カフェ&ベーカリー『檸檬』には、イケメンの常連客がいるH


 小鷹鈴という女子高生には、自分とは似ても似つかない兄がいる。
 幼い頃に交通事故で両親を亡くした鈴にとって、彼だけが唯一の大切な家族だった。
 彼女の両親が巻きこまれた事故は、本当に防ぎようのない出来事だったという。当時まだ赤ん坊だった鈴は高熱を出したため、小学生の兄と家で留守番をしてため無事だったらしい。そのあとは彼女も知っての通り、祖父母の家で世話になったのだ、と兄は話していた。
 その鈴の兄には、生まれつきのコンプレックスがあった。
 柔道をしていた恰幅の良い兄の顔は、その三白眼のせいで一見すると悪童や悪鬼と呼ばれるような人相をしている。その人相のせいで人付き合いが苦手になっていたため、誰かと目が合うといつも無口になってしまい、相手には青褪めながら後退りされていた。
 確かに、妹である鈴も無言のまま兄にじっと見つめられたら尻込みすることはある。しかし、兄は決して人に対してひどいことはしないし、傷つけるようなことを言ったこともない。
 その外見だけで怯えられることを知っている兄は、相手を怖がらせないために不必要に会話をしないだけの、ただの朴念仁だ。不器用だけれど、相手のことを考えられる優しい男なのだと鈴は思っている。
 そんな兄が社会人になり、とある企業に就職して数年経ったある日のことだ。
 彼女は兄から「恋人ができた」と報告を受けて仰天した。驚きのあまり、手に持っていたお気に入りのカップを割ってしまったぐらいの衝撃だった。
 まさか詐欺にでも引っかかったのでは。そう思って詳しく話を聞くと、相手は同じ会社の同じ部署で働いている後輩だという。鈴の予想を裏切り、二人の出会いや恋人になった経緯は特に怪しいところはなかった。
 あのぶっきらぼうな兄が赤い顔で照れくさそうに笑っていることも天地がひっくり返るような驚きだったが、何よりも鈴はこの恐ろしい顔をした兄を好いてくれる人がいたことを心から喜んだ。
 兄の恋人になったという女性はとても気立ての良い美人だった。まだ幼さの残る凛々しい顔立ちをしていながら物腰はひどく柔らかく、加えて話し上手の聞き上手。料理やお菓子作りも得意で、中でも特に手作りのパンが絶品だった。
 兄と並ぶと対照的な雰囲気のその女性は、兄のたった一人の家族である鈴にもとても良くしてくれた。料理も勉強も教えてくれて、女同士でしかできない悩み事も聞いてくれる──そんな面倒見の良い彼女が兄を愛してくれたことに、鈴は心から感謝していた。
 けれど、そんな兄と恋人の関係は二年ほど経ったある日、ぶつりと終わりを迎えることとなった。


 その日、鈴はテスト期間のため帰宅が早かった。
 今日は彼女の大の苦手な数学のテストがあったのだが、今回は自分なりに手応えを感じていた。兄やその恋人に助けてもらいながら試験勉強を頑張った甲斐があった、とルンルンと満足した顔で自分の住んでいるアパートへと向かう。
 そこで家に辿り着いた彼女は、アパートの下で浮かない顔をした兄とその恋人が立っているのを発見した。
 声をかけようとしたが、二人の間からどこか重苦しい空気を感じ取った彼女は慌てて電柱の陰に隠れる。
「……分かった。それが君の出した答えなら、俺は何も言わない」
 明らかに様子が変だ。兄の声に耳を澄ましていると、彼の向かいに立っていた彼女の口から「ごめんなさい」と小さな謝罪が聞こえた。
 鈴は困惑した。
 兄が静かに首を横に振って、恋人に背を向ける。
「いいんだ。それが君の選んだ道なら……──ただ、こんなことになるなら……最初から君と付き合わなければよかったと思うよ」
 え、と鈴は目を見開き、兄の言葉に耳を疑った。
 普段の兄は、自分の考えや思いを口にすることが少ない。どれだけ心を許した相手がいても、寡黙なところはなかなか変わらなかったのだ。
 しかし今、兄の口から聞こえたそれは間違いなく彼の本心であり、彼女に対する決別の言葉だった。
 ──なんで。
 ──どうして。
 ──この前まで、二人は仲睦まじい様子だったのに。
 そんな考えが彼女の頭の中をぐるりと駆け巡っている間に、兄はアパートの自動扉を潜り抜けてエレベーターホールへと入ってしまう。
