「無い」
無い。無い。無い。無い。鞄の中、ポケットの中、財布の中。念の為駅から家まで歩いてきた道筋を辿ってみても。どこを探しても。それは無かった。私は夜も更け通りを歩く人もいない時間、自分の家の前で立ち往生した。仕事が定時に終わらず残業。華の金曜の夜、電車も座席を奪うことはできず。身体の疲労は尋常ではなかった。明日の休みは何をしようとりあえず家に帰ったらさっさとお風呂に入ってテレビでも見ながら一杯やろうとぼんやり帰宅し、やっと我が家に帰り着いたのはいいのだが。
「鍵がない!」
家に入るための、鍵を私はどうやら紛失したらしい。有り得ない。ちゃんと鈴もつけて落としたら気付くようにしているのに。それ程までに私は疲れていたというのだろうか。これも年か。そんな事を言っている場合ではない。これからどうするか。やはり打倒なのは緊急鍵屋に頼んで来てもらうか。しかしこんな時間にやっているのだろうか。やっていなくてもマンガ喫茶という手もあるがお金が些か勿体ない。とりあえずもう一度駅前に出ないことにはどうしようもない、と私が頭を抱えていると。
「あれ、こんばんわ」
声が聞こえて振り返ると、そこにはお隣りの神威さんが立っていた。ロンTとジーパンというラフな姿で片手にはビニール袋が持たれている事から、恐らくコンビニにでも行っていたであろう事が窺える。
「あ、こ、こんばんわ」
「お姉さん、今帰宅?頑張るねえ」
「どうも」
にこにこと、相変わらずな笑みを浮かべている彼は言いながら自分の部屋の鍵を開けた。その手元がとても輝いてみえる。ああ、それさえあれば私も今頃ベッドで寛げているはずなのに、と自分を呪い鞄を持つ拳に力を篭めた。
「…入らないの?」
いつまでもドアの前に立って動こうとしない私を、男は不思議そうに首を傾げた。入れるものなら私だって入りたい。彼、名前は神威だったか。とにかくこの男と話す気などさらさら無い。それに鍵をなくしたなどそんな恥ずかしい事言えるはずも、
「もしかして鍵が無い、とか?」
なんで気付かれたァァァァ!!唐突な図星発言に思わず肩を跳ねさせ視線を泳がせる私。
「なーんて、そんな訳無いか。それじゃ」
しかし男はそう言って自分の部屋の中に入って行った。突っ込まれなくて安心したものの心のどこかで彼が助けてはくれないか、と思っていたのか、私は何だか裏切られたような気持ちで肩を落とした。視界に入ったドアノブを回してみるもそれが開いてくれる訳もなく、大きな溜息をつく。
「はあ、やっぱりマンガ喫茶コースかな」
ぽつりと呟きドアノブから手を離すと、不意に視線を感じ。そちらを振り返れば、先程部屋に入ったとばかり思っていた男が薄く開いたドアからこちらを見つめていて、ギクリとした。
「やっぱりなくしたんだ」
この分だと今の独り言も行動も見られていたに違いない。くすくすと笑いながらそう言う男に私は最早何も言えず、恥ずかしくなって俯いた。すると男は改めてドアを開き、クイと親指で自分の部屋の中を指した。
「泊まってく?」
その言葉に目を丸くする。そこで私は少し考えた。確かにこの時間鍵屋はやっていなさそうだし、マン喫で過ごすよりは遥かに安上がりだし身体も疲れないだろう。しかしあまり面識の無い男の部屋に泊まるというのはやはり普通に気が引ける。でも、まさか壁が薄く防音もしっかりしていないこんなアパートなんぞ、何かあったら叫んでしまえば実際すぐに筒抜けだ。多少の下心があったとしても私も処女ではないし、今更貞操が!という気も無い。それより私の疲労しきった頭は、楽・安い・疲れない事を優先させた。
「いいん、ですか?」
「いいよ。こないだの肉じゃがのお礼もしたいし。荷物整理まだ終わってないけどね」
そして私は多少の遠慮をしながら彼の部屋にお世話になることに決めた。

20100629 / 隣人
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -