名前は、ただただ静雄を待ち続けていた。
もう間に合わないであろう事が分かっていても。
目の前に用意したケーキと食事を、ただただ見つめながら。


「静雄、静雄」
名前を呼ばれた人間の上司、田中トムは酒に侵され覚束ない足取りで静雄に近寄り肩を揺すった。静雄はその行動で少しずつ意識を浮上させてゆっくりと瞼を持ち上げた。霞んだ視界に写る上司の姿に静雄は慌てて身を起こすも、同時に襲った鈍い頭の痛みに目の前を眩ませる。
「う、」
「おいおい、大丈夫かよ。ちっと飲ませすぎたか?」
「いや、大丈夫っす」
「まあ年に一度の誕生日だ。無礼講無礼講」
「あざっす」
けらけらと楽しげに手を振るトムに静雄は頭を下げた。その言葉で、先程まで自分の誕生日を祝われ事務所でそのまま眠ってしまったのだという状況を思い出す。辺りを見回せば共にしていたヴァローナが眠る姿と転がったおびただしい量の酒の缶、昼間に知り合いや弟から渡されたいくつかのプレゼントが目に入った。
こんな自分の誕生を祝ってくれるような人間が居る。その実感が彼の胸を占めて静雄は知らず頬を綻ばせた。
「…すんません、寝ちまったみてえで」
ソファに腰掛けるトムに謝罪を述べれば、いいよ、と言ってまた手を振られた。静雄はとりあえずこの働かない頭を起こそうと煙草に手を伸ばし、トムからプレゼントで貰っていたジッポで火を点した。静かな部屋に金属音の心地好い音が響き、男は身体に染みるニコチンに目を細める。
ふとテーブルに置いたままの携帯が目に留まって手を伸ばし、それを開いた。瞬間、心臓が鷲掴まれるような衝撃が静雄を襲った。同時に持ったままの煙草から灰が床に落ちる。
それを見たトムが呆れたようにテーブルのガラス灰皿を彼に差し出した。
「おい静雄、煙草。…静雄?」
携帯を見詰めたままぴくりとも動かない静雄を不審に思ったのか、顔を覗き込もうとすれば男はすっくとその場を立ち上がった。
「うおっ、」
「すんません、俺、ちょっと急用思い出しました」
ガサガサと慌てた様子で散らばった缶を集め、ゴミ袋に詰めていく。珍しく焦った様子の静雄にトムは苦笑した。
「…いいって、急ぐんだべ。そんなもん俺がやっとくから行ってこい」
「す、すんません」
トムの言葉に申し訳無さそうに頭を下げると今度は紙袋に貰ったプレゼントを詰め、サングラスを耳に掛ける。
「本当にすんません、今日はありがとうございました」
「おう、お疲れさん」
何度も何度も頭を下げる男に、トムはひらりと手を振った。


静雄はただただ走った。
とにかく一分一秒でも早く、目的の場所へ辿りつく為に。
普段この力を疎ましく思っていた静雄だが、この時ばかりはこの常人離れした身体を有り難く思ったことは無い。
先程開いた携帯の時計が示していた時間は午前2時を回っていた。自分の誕生日が終了してから既に二時間も経過している。しかしそこは大した問題では無い、いや、問題では有るのだが、それよりも一度だけ、たった一度だけ携帯に残されていた着信履歴に静雄は肝を冷やした。
苗字名前。それが表示されていた名前だった。
静雄は失念していた。昼間、彼女である名前から今夜は家で待っているとメールが届いていた事を。厳密に言えば忘れていたというより、酒のせいで眠ってしまった事に問題があるのだが。
「くそ、名前っ、」
ギリと、静雄は奥歯を噛み締めて地面を駆けた。


がちゃがちゃ、
静雄は息を切らして自分の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。普段は大した手間にならないこの動作がやけに時間が掛かり小さく舌打ちをした。ようやく扉を開けてどたどたと中へ入れば、そこには机に伏せて眠る名前の姿。
肩で大きく息をしながら静雄はその小さな背中を見詰める。
「名前」
月明かりで照らされる名前の姿に、静雄は眉を顰めた。持っていた紙袋を床に置き、ゆっくりとその背中に歩み寄りそっと肩に触れる。顔を覗き込んでみれば閉じていると思われた名前の双眸がしっかりと自分を捉えていて、静雄は息を詰まらせる。
「…お帰りなさい」
ぽつりと声を発しながら名前はゆっくりと上体を起こし、乱れた前髪を整えた。
「起きてたのか」
「はい」
「…悪い」
怒っているとも泣いているともとれぬ名前の表情に、静雄は困惑した。素直に謝罪を述べれば、再び名前の双眸が自分を映した。
「私が、勝手に待っていただけですから」
「いや、俺が」
「ケーキ、静雄さんの好きなのを買っておきました」
「え、」
「ご飯も、静雄さんの好きなものたくさん作りました」
ぽつりぽつりと言葉を並べる名前を、静雄はただ見詰めた。
「お腹いっぱいなら無理して食べなくていいので、…お仕事お疲れ様です」
「あ、いや」
「お酒飲んでたんですよね。匂いがします。お水飲みますか?」
自分を責めるでもなくただ穏やかな口調でその場を立つ女に、静雄は胸が締め付けられた。台所に向かうその背中を追いかけ、静雄は両腕でしっかりと抱きしめた。同時にびくりと揺れる肩に男に後悔の念が押し寄せる。
「…悪かった」
「…」
「名前、忘れてた訳じゃねえんだ。トムさんが誕生日祝ってくれるっつって、いや、言い訳してえんじゃなくて、」
しどろもどろに告げる静雄に、名前はくすりと笑みを零す。腹を抱く大きな手にそっと自分の手を重ねた。
「…いいんです。トムさん、大事な先輩ですもんね。お断りするなんて出来なかったんでしょうし」
「いや、…まあ、そのな」
「大事な人を大切にする静雄さんが、私は好きです。断って私のところに来てくれても、それはそれで複雑ですし」
終始穏やかに話していた名前の語尾が少し震えたのを、静雄は聞き逃さなかった。
「、だから、全然、平気です」
折角恋人が楽しい誕生日を過ごしていたのだから我が儘を言わないようにしようと決めていた名前の瞳からついに、ぽろぽろと涙が零れた。
「名前」
ぎゅうと抱きしめる腕に力を篭める。
「…なあ、ケーキ、食っていいか」
「え?でも…」
「これからが本番だ。俺の誕生日、今日だから」
真剣な表情で言う静雄に、女はきょとんと目を丸くした。自分を慰める為とはいえ子供のような事を言い出した静雄にたまらず笑みが漏れる。
「なんですか、それ」
「うるせえな。今日ったら今日なんだよ」
くすくすと笑う腕の中の恋人にさすがに無理があったかと、ようやく見れた笑顔に安堵しつつも静雄は視線を逸らした。
「ふふ、分かりました。じゃあ、ご飯温めなおします」
「と、その前に」
楽しげに言って腕から抜けようとする名前の頬を包み、静雄は額を合わせて至近距離で顔を覗き込んだ。
「え?」
「お前から言ってもらえねえと、始まんねえんだけど」
「あ、」
言葉の意味を理解して、下りてくる唇にゆっくりと瞼を閉じながら名前は頬を緩ませた。
「お誕生日、おめでとうございます。静雄さん」

20110128 / 0128
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テーマ「人外ファンタジー」
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