静雄さんが、泣いていた。
実際に涙を見たわけではないけれど。あの日私に向けたあの背中は確かに泣いていた。
静雄さんを騙していた私を、それでも愛してると言ってくれた。
(ごめんなさい)
その真っ直ぐで綺麗な静雄さんの想いに、最早臨也さんに蝕まれてしまっている醜い私は応えることができなかった。しかし静雄さんによって確かに心が満たされていく自分に、それでも臨也さんから離れられない自分に、吐き気がする。
(何が正しいかなんて、もう)
いつだったか、臨也さんが教えてくれた自殺の名所といわれているビルに来ていた。そこから見えるのは暗がりの路地裏。地面が赤く淀んでいるのは、今まで何人もそこに打ち付けられた証だと彼が言っていた。それはそれは楽しそうに、いつものように綺麗な笑顔を浮かべて。
「さよなら」
叶わない想いをこの胸に抱きしめて。私は、ビル風に煽られるままに屋上を飛び立った。これから訪れるであろう衝撃に強く目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、あの人の笑顔。


「名前!」
「、!」
固いコンクリートへ打ち付けられる筈だった私の身体は、違う衝撃と共に温かい両腕に抱き留められた。
「静雄、さん?」
顔を上げればそこにはどこか焦りの表情を浮かべた静雄さんがそこに居て、私は状況が理解できずに瞬きを繰り返した。
「っの、馬鹿野郎!」
私の肩を強く掴んで叫ぶ静雄さんに驚いて目を見開く。彼がここまで声を荒げるなんて、初めて見た。
「俺が間に合ったからいいようなものの、くだらねえ事してんじゃねえ!」
どこか泣きそうな顔で彼は言う。助けられたんだ、と私は漸く自覚した。
「どうして、ここが」
「知らねえアドレスからメールが来やがった。ここに呼び出されて、お前が関わってるっつうから何かと思って来てみりゃ…」
「知らない、アドレス…?」
「んな事はどうでもいい。…良かった、間に合って」
心底安堵したように詰まった息を吐く静雄さんに、私はきゅうと胸が締め付けられた。自分が辛いからとはいえ、何をしでかそうとしていたんだろうと。屋上を見上げてぞくりと背筋に冷たいものが走った。
「悪い」
「え?」
「…お前がそこまで考えてたって、気付けなかった」
抱きしめてくる両腕が小さく震えている。いつもの力強い筈の彼がどこか弱々しく感じて、私はそっと両手を背中にまわした。
「しず、」
私の言葉を遮るようにそっと額に唇が押し当てられて顔を上げると、泣きそうな目と視線が交わった。
「好きだ、名前」
真っ直ぐと見詰めてくるその双眸に捉えられ胸が熱くなっていく。今までも何度かこの感じは経験したことがある。それは、
「静雄、さん」
この人が好きだ、と、心が言っているのだ。
「この気持ちが重いなら、もう言わねえ。臨也の野郎は、まあお前が何言っても殺すけど、…お前が辛いな、」
今度は。私が彼の言葉を遮って口付けた。僅かな間の後、小さな水音を立てて離れる唇同士。
「、名前?」
「静雄さん、ありがとうございます」
どこまでも、真っ直ぐに。私を想ってくれる彼に、目頭が熱くなって肩に顔を埋めた。
この人と居たら、私は幸せになれるだろうか。臨也さんを忘れて幸せになっても、いいのだろうか。…この人なら、受け入れてくれるだろうか。
「…私も、静雄さんが、」



「実に滑稽だわ」
「どうしたの波江。また弟くんにでも何かあった?」
「そうして誤魔化す貴方がよ。滑稽過ぎて反吐が出るわ」
「それ俺の決め台詞だから。真似しないでくれるかな」
「少しは私を見習ってみたらどうかしら」
「それ、俺に犯罪者になれって言ってるのか?」
「馬鹿な男」
まあ、私には関係無い事だけれど。と、“奈倉“の名で送信されたメール画面を閉じた。

20110409 / 歪み愛
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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