汗ばんでぐったりとしたまま動かない名前を軽く叩いて起こせば、まだ怖いのか怯えたような虚ろな瞳で俺を見ていた。いや、正確に言えば俺ではない。彼女が見ているのはこの体、俺の兄貴・吹雪士郎のことだった。俺はそんな彼女の表情を見て、何とも言えない気持ちになった。

今の士郎は兄貴ではなくアツヤである俺なのに、正常な判断が出来る状態ではない名前にはつい先程まで自分を手酷く犯していた人物。つまりは恐怖対象にしか見れていなかった。俺は思わず唇を噛んだ。どんな形であれ兄貴は名前の中に深く刻み込まれている。その事実が苦しかった。


「名前、起きれるか」
「……アツヤ、くん…?」


俺は自分のそんな感情に気付かないふりをして、未だに士郎に怯える名前に声をかける。すると彼女は士郎ではなく俺だと言うことに気が付いたのか、掠れた声で名前は俺に問うた。それを肯定すれば今までぷつりと糸の切れた人形みたいに動かなかった彼女は、虚ろなその瞳に光を宿した。そして次の瞬間じわりじわりと目に涙を溜めていき、俺に縋るようにしがみついた。


「ごめっ…ごめんなさい…!」


私があんなこと言ったから。そう言って崩れ落ちるかのようにぐずぐずと泣きはじめた名前。俺の腰に巻き付く腕はまだ微かに震えていて、少しばかり力が篭っている。そんな今にも折れてしまいそうな名前に堪らなくなった俺は彼女を自分によっ掛からせると、そのまま赤子をあやすようにぽんぽんと背中を撫でた。腕の中で泣き止む見込みがない彼女に出来ることなんて限られていた俺は、ただ何を言う訳でもなく手を休めずに天井を見た。

恐怖に捕われていた名前が正気を取り戻し一番始めに言った言葉はごめんなさい。それも自分をあんなに追い詰めた士郎に対しての、労りと心からの謝罪。心配と愛情と色んな感情が巡り合わさったひどく心地のよい声音。俺は一層唇を噛み締める。


「…なあ、名前」
「…っ、…な、に…アツヤく…っ」


声をかければ途切れ途切れに、それでも気丈に振る舞おうとしているのか明るめの返事が返ってくる。俺はそんな名前に堪らなくなって重く閉ざしていた口を開く。いや、重く、だなんて嘘だ。いつからかこの言葉を俺は吹っ切れたように口にしていた。


「こんなやつ、別れろ。お前が危ない」


我ながら随分酷い弟だと思う。兄の愛している女に別れろと促すなんて。だが俺がそんな後ろめたい気持ちを感じながら、尚も彼女に説得をし続けるのは文字通り自分の兄が危険だからだ。

確かに兄貴は心底名前を愛している。だけど兄貴のその愛は深い。深い分、嫉妬も独占欲も酷いくらいに深く重たく彼女にのしかかる。好かれていない事の方が、浮気される事の方が断絶マシに見える程。それが本当ならどれ程よかったことか。

俺は名前に目を向ける。幾分か落ち着いて来たらしく、彼女は俺を赤くなった目のまま見上げた。その瞳にはほんの少しの戸惑いと揺らいでいるのに芯の通った強さが秘められていて、俺は思わず縋りたくなった。こんなにも健気な彼女に、縋りつき頼みたかった。兄貴と別れてくれと。だがそう童話や物語みたいに現実は上手くいかない。


「…出来ない、こんなにも私を愛してくれているもの」


そう言って目を伏せた名前は本当に綺麗だった。やっぱりいつものように切り返された。だから俺は彼女に縋り付けないでいる。馬鹿だなあ、こいつ。なんでこんな男を愛してるんだよ。慈悲と慈愛に満ち足りた憂いのある微笑を向けられ、思わず彼女の唇へ吸い付きたくなる。それは苛立ちからなのか欲情なのか。だがその微笑が俺に向けられたものではないのだと理解している以上、この微笑はただ俺の心を切り裂くナイフでしかなかった。


「でもその行き過ぎた愛がお前を傷付ける」


せめてもの抵抗とでも言うように俺は言葉を続ける。俺もつくづく馬鹿だよな。答えが分かりきっているのに、どうしてもほんの僅かなもしかしたらという希望に賭けて、毎度毎度飽きずにこの不毛なやり取りを繰り返す。そして毎回勝手に傷付いて終わる。正直、本当に馬鹿だと思う。

だけどこの馬鹿な行為を続ける自分を殺したくなくて、否定したくなくて、複雑な矛盾のループに駆られていく。今の俺はきっと情けない顔をしているに違いない。だがそんな俺を見て困った顔をして、名前は首を小さく横に振った。俺の心境など知らずにただ無情に。


「いいの、ありがとうアツヤくん」


そう言って思い立ったように立ち上がった名前。俺が訝しげな目を向ければ、お風呂入りに行ってくる、との一言。呆気に取られた俺はただああ、と小さく頷いてその小さくて華奢な背中を見送った。が、直ぐに名前が扉を跨ぐか跨がないかのところで思い出したようにこちらを向いた。


「…どうした?」
「…や、そういえば昨日結局お風呂沸かしっぱなしでおいだきしてなかったの思い出して」


歯切れ悪く苦笑いしながら言った名前に俺は辛気臭さを飛ばすように、大袈裟に溜め息をついた。といっても俺が一方的に辛気臭くなっているだけなのだが。

そんな俺の溜め息を呆れととらえたのか、名前は不自然過ぎる渇いた笑い声をこぼし、自分も溜め息をついた。俺はそんな名前の様子に何だか笑えてきて小さく噴き出す。俺の声が届いたらしい名前は困惑したように、若干不満げにこちらを見ている。何が可笑しいんだとまでは行かずとも、そこまで笑わなくてもいいじゃない。今の彼女の表情はそんなものだった。


「風呂なら沸いてる」
「え?!アツヤくんが?」
「おう、勿論」


そう言って笑えば名前は瞳をきらきらさせて俺を見た。俺が言うのもあれだが、本当によくころころと表情が変わる、感情的で豊かだなと思う。


「ありがとう、アツヤくん!!」
「いいからちゃんとあったまって来いよ」
「うん!」
「風呂上がったら、ココアでも煎れてやるよ」


そう言えば名前は感動したようにこちらを見た後、悟りを開いたような遠い目になり小さく呟いた。


「…アツヤくんくらいとは言わないから士郎くんもちょっとずつ家事とかやってくれれば…」


重過ぎる愛を名前に捧げ続ける兄貴は馬鹿だ。そんな兄貴から名前を守るふりして、心の底では奪ってしまいたいと思いひたすら不毛なやり取りを続ける俺も馬鹿だ。だが、この中で一番の大馬鹿者は兄貴を愛してしまった、俺の魂胆にも気付かない。酷い目に遭っても全く学習しないでまた禁句を無意識に口から零してしまう名前なのかもしれない。


「それでは苗字名前、本日もお仕事行って来まーす!」
「ああ、いってらっしゃい」


家を出る時の見送りは妻、
ではなく面倒見のいい吹雪




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