カフェ&ベーカリー『檸檬』には、イケメンの常連客がいるI


「すみません、僕から誘ったのに……」
「そんな、気にしないでください。仕事なら仕方ないですし、謝るのは私のほうですよ。こちらこそ、今日はご迷惑をおかけしました」
 小鷹さんと鈴さんと別れたあと、急な仕事が入ってしまったという安室さんに店の前まで送ってもらった私は、申し訳なさそうに謝る彼に両手を振ってからペコリと頭を下げた。
 確かに予想していたよりも早い時間の帰宅だが、「息抜きになれば」と誘ってくれた彼の気持ちはとても嬉しかったし、水族館だって十分に楽しく観て回ることができた。
 何より、ほとんど無関係なのにあのご兄妹と話をしている間も一緒にいてくれたのは心強かった。鈴さんと二人きりで話そうと言った時も、彼が近くで見守っていてくれていると分かったら安心したのだ。彼には感謝してもしきれない。
 だからこそ、そんな親切な彼に最後まで迷惑をかけたくなかった。そう思って「仕事なら急いだほうがいい」と送ってもらうのは遠慮したのけど、彼は首を横に振った。
「僕から誘っておいて、こんな所に置き去りにしたくないんです」
 と、これまた真剣な表情で言われては断りきれず、結局安室さんのご厚意に甘えて送っていただいてしまった。
「いえ、迷惑なんてそんな……本当なら僕がもう少し注意を払っておくべきでした」
「ええ? どうして安室さんが注意してなくちゃいけないんですか。どう考えても安室さんは関係なかったじゃないですか」
 彼はまるで自分に責任があるみたいなことを言うけれど、明らかに巻きこんでしまったのは私のほうだ。
 何故、と私がおかしそうに笑い飛ばせば、安室さんは眉尻を下げて物言いたげな表情を浮かべる。
「関係ない、ですか……」
 ポツリと呟くように反芻された言葉はひどく落ちこんでいて、声と同じくらい彼は目に見えて落胆していた。
(あ、あれ……そんなに落ちこまなくても良くない……?)
 私にとって、今の言葉は特に意味のないものだった。それなのに、こんなにもあからさまにショックを受けています、という反応を見せられると焦ってしまう。
 もしかしなくても、傷つけてしまったんだろうか。私としては無関係の人を巻きこんでしまった罪悪感しかないので、これ以上の上手い言い回しの言葉が見つからない。
 どうフォローすれば良いんだろう、と首を捻りながら悩んでいると、不意に私の頬を何かが軽く撫でた。
 視線を動かせば私の頬に触れていたのは安室さんの指で、唐突に触れられたことに私はドキリとする。
 なんだ、と思いながら彼を見つめれば、フロントガラスから差しこむ陽に照らされてキラキラと輝く青い瞳がやんわりと細められた。
「名前さんは、僕に心配されるのは迷惑ですか?」
「えっ……いや、そのっ……迷惑というわけでは……!」
 ぼぼぼっ、と顔に熱が集まるのを隠したい一心で頭を後ろに引く。
 しかし、ここで私は自分がまだ車内にいるということを失念していた。ゴツンっと思い切りシートベルトの巻き取り器具付近で後頭部をぶつけてしまい、予想外の鈍痛に「うっ」と頭を抑えて呻き声を漏らす。
「大丈夫ですか……!?」
「うう……だ、だいじょうぶです……」
 痛みより、あまりの自分の鈍臭さに恥ずかしさで涙が出そうだ。
 そして、ぶつけたであろう場所を撫でながらたんこぶが出来ていないか確認してくれている安室さんにまたドキドキしている自分がいる。
 もう駄目だ。これ以上は私の心臓が保ちそうにない。
「すみません、本当にもう大丈夫なので──……」
 意気込んで「降ります」と顔を上げた。だが、思ったより至近距離にあった彼の顔を見た私は途中で言葉を切る。
