真横に冷や水を置いて労いの言葉をかけてくれる。その気遣いと水の冷たさがじんわりと体に染み渡るのを感じながら、私は無言で頷いた。
「梓ちゃん、ホントに優しい。美人で優しいとかもう女神じゃん。しゅき。結婚しよ」
 それを言ったら梓ちゃんには「はいはい、デザートお持ちしますね」と適当に流されてしまった。結婚なんて口走ったから冗談っぽく聞こえたのかもしれないけど、好きなのは本当なのに。
 たまにはノッてきてよ〜、と思いながらぶーと唇を尖らせていると、私が注文したハムサンドを作っていた安室君がカウンター越しにひょっこりと顔を出した。
「梓さんばっかり羨ましいです。僕のことは?」
「はいはい。いつも美味しいご飯作ってくれる安室君のこともちゃんと好きですよ」
「あれ……僕には好きの気持ちが少しも感じられないんですが……」
「安室さんだから仕方ないですよ」
「ね〜」
 垂れがちの目尻と眉を下げながら指で頬をかいて困惑する彼に対し、私を擁護したのは梓ちゃんだった。
 ついさっき「好き、結婚しよ」なんて軽々しく口にした私が言える話ではないけれど、どうも安室君には女性との距離の詰め方に問題があるらしい。下心がないにも関わらず、無意識な言動で女性を自分の虜にするのが上手い。おかげで店の客から猛アピールされているのは、私も良く知っている。
 そんな安室君と同じ職場で働いている梓ちゃんに火の粉が降りかかるのは当然のことかもしれない。彼と仲良くお喋りしているだけで嫉妬した女性客が梓ちゃんのSNSを炎上させることも知っているし、店にいる客が実際に陰口を言っているのを聞いたこともある。
 梓ちゃんの苦労を知っている私は、頬杖をつきながら彼女と目を合わせ、軽く首を傾げ合って笑った。
 それを見た安室君は納得できないと言わんばかりに右の頬を膨らませる。いくら童顔とはいえ、三十路手前の男がそんなぶりっ子しても可愛くな──いや、可愛いけど。可愛いけどなんかそれが腹立つな。似合ってる、ムカつく、可愛い。そんなだからJKから『あむぴ』なんて可愛いあだ名で呼ばれるんだぞ。本人には絶対言わないけど。
「それにしても、今日は一段と休憩が遅くなったんですね」
「忙しくなる時期だからねぇ……いつの間にかお昼回ってたよ。そして気がついたら夜になるんだよ。一日があっという間に過ぎていく日々で一体私は何のために生きてるかわかんなくなってきて泣きそう」
「ああ、分かります。忙しい時って、一日が終わるの早く感じますよね」
「えーん! 毎日毎日長時間働いてるのに安月給とかマジやってらんなぁい……そんなんだったらパートでのんびり働きたい……! でもパートになると生活できないぃ……!!」
「そんな大袈裟な……」
 顔を覆ってわざとらしく嘆いて項垂れると、梓ちゃんにまた苦笑いされた。
 いやいや、笑い事じゃないんだぞ。これでも仕事辞めたいのは本気なんだぞ。誰にも養ってもらえないし、生きていけないから毎日頑張って働いてるけど。
「もういっそ結婚したい……寿退社したい……」
 ポツリとボヤいたその時、私の目の前にハムサンドとコーヒーを置いた安室君がニッコリと笑った。
「じゃあ、僕のお嫁さんになりますか?」
 私と梓ちゃんの視線が、カウンターの向こう側にいるイケメンに集中する。
 さらりと爆弾発言を投下した安室君は、私と目が合うとパチンッとウインクしてきた。
 何それ。そのウインクにどういう意味が込められたのか全く理解できない。「名案でしょ?」って意味かな。迷惑な提案、略して迷案の間違いだと思う。
 しばらくの沈黙のあと、白けた目をした私と梓ちゃんは声を揃え、首と手を振って否定した。
「「ないない」」
「ええっ!?」
 安室君が驚きと抗議の混ざった声を上げた。
「どうしてですか? 僕、これでも奥さん大事にするタイプですよ? 家事も得意ですよ?」
「あ、それ自分で言っちゃいます……? まあ、そんな感じはしますけど……」
 悪いけれど、私は愛だけで結婚相手は選べない。
 私なんかに「結婚しよう」って言ってくれる男性がいるのは、確かにありがたい話だ。けれど、例え誰もが格好良いと口にするようなイケメンであっても、高級そうな車に乗りながら収入不安定な探偵業とパートでカフェの店員を掛け持ちしている男に、私は自分の一生を捧げられる気がしなかった。
 しかし、どれだけ親しくてもそんな事は口が裂けても言えないので、余計なことは言わずに黙って注文していたハムサンドに囓りつく。
「でしたら、参考までに聞きますけど……」
「ふぁい」
「貴女はどんな人と結婚したいんですか?」
 おそるおそるといった風に、だけど真っ直ぐな目をして尋ねてくる安室君にどことなく真剣さを感じた。
 今日はやけにこの話題に食いつくな、と思いながらその目を見つめ返し、口の中で咀嚼していた物をごくりと飲み込んだ。
 そして「んー」と声を漏らしながら悩む。
「………………警察官、かな?」
 なんか、浮気もしないぐらい真面目そう。
 呟くようにそう言うと、さっきまでやや落ち込んだ雰囲気だった安室君の表情が、見るからにパッと晴れやかになった。
「そうなんですか!」
「そうそう」
 何故だかよく分からないけど、ショックから立ち直れたようなので私も笑顔で頷いておく。

 ──しかし、この数ヶ月後。
 警察手帳片手に『降谷零』と名乗る安室君から結婚を前提に交際を申し込まれることになるだなんて、この時の私は少しも想像していなかった。
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