「名前さーん!」
最早聞き慣れてしまった小気味いいその声に、名前はげんなりと溜息をついた。
「名前さん!今日もキュートで可憐でお美しい。どうして名前さんはそんなに輝いているんだ。こんなどんよりとした天気の中でも名前さんは一際輝いてこの街を照らし、ふがっ、」
「もううるさい恥ずかしいから止めて」
「そんなツンデレな所も好きだぜ、名前」
何を言っても止まる事を知らない正臣の口に、名前は再度溜息をついた。
「君は学校じゃないの?」
「何言ってるんですか!名前さんがバイトの日にここに来ないなんて愚考の極み!嵐になろうと彗星が堕ちてこようと俺は此処に来ますよ」
(彗星ってのが意味が分からないけど)
身振り手振りで楽しげに話す男を見詰めながら、名前は持っていた携帯パンフレットを脇に抱え直した。名前は此処、池袋で携帯ショップの販売員として働いていた。ある日街にナンパに来ていた正臣に一目惚れされたのはもうかなり前の話になる。
それ以来女がバイトの日は、男はこうして必ず名前に会いに来ているのだ。
(ていうか何で私がバイトの日知ってるんだろう)
そこにある情報屋が介入している事など、勿論女は知らない。
「名前さん名前さん、今日は何時までっすかー?」
「何でそれを言わないといけないの」
「プリンスがプリンセスを夜会に誘うのは当然でしょう!」
可愛らしい顔で覗き込んでくる正臣に、もう何度目かも分からない溜息を名前は吐いた。
「あのね。何度も言ってるけど、私もう24だよ。君は高校生でしょ?」
「もう聞き飽きましたよー」
「じゃあもう此処には来ないで。仕事中だし、彼氏だっている」
「浮気、ってのも結構燃えるな」
「な、」
「ってえのは冗談で、俺結構本気なんすよ」
不意に真面目な表情をしてみせる男に、名前は口を噤んだ。正臣は自分の武器を知っていた。ずるい所だ、と名前は思った。なにも答える事の無い名前に正臣は大袈裟に溜息を吐いてみせた。
「やっぱ駄目かあ。ま、そう簡単にうまくいってもつまんねえけど。名前さん、7時には終わりますよね。そん時また誘いに来ますんで!じゃ!」
「え、正臣くん」
早口で捲し立て、名前の返事を聞くよりも早く正臣はぶんぶんと手を振りながら人込みの中へと消えていく。
(だから、何で知ってるのよ)
そこには肩を落とした名前の溜息が残った。


「げ、雨」
校舎から出た正臣は大きな水の粒をとめど無く落とす淀んだ空を見上げてがっくりと肩を落とした。天気予報では確か一日晴れだった筈。置き傘置き場を見れば一本だけ残っているそれを手に取った。
「ラッキー。って、ピンクかよ」
この際我が儘は言ってられない。今日の予報ではきっと名前も持っていないだろう。あわよくば家まで送らせて貰おう。そう考えて正臣は頬を緩ませ、雨の打つ地面を駆け出した。名前に会える楽しみから弾む胸を抑えながらも行きなれた仕事先へ向かった正臣だが、そこに目的の彼女の姿は無かった。上がった息を整え、店内を見回すもやはり見つからない。名前と一緒にいつも居るバイト仲間に尋ねてみれば、既に彼女は帰ったという。

「…ちぇ」
相手が自分を待っている筈は無いと理解しながらもどこかで期待していた男は、最早用の無いショップを後にした。
「どうすっかな、帝人も今日は用事あるっつってたし」
このまま帰る気にもなれず、正臣は持っていた傘を手持ち無沙汰に回しながらあても無く歩く。
「…!、!」
そんな中ふと耳についたのは、荒ぶる女性の声。視線を滑らせれば、路地裏の奥で何やら言い合っている男女の姿があった。
(んだ…?痴話喧嘩かよ)
くだらねえ、と視線を前に戻そうとしてある事に気付いた正臣はぴたりと足を止める。
そこにあったのは、今愛しくて仕方の無い名前の姿だった。男に腕を掴まれ、涙を流している。更に見逃せないのは、男の腕に巻かれていた黄色い布。自分が作り上げた集まりの象徴であった。暫し眉を顰めてその様子を見詰めていたが、どうやら名前の尋常で無い様子に正臣はついに足を踏み出した。
「なーにしてんだ?」
妙に間延びした声を、正臣は路地裏に響かせた。二人の視線が正臣に向けられる。
「可愛い女の子と路地裏でひっそり逢瀬なんて羨ましい事してんじゃん。ただ女の子が嫌がってると俺は見た。ちょーっと悪趣味なんじゃねえの?ま、興奮はするけどな」
口調はいつもの軽いそれだが、僅かに低くした声の男は完全にチームの前で見せるリーダーのものだった。名前は涙で歪む視線の先に正臣の姿を認識すると、驚いたように目を見開いた。
「正、臣く」
「将軍!何で此処に…!」
自分が名前を紡ぐよりも早く、聞き慣れぬ名で正臣を呼ぶ男に名前は更に驚く。当の呼ばれた本人はその名を声に出された事にぴくりと眉上げてみせた。
「っはは、何で俺が此処に居るか?それはな、俺がプリンスだからだ下衆野郎」
言葉が終わると同時に正臣の力の篭められた拳が、男を殴り飛ばした。次いで、落ちた傘がばさりと音を立てる。喧嘩には定評のある正臣のまともな拳を受けたことによって、男は意識を手放していた。その様を見下ろす正臣の顔に既に笑みは無い。
「正、臣くん」
ぽつりと呟かれた名前の声に、正臣はハッと顔を上げた。取り繕うように常の人懐こい笑顔を浮かべて向き直る。
「大丈夫っすか?いやー、まさかこんな所で名前さんが絡まれてるとは!流石の俺もちょっとびっく、」
名前が、正臣の身体に飛びついた。正臣は思わず言葉を途切らせ、身体を硬直させた。
「、名前、さん?」
情けない、と正臣は思った。女、喧嘩や様々な状況には慣れているつもりの自分だが、想いを寄せる相手に抱き付かれただけでこうも声が上ずってしまう自分が。高鳴ってしまう心臓に静まれと頭の中で命令を送りながら、胸に顔を埋める名前の表情を窺った。そして告がれた名前の言葉に、男は更に驚く事となる。
「彼氏、なの」
「え、」
「彼氏なの、この人」
大きく、目を見開いた。正臣の頭の中では、見知らぬ男に襲われている名前という式が完全に出来上がっていた。しかし違った。名前は確かに彼氏だと言った。それでは本当にただの痴話喧嘩であったのではないかと、自分の行動を早くも後悔した。しかしそれよりも、まさか相手の恋人が自分の率いるチームに居たなどと、正臣の胸に複雑な心境が渦巻く。
「…すんません、俺、てっきり」
謝罪の言葉を口にする正臣に、慌てて名前は胸の中で首を振った。髪についた雨の雫が飛ぶ。
「ちが、違うの、ありがとう、正臣くん」
「え、」
まさか礼を言われるなどと思わず正臣は目を丸くした。
聞けば名前は、男と別れる為に会っていたのだという。日々金をせがまれ、果てには借金の肩代わりまで持ち出され。しかし別れを切り出せば強引にどこかへ売られそうになる始末。そこへ正臣が助けに入ったのだった。
ぽつりぽつりとそこまで言葉を紡いだ名前を見下ろしながら、正臣は安堵の息を漏らした。
「そう、だったんすか」
こくりと控えめに頷く女の身体をそっと抱き締めた。小さく震えている事に気付いた正臣はまるで幼子にする手つきで背中を撫でる。
「大丈夫っすよ。…アイツは、もう二度とアンタの前には現れない」
自分のチームの人間が普段何をしているかなど知らない。知るつもりも興味も無いが、愛しい女が関わっているとなれば話は別だった。正臣は今後の男の処分を頭に思い浮かべて空を睨んだ。
腕の中の名前が身じろいで、顔を上げる。即座に鋭い視線を緩めて見下ろせば、睫が濡れていて、それが雨のせいだけではない事が分かった。
「正臣くん、ありがとう」
「何度も言わなくていいっすから。プリンスがプリンセスを助けるのは当然っしょ!」
何度も礼を述べる相手に正臣は苦笑して述べるが、次いだ名前の言葉に男の表情がついに固まった。
「、格好良かった。…正臣くん」
ただの高校生と思ってたのに、と。名前は僅かに頬を紅潮させた。その言葉に落ち着いていたと思っていた正臣の心臓が再び早鐘を打つ。
「っ、それって、少しは俺を男として見てくれた…て事で、ファイナルアンサー?」
動揺を隠すように軽い口調で言葉を紡いだ正臣だが、それが見て取れて名前は思わず笑みを零した。
「ファイナルアンサー」
正臣の背中を、名前の小さな手が抱きしめた。

20101101 / 男の子
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