 ゆらゆらと揺らめく熱情が、深い海のような色の瞳に浮かんでいる。切なげに、けれど真っ直ぐに自分だけを見つめる彼の視線を受け止めていると、まるで彼に縋られているような、熱烈に自分を求められているような気分になって、都合良く勘違いしてしまいになった。
 ぎゅっ、と胸が締めつけられるのを感じながら、私は口を閉ざす。
「名前さん」
 熱を孕んだ深い青の目がうっそりと細められ、恍惚とした表情のまま、安室さんの薄い唇がおもむろに私の名前を紡いだ。続けて頭から移動した彼の手がするりと私の頬を撫で、そのまま横髪を掬い上げる。
「あなたにとって僕は、他の人に比べて少し仲の良いだけのただのお客様なのかもしれない。でも僕は、こうしてデートを中断してまで仕事に戻ってしまうような男ですけど……いつでもあなたに寄り添っていられる立場の人間でいたい。何かあった時、真っ先に無条件であなたに手を差し伸べられる場所にいたいんです」
 そう言って、指に絡めた私の髪のにちゅっと口づけた安室さんは艶やかに、それでいてどこか儚げに微笑んだ。
「あなたの隣に立つ権利が欲しい、と言ったら……僕もフラれてしまうんでしょうか?」
「っ……」
 思わず、ひゅっ、と息を呑んだ。
 それは明確な言葉ではなかったけれど、彼が何を伝えたいのかはハッキリと伝わってくる。彼の表情が、目が、声が、本心だと訴えかけてくる。
 なんてことだ。これでは、誤魔化すことも逃げることも許してもらえないじゃないか。
(ああ、もう、降参だ……)
 この人が、安室さんが、好き。
 自分の素直な気持ちが湧き水のように胸に広がり、鼓動が激しく鳴り響く。
 バックンバックン。
 全身を振動させているのでは、と思うほど大きな音を聞きながら、私は震える唇を必死に動かした。
「あむ──」
 安室さん、と名前を呼ぼうとした、その時だった。
 ブーッ、ブーッと大きなバイブ音が車内に響いて、私達の間に重い沈黙が流れた。
 何度も鳴り響くバイブ音にしゅるしゅると彼の言葉に応えようとした勇気が萎んでいくのを感じながら、私は硬直している安室さんにそっと声をかける。
「……あの……電話が……」
「……」
 無言で私の髪から撫でるように指を抜き取り、物言いたげな溜め息を吐きながらゆっくりと瞬きを一つ。それから静かに懐から取り出したスマホの画面を見て、無表情のまま安室さんが剣呑な雰囲気を漂わせた。
 こんな怖い雰囲気の安室さんは、今日で二回目だ。
「すみません、邪魔が入って……」
「いやいや、全然! 全然、邪魔じゃないと思います!」
 分かるけど。安室さんが『邪魔』って言いたくなるの痛いほど分かるけれど。でもそれ、間違いなく「早く来い」っていう催促のお電話だと思う。むしろ私が余計な時間を取らせてしまってその仕事相手の人に申し訳ないぐらいだ。
「そ、それじゃあ私、もう降りますね。送ってくださってありがとうございました」
「名前さん」
 そそくさと車のドアを開けて外へと足を伸ばすと、また名前を呼ばれる。
 振り返った先にはいつもの優しそうな、それでいて少し楽しげな笑みを浮かべた安室さんがいた。
「返事はまた今度、聞かせてください。──ね?」
「……!? 〜〜〜〜っ」
 この時、私はあることに気づいてボフンッと顔を赤くした。
 よく考えてみれば、距離が近くなってから安室さんには翻弄されてばかりだ。そして探偵の彼を相手に、無自覚だったといえ私が自分の気持ちを隠し通せるはずがない。
 まるで「最初から全部分かっている」と言わんばかりの表情を浮かべている彼に、返事を見透かされていたのは明白だった。
 どうして彼はこう、優しいと思わせておいて時々意地の悪い一面を見せてくるのか。
 ええい、こうなったら自棄だ。どうでもなれ。
