「ただい…」
「お帰りなさい、名前ちゃん」


がちゃりとリビングの扉を開けた私はがっくりと肩を落とした。その拍子にとさり、と私の肩にかかっていたショルダーバッグが床へと落ちる。何時まで経っても落ちたまま、ショルダーバッグを拾うことのない私を不審に思ったのであろう彼、士郎くんは読んでいた雑誌をやたらふりふりのフリルがあしらわれたエプロンを付ける自分の胸へと置き、踏ん反り返ったままの顔を少しだけ持ち上げた。

私のソファにどっかりともたれている彼はまるで家事をしていたようには思えない。此処で一つ確認しておこう。仕事から帰り疲れ果てた私とまるで我が物顔でくつろぐ彼。どちらがこの家の主でしょうか。はい、正解は彼ではなく私。完全に家事放棄しくつろいでいる彼ではなく、仕事からくたくたに帰って来た私なのだ。


「…ねえ、士郎くん」
「んー?」
「此処、私ん家」
「何今更当たり前のこと言ってるの?」


可笑しいなあ名前ちゃんは、とその眉目麗しいお顔を綻ばせくすくすと笑う彼。普段なら此処で頬を赤らめてしまう私だが、今日という今日は流石に…流石に許せなかった。仏の顔も三度まで。今の私には正にそんな言葉がぴったりだった。

有り得ない。一体何の為にそんな新妻を連想させるようなエプロンをしているんだ。その白いエプロンは飾りか、そうなのか。私はただただ白けた目で寝そべる彼を見つめた。沸々と沸き上がって来る怒りに私は思わずぴしゃりと自分で自分に水を打った。ダメダメ、怒っちゃ何も解決されない。

そう思った私は怒りに任せて彼に感情をぶつけるのを我慢し、リフレッシュする為にお風呂へと入ることにした。これならすっきり出来そうだし、頭も冷やせる。いくら士郎くんだって、お風呂位は沸かしてくれている筈。なんたって洗って自動ボタンを押すだけだし。なんて思ってた私がまだまだ甘かった。


「士郎くん、私お風呂入ってくる」
「えー、名前ちゃん夕飯はー?僕お腹空いちゃった」
「私がお風呂上がってから作りますから」
「やだ。お風呂沸かす間にちゃちゃっと作っちゃってよ」


何ですと?私は一瞬何を言われたのかが分からなかった。真っ白な頭のまま、口元に笑みを作ったまま、私は思考も行動も完璧に停止した。ただしぴきり、頭の何処かでそんな音が聞こえたのは確かだった。

何時ものように笑う士郎くんを余所に私はショルダーバッグをそのまま放り、リビングの扉を開けてすぐ左にあるお風呂場へと荒々しく向かう。ばんっという音を立てた私にリビングで士郎くんが何か言っているが、今の私にはただ頭にくる要因でしかない。私は早々に無視を決め込んだ。


「…っんと最悪、」


浴槽の蓋を開ければそこには冷めた残り湯がちゃぷりと音を立てた。私は無言で栓を勢いよく抜くとごしごしと浴槽を洗い始めた。そしておおまかに擦りシャワーでざっと落とし、また栓を嵌める。無言のまま一心不乱に。ぴっと自動ボタンを押せば「お湯張りをします」と言うアナウンスが鳴り、私はばんっと蓋を閉めた。その間5分もかかっていない。

そのまま濡れた手足をぱたぱたとタオルで拭き、洗濯機に入れようとした。が、そこで思わず立ち止まる。洗濯機の蓋が開いていないのだ。私は嫌な予感がしてとっくの昔にロックが解けた蓋を開けた。そこには今朝出勤前に私がかけていった回りっぱなしの洗濯物たち。私の中でぱりんと硝子の割れたような音がした。


「士郎くん、てめぇ!!」


どかりと勢いよくリビングの扉を開けた私にびっくりしたのか驚いたようにこちらを見る士郎くん。ああ、いつもならそんな表情レアだと思って心のシャッターを切るところなのに、今じゃそんな表情も憎たらしい。


「なっ…なぁに名前ちゃん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもねえよ!!てめぇ昼間一体何してんだ、この野郎!」


本当に使えない。そんな言葉を私は吐き捨て、怒りのあまり絶対に、どんなことがあっても。士郎くんに向かって言ってはいけない一言を言ってしまったのだ。


「アツヤくんなら料理に掃除、何だってやってくれるのに…」


その瞬間私の体は大きく崩れ、鈍い音を立てながら頭を床に打ち付けた。あまりの痛みに一瞬悶え、ぐっと堪えるように目をつむる。するとそれをいいことに私の手首は頭上で意図も簡単に拘束され、そのまま荒々しく噛み付くように唇を貪られた。太股の間を脚で割られ、息苦しさもあり動くことも抵抗すら出来なかった。

アツヤくんとは時々士郎くんから出て来る、士郎くんの中の昔亡くなってしまったらしい弟の人格だった。その時の彼は全く別人で、少々荒々しい、穏やかな士郎くんとは全く違った印象ではあるが性格が不器用なだけで、家事も出来るし優しい男の子だった。だからだろうか。私は士郎くんがアツヤくんにコンプレックスを抱いていることを知っていた筈なのに、怒りのあまり士郎くんが一番傷付く言葉を言ってしまったのだ。


「んっ…はっ…」
「…ねえ、何で?何でアツヤなの?名前ちゃんはアツヤが好きなの?名前ちゃんもアツヤが必要なの?俺は必要ないの?」


そんなの、赦さない。鼻と鼻が触れ合う位置で言われる。士郎くんは私を見ている筈なのに、その深緑色は底が見えない程に暗くて私は思わず息を呑んだ。ああ、どうしよう。私、とんでもない、取り返しの付かないことしちゃった。

確かにアツヤくんと士郎くんをコンプレックスだと分かっていて比べてしまった私も悪かった。だけど、そんな私に家事も仕事もしろと?というよりなんであんなことからこんな重いことになっちゃったんだろう。
私は数分前の自分を怨みつつ、お風呂が沸いたことを知らせる軽快なメロディを聞きながら、そのまま諦めて潔く士郎くんに身を委ねたのでした。


家に帰ると妻、
いいえ、まるで駄目な吹雪がいます




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