螢惑は芥子に眠る | ナノ
願わくば幸あれ


すっぱりと、見事なまでに切られた頬の傷。翌日登校した神尾は、言い訳が出来ないでいた。
ガーゼを貼る事も考えたが大袈裟すぎる。かと言って転んだ拍子に切った、とは言い切れない大きさだ。

「立海の、赤城満?」

「はい。これが桃城達が赤城を怖がる理由だと。」

そう言ったのは、傷が痛みを訴えてから。満の神業を目で追うには、彼らは場数を踏んでいない。
満の詳しい事情を、知るはずもないのだ。後悔しか待っていない事も、知るまでは予想しない。
橘は些か難しい顔で、神尾の傷を見た。

「…杏が言った通りの傷、青学が怖がる立海の女子生徒か。」

「万年筆がどうとか…。」

「神尾もう忘れてんの?立海の赤城は、万年筆でニュースになった女子と名前も学校も同じってこないだ話しただろ。」

その赤を吸った満愛用万年筆が神尾にも使われた、とは思わなくても怪しむに足る材料だ。
満が本気ならば、全員が微動だに出来ない恐怖に戦慄しただろう。書ける切れる貫ける万年筆など、存在すら考えない。

「桃城は、缶切りでTシャツ切られたとか言ってたけど…有り得ねえだろ?」

「だが現実に、神尾の顔は意図的に切られたように見える。」

「杏ちゃんは無傷、桃城もボサッとしてたんだろ?どんな化け物だよ。」

そんな化け物です、と答えてくれる中学生は居ないだろう。
満と赤也の怒りに触れ、止め役不在で生きて帰れるなら人生における運を使い果たしかねない。

「…王者立海、神奈川でしたよね?」

「神尾、乗り込む気か?」

顔を強ばらせた橘に、神尾は頷いて応えた。初心者と言いながら圧倒され、女子に負けた事を雪ぎたい。

「負けっぱなしは性に合わないんで。」

「言うと思ったけど神尾さぁ、全国大会どうすんの立海も練習やるのが当たり前だろ。」

世間は夏休み、満と直通回線を持つのは杏しか知らない。県外だから、遭遇する事も難しいのだ。
橘を完膚なきまでに打ちのめした、二年生レギュラーの恋人。海堂も見た途端顔色を変えた。満の謎が深まる一方だ。

「下手な鉄砲数打ちゃ当たる、ランニングついでに神奈川まで行く。」

「神尾…こっちから立海の顧問に連絡が出来る。俺も行く。深司も出来れば来て欲しい。」

「…はい。」

善悪で、人間は判断出来ない。良き妻であっても、仕事では容赦ない者。良き父であっても、殺戮に荷担した者と枚挙に暇がない。そのどちらにも属さない者もいる。
満の一面、それもほんの僅かを見ただけで不動峰は動き出した。それが恐惶の序章。潔さは相応の力があって評価される。

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