「もうっ! 答えを分かっていて意地悪言う人に、私は『好き』なんて絶対言いませんからねっ!」
 続けて「気をつけて行ってらっしゃいませ!!」と吐き捨てて、車を降りて勢いよく扉を閉める。そのあと、逃げるように店の裏手へと回って家の中に駆けこんだ私は、一度も彼を振り返ることはしなかった。
 だから私はこの時の安室さんがどんな顔をしていたかなんて、知る由もなかった。
 ──真っ赤な顔でハンドルに突っ伏す安室さんを私がお目にかかることができるのは、まだほんの少しだけ先の話だ。


「最近、また安室さん来なくなったわねぇ」
 母のぼやきを耳にした私は、ぎくりと肩を震わせた。
 視線を感じてそちらに目を向けると、声音同様に何かを探っている様子でじとーっと私を見つめる母がいた。
「……仕事が忙しいんじゃない?」
「名前……あなた、まさか……あんなに格好良くて優しい男の人を袖にしたんじゃないでしょうね?」
「そっ、袖になんてしてないよ……」
 たぶん。なんて自信のない声で続けた私の言葉に、母は呆れたと言わんばかりに溜め息を吐き出した。どうやら私の言葉は信じてもらえていないようだ。
 でも正直に言うと、私も最後の捨て台詞はまずかったのでは、と心配になっている。
 あれから二ヶ月は経つけれど、一向に安室さんの姿を見ることがなくなった。
 聞けば、ポアロにも毛利探偵事務所にも顔を出していないらしい。噂では毛利探偵事務所に居候していた小学生の男の子もいなくなってしまったんだとか。
「ようやく娘にモテ期が来たと楽しみにしてたのにな〜」
「あらあら、この子は何を言っているのかしら。名前ちゃんはいつだってモテているじゃない」
 焼きたてのパンを運びながら「ねえ?」とニコニコと笑いながら私に同意を求める祖母に、うんともすんとも言えないまま苦笑を返す。
「昔馴染みが多いけれど、ここに来る常連客のほとんどは名前ちゃんに会いに来ているんだからねぇ」
「まあ……ねぇ。何せ、小さい頃からお店の手伝いをしている看板娘ですから。……でも、そろそろ未来の旦那さんぐらい連れて来てくれてもいいと思わないかしら?」
 ひょいと肩を竦めた母に、祖母は「そればかりはご縁だよ」とからからと笑い飛ばした。
 そんな二人を相手にすることに疲れた私はやれやれと肩を落とし、カランコロンと店の扉が開く音に目を向ける。
「……あ」
 立っていたのは、鈴さんだ。いつものお団子ヘアに制服姿の彼女は、気まずい様子でこちらをチラチラと見ている。
 思いもよらなかったお客様に、私はきょとんとする。あの一件以来、お兄さんの小鷹さんは一度も店に来ていない。だから、まさか彼女がまた来てくれるだなんて、想像もしていなかった。
「……いらっしゃいませ、鈴さん。良ければカフェスペース、ご利用なさいますか?」
 そう笑いかけると、彼女は目を丸くして私を凝視する。それからポッと顔を赤くしてフイッと顔を背けると、トレーにシナモンロールをのせてレジカウンターへとやって来た。
「急にここのシナモンロールが食べたくなっただけだから……」
「ありがとうございます。どうぞ、奥でゆっくり召し上がっていってください」
「……あと、ちょっと喉が渇いたなって思ったの」
「はい、オレンジジュースでよろしいですか?」
「……………………」
 ニコニコニコニコ。満面の笑みで対応していると、鈴さんに胡散臭いものを見るような目を向けられた。
 負けじと「それともアイスティーにしましょうか?」と質問すれば、長い沈黙の末、鈴さんはポツリと呟くように口にした。
「……紅茶。あったかいやつ」
 勧めたメニューをことごとく無視して選ばれたのは温かい紅茶だった。
 ──これが噂のツンデレ系女子なのか?
