あれから。
「太公望様、おやつをお持ちしました」
「おお、気が利くのう!」
太公望様の専属雑用になってから数日が経った。雑用と言っても書類を届けたり、おやつを用意したり、お話相手になったりと。以前に比べたらお仕事は格段に楽になっていて、こんなものでいいのだろうかと心配になる程である。
そして今日も私は、彼の大好きな桃をおやつに差し入れた。嬉しそうに書類整理の手を休めて振り返る太公望様を見ると、こっちまで嬉しくなってしまう。ソファに腰掛けて、彼は早速桃を口に頬張った。
「うむ、美味い」
にこにこと子供のように笑う太公望様。その姿を見詰めていると、自然に頬が緩んでいった。道士様で、実年齢は70歳を超えていると聞いたがとてもそういう風には見えない。こういう子供のような笑顔も、不意に見せる憂いを帯びた表情も、やはりとても好きだ。彼はこの華奢な方に一体どれだけの責任を負っているんだろう。私にはその重さを到底知り得る事は出来ないけれど、少しでもそれの助けになれたら…
「名前!」
は、と名前を呼ばれて私は顔を上げた。目の前には怒ったように私を見詰める彼の顔。
「あ、え、」
「お主も座れと言っておる。なにをボケーと突っ立っとるのだ」
「す、すみません、失礼します太公望様」
いつの間にか上の空になってしまっていた事が恥ずかしくて、慌てて彼の隣に腰を降ろした。お皿の桃に目をやれば、既に一個彼のお腹に入ってしまっているようだ。
「…太公望様」
「む?」
「何故、私なんかを専属になさったのですか?」
ずっと、聞いてみたかった事を私は口にした。こないだ彼の言う通り翌日に通達が来て、太公望様自らが望んだ事だと聞かされた。それは一体どういう意味なのか。あの日、彼は私の想いをまるで知っているかのような素振りで。そして自惚れかも知れないけど、まるで彼も同じ気持ちでいらっしゃるような口ぶりだった。しかしあれから何か関係が変わる訳でもなく、むしろ私のお仕事が変わって役立たずになってしまったかのようにも感じる。最初は太公望様のお傍に居られることが嬉しくて浮かれていたけれど、私が此処に居る意味が、正直いまいち分からなかった。
「うーむ」
困ったように頬を掻く太公望様。してはいけない質問だっただろうかと、早くも少し後悔した。
「すみません、余計な事を…」
「いや、構わんよ。名前にはそれを聞く権利がある。このままで居ようというわしも、ちと卑怯だったわ」
「そんなこと、」
首を振る私の頬に、太公望様の手袋を取った掌が触れた。どきりと心臓が鳴る。そして、
「わしは、お主を好いておる。名前」
はっきりと、彼は口にした。真っ直ぐとぶつかる視線に私は捕らわれた。ずっと想いを寄せていた太公望様からまさかそんな言葉を貰えるなんて。いいとこ、暇潰しだと思っていたのに。彼がそんな事をするとは微塵も思っていないけど、でも太公望様ならそれでもよかった。それなのに、彼は今、私を、
「す、き?」
「うむ。好きだよ、名前」
改めて耳に届いた言葉に、目頭が熱くなっていく。嬉しくて、夢みたいで。そして涙はついに頬に流れた。その雫を、彼の親指が拭う。無意識のうちに、私はその掌に頬を寄せた。
「、本当、ですか?」
「心外だのう、冗談でこんな事を言う奴だと思っておるのか?」
「い、いえ、でも、」
慌てて首を振る私を太公望様がくすりと笑う。この笑顔が、私は大好きだった。でも、その口から私は衝撃的な言葉を聞くことになる。
「しかし、お主の気持ちに応えてやることは出来ぬのだ」
「、え?」
ざわりと心臓が揺らいだ気がした。天国から地獄とはまさにこの事なのだろうか。先程とは違い思い詰めたような笑みを浮かべる彼に、私は何も言えず見詰めた。彼の言っている意味が、よく分からなかった。想いが通じ合えたということではなかったのだろうか?
「わしには、やる事がある」
するりと、彼の手が離れた。それがやけに寂しく感じて、また涙が零れた。そして更に彼は言葉を続けた。
「何千何万もの人の願いと命を、わしは預かっておる。やらなければならない事がある。それが終わるまでは決して他に目を向けてはおれぬし、振り返ってはいけぬ、うつつを抜かす訳にもいかぬのだ」
これはわしが全てひとりで、やらなければいかぬ事なのだ、と、眉を下げて太公望様が笑った。その表情はとても儚くて、今にも泣いてしまいそうな程儚くて。彼の肩にかかっている重みが、彼を押し潰してしまいそうで。けれど彼は、
「私では、支えにはなれませんか」
誰かを巻き込むつもりなど無いと、そう心に決めているのだろう。意地悪な質問をしてしまった私に、またひとつ彼が小さく笑った。
「何度でも言おう、お主の気持ちには応えてやれぬ」
ぼろぼろと、私の目から涙が零れる。どうして、どうして彼がここまで追い込まれないといけないのか。どうして彼はここまで自分を追い込むのか。私なんかより、彼が泣きたい筈なのに。
「だが、わしはお主を好いておるのだ…」
とても苦しそうに、彼が表情を歪めた。
「お主の気持ちには応えてやれぬが、ただ傍に居て欲しい。…わしの我が儘を、許してはくれんかのう」
そんな風に言われたら、私が断れるわけが無いのに。きっと彼は分かっているのだろう。生まれつきの頭の勘で。彼はとても、狡い人だから。
「狡い、です。太公望様」
そっと、彼の胸に頬を寄せた。
「名前に傍に居てもらう為なら、そう言われるのも厭わぬよ」
困ったような口ぶりで言う彼の胸の中で、私は泣いた。
「全てが終わったら、名前、その時は、」

20100525 / 狡いひと
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テーマ「人外ファンタジー」
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