ニセモノ逃亡劇


 思わず「うわぁ」と小さな声が漏れてしまった。
 仕事帰りで人が増えつつある賑やかな大通り。銀行にビルに服飾店から飲食店まで幅広い建物が立ち並んでいるその通りの片隅で、私は見覚えのある人物を見つけて足を止めた。
 私の視線の先にいるのは、私が足く通う『喫茶ポアロ』のウェイターの安室透さんだ。今日はポアロへの出勤はなかったので、おそらく本業の『探偵』の仕事帰りか、どこかへ向かう途中で話しかけられたのだろう。道端で女性と何やら話し込んでいる。
 しかし、声をかけてきた相手はどう見ても親しい間柄ではないようだ。一体いつからそこで絡まれているのか知らないが、離してもしつこく自分の腕に纏わりついてくる女性を何度も引きはがしていた。
 ──明らかに見知らぬ女性にナンパされて困っている様子である。
(ポアロでもたまに面倒くさそうな女性が来て大変そうなのに……イケメンなのも大変なんだなぁ)
 ただ、ポアロにいる間は彼が仕事中ということもあってそこまでしつこく絡む人はいない。
 稀にお客さんの中にストーカー化する人もいるそうだけど、そこは探偵の腕の見せ所と言うべきか。
 噂で聞いた話では、尾行されていることに気づいた安室さんが行方を眩ましてしまうそうなので、誰も追いかけられないそうだ。恋人の有無を確かめるべく、遊び半分で追いかけた友人も逃げられたと言っていた(ちなみに、この友人にはあとで遊び半分でも追いかけるのはやめて差し上げろ、と一応忠告はしておいた)。
 そんな他人の気配に敏感な彼を引き止めることができたのなら、彼女は良くも悪くも運が良い人なんだろう。
 あれはなかなか強敵だろうなぁ、なんて心の中で呟いて、私はその場を立ち去ろうと足を動かした。
 ──が、その時。自分に向けられる視線に気づいたらしい安室さんが、私の方に目を向けた。
 運悪く目を逸らす前に視線が交わった瞬間、その青い目が僅かに大きく見開かれた。そして驚いたような表情のあと、安室さんは嬉しそうに頬を緩ませてから私に手を振った。
「……ん?」
 つい反射的に、私は辺りを見渡した。
 けれど、私を避けて行き交う人達の中に安室さん達に注目している人はいないし、側に立っている見知らぬ人もスマホに夢中になっている。
 念のために背後も振り返ってみたが、そこは道路だし路駐できる場所でもないため、人が立っているはずもなかった。
 ──あれ、嫌な予感がするぞ。
 ビビビ、と警報が脳内に響き渡るのと、誰かの手が私の肩にのせられたのは同時だった。
 ビクンッと跳ね上がった私が勢いよく視線を戻すと、いつの間に女性を振り払ったのか安室さんが私の傍まで来ていた。
「何してるんですか。僕はあなたに手を振ったんですよ」
「え」
「もう……本当にあなたはいつまで経っても自覚をしてくれない人ですねぇ……そんなところも可愛いと思いますが」
「え? ……え? え?」
 な、なんかめちゃめちゃ面倒事に巻き込まれたぁぁあああ!
 さらりと恋人を装って親しげに話しかけてきた彼に、私は軽いパニックになる。
 それもそのはずだ。だって、私はポアロに何度も足を運んでいるけれど、店員さんと気軽にお喋りできるような性格じゃない。むしろ人見知りでどこかの店の常連になって店員さんに名前を覚えられている事の方が奇跡に近いのだ。ポアロのメニューがとても美味しいので通い続けているけれど、店員さんである榎本さんや安室さんに声をかけるのなんてオーダーや会計の時くらいである。
「今日の仕事、忙しかったんですか? 夜に会えないかなぁ、と思って昼間にメッセージを送ったんですよ」
「い、いえ、あの……メッセ? あの……人ちが──」
「助けてください。ここ最近、ずっと彼女につきまとわれているんです」
 彼の背後に見える美人なお姉さんはとても怖い顔をしてこちらを睨んでいる。その彼女を視界に入れて反射的に「人違いです」と首を横に振ろうとした私に、安室さんが言葉を遮って先手を打った。
 どうやら私の想像以上に彼は本気で参っているらしい。困ったように笑みを浮かべながら小声でボソリと聞こえたSOSの言葉に、無情にも他人事で素知らぬフリをしようとした私の良心が痛んでしまった。
 イケメン、こういう時、ずるい。
「……ごめんなさい」
 無関係のはずが、なんだかこちらが罪悪感で押し潰されそうな思いだった。様々な意味を込めた謝罪が口から零れ落ち、私は二人の視線から逃げるように下を向いた。
 その謝罪がどう受け止められたのか知らないが、安室さんは「良いんですよ、いつもお疲れ様です」と言ってゆるゆると首を横に振り、優しく微笑んでくれる。そして私の手を取り、腰を屈め、彼は私の顔を覗き込むとわざとらしい悪戯っぽい口調で囁いた。
「ね、一緒に逃げてくれますか?」
 それは私が断れないと確信している雰囲気だった。
 分かっている。最初から、人見知りの私が逃げ道なんて作れるはずもないのだ。
 こうなったらとことん付き合うしかない、と覚悟を決めて小さく頷き返すと、安室さんはそれはもう嬉しそうに微笑んで私の腰に手を回した。
 美女の顔が悔し気に歪むのが見えた。
「良かった! それじゃ、行きましょうか。あなたが好きそうな店を見つけたんです。和食、好きでしょう?」
「は、はい……」
 潔く諦めたけれど、そこまで恋人っぽくするのは止めて欲しい。下手をすれば明日にでもポアロの常連になっている女性客に刺し殺されてしまいそうだ。
 そう思ったものの、演技とはいえ心底嬉しそうに話す彼に水を差すようなことを内気な私が言えるはずもなく、ただ彼に促されるまま歩くしかなかった。
 しかし、彼に連れられて入ったちょっとお高めの定食屋さんに辿り着いた時、私はふと思った。

 ──あれ。そう言えば安室さん、私が和食好きっていつ知ったんだろう。
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