 彼女の注文を受けた私はちょっと残念に思いながらも、再び来店してくれたことを嬉しく思いながら「かしこまりました」と相槌を打った。


「よく分からないけれど、お兄ちゃんとあの人がよりを戻したの」
 カフェスペースに座ってもそもそとシナモンロールを食べる鈴さんの前に紅茶を置くと、彼女が唐突に口を開いた。
 あの人、と言うのはおそらくお兄さんの恋人さんのことだろう。
 何故そんな報告をされたのかは分からないけれど、私は頬を緩ませた。
「そうなんですか! 良かったですねぇ」
「良くないわよ! どうして私がここに居ると思う!? 前より人目も気にせず私の前でイチャイチャイチャイチャ──」
 ほんと、妹の前でも遠慮しないとかあり得ないんだから。
 そう愚痴を零しているけれど、鈴さんの表情はどこか明るくて嬉しそうだ。
 お兄さん達がよりを戻した経緯は私にもよく分からないけれど、彼女の望み通りお兄さんが今を幸せと感じているのなら、それが一番だ。
「じゃあ、今お二人はお家にいらっしゃるんですか?」
「そ。気の利く私はお兄ちゃん達のために家にも帰らず、こうしてブラブラ外を散歩してるってわけ」
「ふふ。それなら、気の済むまでゆっくり過ごしていってくださいね」
「そのつもり。……ねえ、あなたはあの喫茶店の探偵とどうなの?」
「安室さんですか? 最近はお会いしてないですよ」
「ふぅん? まさか……告白されて『また』フッたとか?」
「『また』って……」
 グサリと刺さった。
 確かに鈴さんのお兄さんをフッてしまったけれど、それにはちゃんと理由があってのことで、彼女にもちゃんと説明したはずだ。
 けれど安室さんには勢いのままに言葉を放ってしまったので、あの時の彼にどう受け取られたのかはよく分からない。
「というか、告白も何も……そもそも私は安室さんに直接『好き』と言われてないし……」
 ボソボソと言い訳を口にしてしまったけれど、あながち間違ってはいないはず。
 すると、耳聡く私の呟きを聞き取った鈴さんが片眉をひょいと持ち上げた。
「『好き』って言われてないなら、なんて言われたの?」
「『あなたの隣に立つ権利が欲しい』」
「は?」
「『と言ったら、僕もフラれてしまうんでしょうか?』」
「はぁ……?」
 ぐっと眉が寄せられた上に、呆れを滲ませた不思議そうな声が上がった。
「何ソレ。意味分かんない」
「う〜ん……たぶん、そのままの意味だと思いますけど」
「私そういう回りくどいのキラーイ。男ならもっとこう、ハッキリと言ってくんなきゃ」
 お兄ちゃんみたいにね、なんて言ってぱくりとシナモンロールにかぶりつく鈴さん。ここでお兄さんを引き合いに出してくるあたり、相変わらずのブラコンっぷりだ。堪えようとしても苦笑がこみ上げてくる。
 モグモグと口の中のパンを咀嚼して、紅茶と一緒に飲みこみ、彼女は話を続けた。
「それで、あなたはなんて返したの?」
「途中で話が中断になり『返事はまた今度』って言われたので『答えを分かっていて意地悪を言う人に『好き』なんて言いません』とだけ」
「うわぁ……その切り返しも私には意味分かんない」
「すみません……でも安室さんって人の気持ちに敏感だから、言葉にしていなくても雰囲気で気づかれてそうだなって思っちゃって……つい」
 だって、私もその時はいっぱいいっぱいだったのだ。それまではさり気ない感じのアピールだったのに、急にグイグイと迫ってこられてパニックになっていたし。
 がっくりと項垂れる私に、パクパクとシナモンロールを口に入れる鈴さんは「ふぅん」と興味のなさそうな声を漏らした。
 興味ないのは分かっているけれど、どうせ聞くならちゃんと話を聞いてほしいな、なんて思っていたら、彼女は平然と話を続けた。
「まあ、あの人のことだから、あなたのことは本気で好きなんだと思うけど」
「え……」
「だって、私があなたに突っかかった時にあの人、すごく怖い目をしていたもの」
 言われてその時の安室さんの様子を思い返し、確かに、と頷く。
 普段は穏やかで優しい雰囲気だけれど、私を庇うように寄り添っていた時の彼の目は別人のように厳しい色を浮かべていたと思う。
 そう言えば、車の中で電話がかかってきた時も怖い目をしていた気がする。初めて知った一面だったので、安室さんにも苛立つことの一つや二つあるんだなあ、ぐらいにしか考えていなかった。