 残された女はどこか思いつめた表情で兄が見えなくなったあともアパートの入り口を見つめていたが、やがて鈴に背を向けてカツンカツンと物寂しげにヒール音を鳴らしながら立ち去って行った。
 鈴は慌ててアパートの中へと入り、兄を追いかけるように家の中に飛びこんだ。
 兄はソファで項垂れていたが、彼女を見ると平然とした顔で「おかえり」と言った。
「さっき、あの人が来てたみたいだけど……」
「ああ、別れ話をしてたんだ」
 兄はなんでもない様子でそう答えた。その声音に感情はなく、まるで今までの朴念仁そのものだ。
 嫌な予感が当たってしまい、鈴は絶句した。
 こんなこと、あるはずがない。これは夢だ。そうであってほしい。
 だけどそんな願いは虚しく、この日を境に鈴の大好きだった二人は別々の人生を歩き始めていた。


 ある日、兄と買い物に出た帰り道でのことだった。
 チラチラと隣を歩く兄を見ては目を合わせないように顔を俯かせる人達を横目に見ながら歩いていた鈴は、ふと通りの一角にあるパン屋に目を向けた。
 カフェ&ベーカリー『檸檬』という看板を掲げるその店はすでに閉店しているようで、店の前では一組の男女が笑顔を浮かべながら喋っていた。
 ──うわ、なんかいい雰囲気。
 鈴は思わずそちらに注目してしまった。
「ご来店、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。さっきいただいたパン、とても美味しかったです。ご馳走様でした」
 夕日に輝く色素の薄い髪に、日焼けしたような浅黒い肌。
 日本人離れした容姿をしたその見目麗しい年若い男性客が「次は閉店する前に来ますね」と柔らかな笑みを浮かべると、従業員の女性も嬉しそうに頬を緩ませていた。
 その二人の表情は、つい最近までの兄とその恋人のそれと似ていた。
 温かくて、優しくて、それでいて自分の前に立つ人間を慈しむような目。
 ただの客と従業員には見えない雰囲気を醸し出しているそんな二人を呆然と見つめている鈴の耳に、ぽつりと小さな兄の声が聞こえた。
「……可愛い人だな」
 それは兄にとって本当に何気ない一言だったのかもしれない。
 恋人と一緒に過ごしていた時のことを思い出しているのか、遠くを見つめるような眼差しで鈴と同じ方向に目を向けている兄を見て、鈴の脳裏にとある考えが過った。
 ──お兄ちゃんは、本気で彼女のことを忘れようとしているのかもしれない。
 恋人と過ごした時間は兄にとって初めて経験することばかりで、彼にとって人生で一番の大恋愛だったのだ。それが失恋という爪痕となって残ってしまった今、彼の中でその恋の傷を癒やす方法が無意識に他の女性に向けられているのかもしれない。
「……じゃあ今度、あのパン屋に行ってみたら」
 この時の鈴の言葉も本当に何気ないものだったが、彼女は無意識にこう考えてしまっていた。
 ──長年自分の面倒を見てくれた兄に、今度こそ幸せになってもらいたい、と。
 そして、その願いに応えるかのように兄は毎日あの店に通うようになった。続けて、レモンパンを大量に購入してくるようになった。来る日も来る日も飽きることなく同じパンを食べている彼に、流石の彼女も不安になったのは言うまでもなかった。
「ねえ、ずっとそればっかり食べてるけど……急にどうしたの?」
「彼女が作るパンが美味しくて、つい買ってしまったんだ」
「毎日こんなに食べてるのに……? ねえ、流石にもう止めたほうが……」
「大食いには、これぐらいどうってことないさ。それに、毎日これだけ買っていれば自然と彼女の目にも留まるかもしれないだろう?」
 確かに彼は大食漢だが、それにしても限度というものがある。
 鈴は静かに眉を顰めたが、兄は何食わぬ顔でパンを平らげていく。三十分もすれば、山盛りになっていたレモンパンは綺麗サッパリとなくなっていた。
 ──何か、引っかかる。
 この時の鈴はまだ、その正体が何なのかは分からなかった。


 また別の日、パン屋へと出かけていた兄が意気消沈した様子で帰ってくるなり、もそもそとパンを頬張っていた。
「……どうかした?」
「……彼女は、やはりあの男が好きらしい」
 兄の言う『彼女』はパン屋の従業員で、『あの男』はおそらく鈴も一度見かけたことのある男性客のことだろう。
 ──そりゃあ、そうだろう。
 薄情だと言われるかもしれない。それでも、兄には申し訳ないが彼女は心の中で納得した。
