かちゃかちゃかちゃ
私以外だれもいない広く薄暗い台所に、食器同士がぶつかる音と水の音が響く。
「ふう、」
と、手の甲で落ちてきた前髪を掻き上げた。
私はここのお城で働く女中。といっても下っ端も下っ端で、ただの雑用のようなものだけれど。多くの人が居るこのお城は常に人手は足りておらず毎日忙しない。今日も雑用係の私はなかなかに量のある食器の片付けに追われていた。ふと窓の外に目をやればそこに人の気配がある訳も無くて、どこからか虫の声が聞こえてくるのみだ。一体いま、何時くらいなんだろう。この忙しさでは最早時間の感覚なんてない。とりあえずもう夜も遅いということだけは分かる。
一旦手を休めて、水を止めた。目の前の両手は多い水仕事のせいで肌が割れている。女の子らしくないと、少しがっかりした。
どうしてここまで必至になってこのお仕事を続けるのか。それには理由があるのだ。
「太公望、様」
そう。ここのお城の軍師として働いている太公望様のため。彼の人柄に想いを寄せてここで働くことを決意した。まだ下っ端の私は彼と接することなんてほとんど無いけど、遠くから見ているだけでも幸せだった。そして少しでも力になれればと。
「今、何をしてらっしゃるのかしら」
そんなこと決まっている。太公望様はのらくらとしている風に見えて人の見ていない所で全てを終わらせようとする方だから、きっと今も徹夜でお仕事をしているのだろう。
「よし、」
私なんかよりも全然酷な状況であの人が頑張っているのだから、簡単に根を上げる訳には行かない。と、私は止めていた手を再び動かした。その時、
「のう、そこのお主」
よく知る声が台所に響いた。いきなりの事にびくりと肩を揺らして振り向けば、そこには先程まで考えていた張本人の姿。
「、太公望様!」
思わず声を上げると、彼は少し疲れたように微笑んだ。どきりと私の心臓が高鳴る。
「こんな時間にすまんのだが…軽い夜食でも作ってくれんかのう」
夜食。やはり太公望様はこんな時間までお仕事をなさっているようだ。思い返してみれば、夕飯の時に彼の姿は無かった。こんな疲れた顔をしているのは珍しい。何か難しい問題でもあるのだろうか。私はこくりと頷いて見せた。せめてこういう時だけでも、彼の役に立てるのならばと。
「はい、今すぐに!お部屋で待っていてください、持って行きますから」
「よろしく頼むよ」
そう言ってまた微笑む太公望様に、胸が熱くなった。台所を出て行く彼の背中を見つめながら、よし、と自分に気合を入れた。


コンコン、
暗く静かな廊下に、扉をノックする音が妙に響き渡る。手に持ったお盆からは出来立て料理のいい香り。深夜だし、あまり胃に負担にならないものを作った。太公望様の為に、頑張った。
「開いておるよ」
少し待つと中から声が掛かり、私はゆっくりと扉を開いて部屋を窺った。彼の部屋に入るのは初めてで正直とても緊張している。無駄な私物はなく少し寂しい印象すら持てる部屋の中心にある机、その上に散らばる書類の山の向こう側に太公望様の姿はあった。
「失礼、します」
おずおずと中に入って、執務机とはまた別の机に料理を置く。後ろで彼が立ち上がりこちらに歩み寄ってくるのが気配で分かった。
「美味そうな匂いだのう」
「お口に合うか分かりませんが…」
先程より幾分か、声のトーンが上がっている。それほどお腹が空いていたのだろうか。
「お主の料理は美味いよ」
その言葉に私の思考は一瞬で全てを奪われた。
「え、」
「いつも皆の夕飯を作っているのはお主であろう」
かあ、と顔が熱くなった。まさか私が作っているなどと、彼が知っているなんて思わなくて。武王様達と楽しそうに食事を摂る彼の横顔を見つめながら、不味くはないだろうかといつもハラハラしていたのだ。
「なぜ、知って、…」
こんなしがない雑用係の事など、彼の頭には欠片もないと思っていたのに。無意識に問いかけを口にしていた。しかし彼は、小さく微笑むのみでそれ以上は何も言わなかった。全てを見透かしているような、優しいその眼差しに私の心臓は早鐘を打っていくばかり。やがてその視線にどうにかなってしまいそうな気がして、慌てて視線を逸らした。
「え、と、それでは、食器は後で取りに参りますので、部屋の外に、」
ガタン、と。
室内に大きな音が響いた。私がお盆を落としてしまったのだ。ガラガラとお盆が転がる音がやけに耳についた。続いて今の状況を頭が理解して、どきどきどきと心臓が大きく暴れだした。そして自分で自分に問いかける。どうして私は今、彼の腕の中に居るのかと。
「、た、たい、」
口がうまく回ってくれない。目の前がくらくらする。やがて、耳元で太公望様の声が聞こえた。
「何故知っておるか、そんなもの答えはひとつであろう」
いつもより低い、声。男の色の乗った、声。常の調子の軽いそれでは無くて、動揺した。そして夢のようなことを、彼は更に私に言ったのだ。
「わしもお主を見ておったからだ、名前」
私の名前を知っていてくれたとか。私が彼をいつも見ていたのがバレていたとか。太公望様が私を見ていたとか。いろんなことが頭の中をぐるぐる回ってなんだかもうよく分からなかった。ひとつ分かったのは、腰にある彼の腕に力が篭ったこと。そして不意に太公望様が私の顔を覗き込んできた。そしてにい、と子供のような笑みを浮かべる。
「お主、ずっとわしを見ておった癖に気付かなかったのか」
この人は、どこまで私の体温を上げれば気が済むのだろうか。赤くなった顔を隠すように俯けると、腰にまわされた腕がするりと離れた。
「さて、冷めないうちに頂くとするかのう」
満足したように背中を向けて椅子に腰掛けた。
「、た、太公望様」
「おお、そうだ忘れておった」
思い出したようにこちらを見る彼は、すっかり元の調子に戻っているようだった。
「お主には来週からわし専属で働いてもらう。明日辺りに通告がいくであろうよ」
当然のことのように言ってのける彼に、私はいよいよ何も言えなくなってしまった。
「今度からはすぐ傍で、わしの事を見ておれよ」

20100525 / すぐ傍で
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