「好きじゃなかったらあなたとデートだってしないわよ。何か裏がありそうな人だけど、少なくともあの日のあなたへの態度を見る限りは、信じてあげてもいいんじゃないかしら」
「……」
 私は耳を疑った。
 まさか年下の女子高生、それも彼女からアドバイスされるだなんて。お客さんである彼女にこんな話をしている私も私なのだけれど、誰がこの少女から励まされるだなんて想像できただろう。
 言葉もなくぽかんと彼女を見つめると、鈴さんは「何?」と眉を寄せた。
 ──本当に予想外だ。でも、話してスッキリした部分もある。
 怪訝な表情を浮かべる彼女に、私はニッコリと笑い返した。
「紅茶、おかわりはいかがですか? おまけしますよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 ちょっとした悩みを聞いてくれたお礼のつもりだったけれど、その妙な優しさが返って怪しかったらしく、彼女は頷きながらも気味悪そうに身を引いていた。
 その反応に少なからず傷ついたけど、気のせいだと思ってスルーすることにした。


 そのあと、鈴さんは閉店の時間までカフェスペースで勉強に励んでいた。実は彼女、受験生だったらしい。
 少々派手な制服姿に反して根は真面目らしく、声をかけるのも躊躇うぐらい真剣な顔で参考書とノートを交互に見つめていた。そんな彼女を見ていたら邪魔するのも悪いかなと思って見守っていたが、気がつけば外は日が傾き始めていた。すごい集中力だな、と感心する。
 しかし、時間は時間だ。私達が片付けを始めてもノートと向き合っていたので、止むを得ず私から声をかけさせていただいた。
「ご、ごめんなさい、遅くまで居座ってしまって……」
「いいえ。むしろ、勉強が捗っていたみたいで良かったです」
「ええ、とっても。……あの、また来てもいい?」
「もちろん。いつでもお越しください。……良ければ、今度はお兄さんと恋人さんも一緒に」
 そう言葉を返すと、申し訳なさそうな様子だった彼女はパッと表情を明るくさせた。
 ──なんだろ。なんか、こう、人見知りする猫に懐かれた感じ。
 彼女の目が猫に似ているからだろうか。ひっそり心の中でそんな印象を抱いた。そして「また来るわ」と言って軽やかな足取りで去って行く鈴さんに手を振って見送り、やれやれと肩を竦める。
(さて、片付けますか)
 ようやく片付けができる、と店の前に置いてあったスタンド式の看板に手を伸ばした──時だった。
「すみません」
 誰かが自分に近づき、声をかけてきた。
 聞き覚えのあるその声にどくりと心臓が高鳴り、ゆっくりと振り返る。
 視界に入ったのは見慣れたグレーのスーツに、地毛らしき金色の髪と、日焼けしたような色黒の肌。
 夕日に煌めく深い青の眼差しをこちらに向けている彼は、柔らかく、優しげな声音で続けた。
「もうレモンパン、売り切れちゃいましたか?」
「……すみません。生憎、今日は全て売り切れてしまいまして」
 それはまるで、最初に彼と出会った頃のようなやり取りだった。
 私が答えると、彼は眉をハの字にしてあからさまに肩を落としていた。
「そうですか。それは残念です……実は僕、ここのレモンパンがすごく大好きなんですけど、最近は仕事でなかなか来れなくて……」
 言いながら、彼は私に一歩近づいた。私も彼に合わせて一歩後退りした。
 無意識の行動だったが、私が逃げたことに気づいた彼はピタリと歩みを止める。
 それから垂れ下がり気味の彼の目が僅かに細くなったのを見て、私は慌てて愛想笑いを浮かべながら会話を続けた。
「そっ、そうなんですね……! えぇっと、その……それは、私も残念に思います」
「…………ええ、本当に。以前の僕ならただ残念に思いました。……でも、今は他にも欲しいモノがあるので、そこまで惜しくは思わないんですよ」
「え」
 言うが早いか、一瞬で彼に間合いを詰められ、がっしりと大きな手で腕を掴まれる。
 逃さないぞ、とばかりに握られた自分の腕と彼の顔に交互に視線を向ける。
「どうやら僕は、そのレモンパンを作る女性に心を奪われてしまったみたいなんです」
「……えっ?」
 不意打ちを食らった私はピシリと緊張で体が強ばった。
 彼はしてやったり、と笑いながら言葉を続ける。