 だって、妹の彼女から見てもあの時の二人の間には誰も入りこめない空気が漂っていたのだ。
 なのに、兄はなりふり構わずあの女性に執着するようになった。
 何故、どうして。鈴は兄の行動を振り返り、ふと気づく。
(そう言えば、レモンパンって……)
 兄の恋人だった女性もよく作ってくれたパンだ。そして彼女が手作りしたパンの中でも、兄が好んで食べていた物だった。
 もしかして兄は、あのパン屋の女性に惚れたと思いこんで、恋人だった彼女との思い出にただ浸っているのかもしれない。
 鈴がその答えに辿り着くのは、思ったよりも早かった。
(もう、止めなくちゃ……)
 頭ではそう理解していた。きっと、兄も薄々と自分で気づいていることだろう。しかし、失恋した兄のことを思うと鈴から余計な口出しをするのは憚れる。
 それどころか、彼女はこの直後に道を間違えてしまった。
「また、失恋かな……」
 そう悲しげにぼやいた兄の言葉に、鈴は決断してしまったのだ。
 ──兄のために、あの女性と男性客の仲を引き裂いてしまおう、と。


 *** *** ***


「なるほど。それで彼女は僕に近づくな、という旨の『手紙』を名前さんに送ったわけですね……」
 きゃっきゃっとはしゃぐ子供の声が聞こえる館内の一角。そこでテーブルを挟んで四人が向かい合って座る私達の空気は、その賑やかな雰囲気に似合わないものだろう。
 小鷹と名乗ったそのご兄妹の話に「理解しました」と真摯な態度で相槌を打った安室さんの隣で、私はなんと言葉を発せば良いのか困惑していた。
 要約すると、つまり──お兄さんは失恋で傷ついた心を癒やすために私に惚れたと思いこんでいただけで、その妹の鈴さんは安室さんと接触しなくなればお兄さんに目を向けてもらえる可能性があると考えた、と。それが原因で私はこれまで鈴さんに嫌がらせの手紙を差し向けられていた。こういうことか。
 少々行き過ぎた手段に出てしまったのはどうかと思うが、経緯を聞いてしまった今ではそこまで兄のことを思える彼女がすごいと感心してしまった。
「妹のしたことは保護者の俺にも責任がある……本当に申し訳ない」
「あ、いえっ……最近は嫌がらせもなくなっていたので、もう二度と他の人にも同じことをしないと約束していただければ私はそれで構わないんですが……」
 保護者として責任を感じているらしい小鷹さんがペコリと頭を下げる。それに手を振りながらチラリと妹の鈴さんに目を向けると、彼女はどこか思いつめたような、それでいて納得できないといった表情で地面を睨みつけていた。
 兄として責任感の強い小鷹さんの様子から察するに、彼女も自分がしたことに少なからず罪悪感や責任を感じてくれているんだろう。でも、それ以上に納得できないことがあるのかもしれない。
「妹のことは気にしないでくれ。これは少々、お節介がすぎた。今回のことは何も言わずに反省するべきだ」
「それは、そうかもしれませんが……」
 私と同じく、この場の誰もが鈴さんの物言いたげな雰囲気を感じていたらしい。しかし、全員が彼女に目を向けると、俯いていた鈴さんはきゅっと唇を閉ざしてしまう。
「……やっぱり一度、二人きりでお話ししましょう」
「名前さん」
「でも、あの……ほら、女性同士のほうが話しやすいかもしれないじゃないですか」
 咎めるように私の名前を呼んだ安室さんの説得を試みる。「大丈夫ですよ」という意味を込めて笑みを浮かべる私をしばらく見つめたあと、安室さんは呆れを滲ませて小さく溜め息を零しながらも、微笑み返してくれた。
「……分かりました、二人が見える範囲で僕達は距離を取ります。ただし、十五分だけですよ。それ以上は妥協できません」
「はい。ありがとうございます」
 お礼を言うと、安室さんは小鷹さんを促して渋々といった風に腰を上げた。
 こちらを振り返りながら離れて行くの二人を見送っていると、「どうして」と小さな声が聞こえた。
 鈴さんに視線を戻す。
 彼女は真っ直ぐに私を見つめていた。
「どうして、あなたはお兄ちゃんじゃ駄目だったの……? 顔が怖いから……?」
「……確かに近寄りがたい雰囲気は感じますが、それだけが原因じゃないですよ」
 なるほど、彼女が気になっていたのはそれだったのか。彼女の本当に知りたいことがこの質問だったのなら、確かに大好きなお兄さんの前では口に出しづらかっただろう。
 そう考えながら、私は素直に答えた。
 他の要因が分からないのか、鈴さんは眉を顰めながらも静かに私の言葉に耳を傾ける。
「鈴さんも気づいていたじゃないですか。お兄さんが私を通して元カノさんを見ていたってこと」
「それはそうだけど……でも、あなたはお兄ちゃんが他の人を好きだなんて知らなかったはずでしょ」
 言い淀みながらも切り返してきた彼女に、私は「そうですね」と肩を竦めながら続けた。
「なんと言えばいいのか……実はお兄さんから告白された時、不思議なことに少しもときめきを感じなかったんですよ。お兄さんの普段の言動から多少なりとも好意を向けられていることは気づいていたんですけどね……どうしてだと思いますか?」
 私が尋ねると、鈴さんは困惑した様子で視線を迷わせ、口を閉ざした。そして短い時間だが、逡巡してからおもむろに自分の中で導き出した答えを口にした。
「お兄ちゃんが……本気じゃなかったから……?」
 その答えに、私は迷いなく頷いた。
 告白とは、自分の中で隠していた気持ちを正直に打ち明けることだ。それなのに、鈴さんの兄は自分の本心を隠して私を好きだと言った。
 あの時は私も彼に対する緊張と恐怖でそこまで意識していられなかったけれど、中途半端な告白なんて、どんな状況でも伝わる人には伝わってしまうものだと思う。
「それともう一つ……私、嘘を吐いていましたから」
「あの安室って人とのこと? それは言われなくても、もう分かっているわよ……恋人なんでしょ」
「ああ、だからそれ誤解ですってば……! 本当に今日は日頃のお礼も兼ねて私の息抜きに遊びに行こうって話になっただけなので、彼とは恋人でもなんでもないんです」
「……? 結局、それはデートじゃないの? 普通、興味もない人を遊びに誘ったりしないと思うけど」
「うっ……」
 密かにずっと目を逸らしていたことを指摘されて言葉に詰まる。
 そりゃあ、誰だって興味のない異性を遊びに誘ったりしないのかもしれないけれど、安室さんはちょっと特殊というか、誰に対してもあんな感じだと思うのだ。
 彼女の兄とはまた別の意味で本心が上手く読み取れない人なので、変に期待をしたくないという自衛本能が働いているのかもしれない。
 うーうーと唸りながら言葉を探していると、鈴さんがふぅ、と息を吐いた。
「まあ……なんでもいいけど。お兄ちゃんの恋が叶わなかったのは事実だもの」
「……そう、ですか」
「だけど……でも……その……ごめんなさい」
「え」
 唐突にボソリと聞こえた謝罪に顔を上げる。
 申し訳なさそうに眉尻を下げ、気まずい表情でテーブルを見つめている鈴さんは「手紙のことよ」と続けた。
「お兄ちゃんは今までずっと私の面倒を見てくれた人だから……だから……」
「……大好きなお兄さんに、ただ幸せになってもらいたかったんですね」
 私の言葉に、鈴さんがへにゃりと顔を歪めた。
 両親の代わりにここまで育ててくれた兄だからこそ、誰よりも幸せになってほしい。
 ただその一心で彼女は行き過ぎた行動に出てしまった。それだけの話だ。
「大丈夫。お兄さんもきっと、鈴さんの思いには気づいてくれていますよ。ちゃんと謝れば許してくれます。私も今回のことは安室さん以外に誰にも知られていませんから、これでこの話はお終いにしましょう」
 そう言って優しく笑いかけると、鈴さんはまたくしゃりと顔を歪めた。それから堰を切ったようにボロボロと涙を流しながら再び泣き出してしまう。
 見知らぬ女子高生を一人で宥めるのは大変だ。だが、最初から彼女に悪意がなかったと知ることができたのは良かったのかもしれない。
 お兄さんと安室さんが戻ってくる頃、彼女のチャームポイントの猫のような大きな目は真っ赤になっていたけれど、吹っ切れたように「あなたにお兄ちゃんは勿体無いわ」と澄ました顔で言われて、私は小さく笑った。
 そして、これでまた明日から平穏な日々が戻るのだと、ひっそりと安堵した。
 そんな私を見た安室さんが「やっぱりお人好しがすぎる」なんてぼやいていたけれど、それは聞かなかったことにしようと思う。
 巻きこんでしまった私が言うことではないけれど、当事者が良いと言ったら、それで良いのだ。
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