「気を引きたくて、何度も店に通ってその人が作ったレモンパンを買っていたんです。でも、顔を赤くするのが可愛くてつい意地悪していたら、僕はいつまでもその人に『好き』って言ってもらえないらしいんですよね」
「うっ……」
 だから、そういう所が意地が悪いと言っているんだ。
 恨みがましい思いで彼を睨みつけると、彼はニコッと笑みを深くして「だから、色々と正直に全て話してしまおうかと」と言いながら胸元のスーツの内ポケットから何かを取り出し、それを私に見せた。
「一つだけ、あなたに嘘をついていました。……改めまして、僕は降谷零といいます」
「……はい?」
 目の前にあるそれは、普段あまりお目にかかることのない警察手帳だった。彼の証明写真と役職が書かれたそれは間違いなく本物の警察手帳のようで、私はそこに記載されている名前を見て、そして彼の口から直接本名を名乗られて、混乱する。
 そんな私を苦笑いで見つめ返し、彼は警察手帳の裏からもう一枚の名刺をスライドさせて見せた。
 そこに書かれている名前は、私のよく知る彼の名前だ。
「安室透は偽名で、つい最近までこの名前で潜入捜査をしていたんです。そして今、安室透としての役目を終え、再びこうして本来の自分の名前を名乗ることができるというわけです」
「えっと……ちょっと、待ってください……」
 私は額を抑えた。
 今目の前にいるのは、『安室さん』だ。でも、その安室さんは本当は『降谷さん』というお名前で、お巡りさん。喫茶店で働く従業員でもなければ、毛利探偵事務所の毛利小五郎の弟子でもなく、潜入捜査をしている警察官。
 刑事ドラマとか全然見ないからよく分からないけれど、警察が一般市民に扮して犯人に近づいたりするのは知っている。つまり、この人も同じことをしていたということだ。
 なんてことだ、どうやら私はとんでもない人と出会っていたようだ。そして、そんなすごいことをやっている人に恋をしてしまったらしい。
 衝撃的な事実に声も出ない。呆然としている私に、「やっぱり、驚きますよね」と安室さん──いや、降谷さんは困ったように微笑み、するりと腕から手を離して次に私の指を掴んだ。
「混乱させてしまったことは謝ります。でも、これだけは信じてほしい。名前を偽っていても、僕の気持ちは一度も偽ったことはない。初めてお会いした時から、少しずつ僕は名前さんに惹かれていた」
 私を求めているような真っ直ぐな熱い眼差しは、二ヶ月前に車の中で見た時と何も変わらない。彼の青い瞳に捕らわれたまま、私は視線を逸らせずに見つめ返した。
「好きです。仕事が忙しくて寂しい思いをさせてしまう時もあると思うけど、僕はあなたを諦められない……どうか、僕とお付き合いしていただけませんか?」
 最後の台詞を言った時の彼の声が、私の手を握っている手が、少しだけ震えていた。
 たぶん──いや、きっと『安室さん』は私の気持ちを分かっていた。だけど『降谷さん』は、私が真実を知ったあとも同じ気持ちでいてくれるか不安で仕方ないんだろう。
(夢、みたい……)
 好きな人からこんなにも想われているだなんて、誰が想像できただろう。
 嬉しいだとか、幸せだとか、色んな感情がこみ上げてきて、涙が出そうになる。胸いっぱいに広がるこの感情を、どう言えば上手く彼に伝えられるのだろう。
 それは恐らく、たった一言だけだ。
「私も、あなたが大好きです」
 大きく見開かれる青の瞳を見つめ返し、笑う。
「あなたが『安室さん』でも『降谷さん』でも気持ちは変わらないですよ。誰に対しても優しいあなただから、私も好きになったんです」
 ──これからも、よろしくお願いしますね。
 自分の指を掴んでいる降谷さんの手をぎゅっと握り返し、同じく震える声で気持ちを返した。
 すると彼は少しだけ瞳を潤ませ、泣くのを堪えるような表情を見せる。
 しかしそれは一瞬のことで、降谷さんは色黒の肌でも分かるぐらい赤らんだ顔で照れ臭そうな笑みを浮かべていた。
 まるで少年のように無邪気に微笑んだ彼に、ぎゅうと胸を締めつけるような愛しさがこみ上げた。

 私が作るパンが好きだと言ったこの優しい男性に、私は確かに恋に落ちていた。
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