「今日は楽だなー」
「そっすね」
見慣れた池袋の街を歩きながら、俺は答えた。今日も変わらずテレクラだの何だのの金を踏み倒しやがった奴の集金に追われていた。しかしトムさんの言うようにいつもよりすんなりと事が運んでいて、こんな事は珍しかった。
(今日は早く帰れそうだ。飯どうすっかな)
ぼんやりとそんな事を考えていたら、まるで俺の心を読んだかのようにトムさんが再び口を開いた。
「そういや、お前今日仕事終わった後空いてっか?」
「え?ああ、帰るだけっすね」
「そか。じゃよお、飲みいかね?」
「ああ、いや…すんません、俺給料前で金無いんで、」
「そんくれえトムさんが奢るってやるっつの。つーかよ、アレだ」
そこまで話して、トムさんは言い難そうに視線を逸らした。言葉を濁すこの人が珍しくて俺は首を傾げて疑問符を浮かべる。
「あー、名前、覚えてんだろ?」
不意に出てきた名前さんの名前に驚いた。忘れる訳が無い。あれからあの人に会ってはいないが、先日見た夢の事もあって正直後ろめたい。俺は動揺を悟られぬよう後頭部を掻く振りをして表情を隠した。
「トムさんの、女っすよね。こないだ事務所に弁当持って来てた…」
「おう。アイツがよ、お前気に入ったみてえで会いたい会いたいってうるせーんだわ」
その言葉を聞いて今度こそ本格的に心臓が大きく揺れる。名前さんが俺に会いたいって…どういうことだ。
「だからよ、女付きでワリーんだけど3人で、な?」
後ろめたさと期待が混ざり、込み上がるよく分からない予感でもやもやと晴れない気分のまま。気付いたら俺は頷いていた。


「よーし、次いこー!」
「おい名前、酔い過ぎだぞ」
すっかり出来上がってしまった名前さんの隣を歩きながら、トムさんが言った。
あれから仕事が終えて街で合流した彼女と3人で飲み始めてもうかなりの時間が経っていた。最初は他愛ない談話をしていたが酔い始めた名前さんのペースに俺ら男二人はただ引きずられている。そういう俺も、正直酒が回り始めている訳だが。冷えた空気が火照った頬に心地良い。
「トムさん!私まだ酔ってない!」
「酔ってる奴って何で皆そう言うんだろなー」
きゃあきゃあと騒ぐ彼女はまるで小動物のようだ。酒で浮いた頭でそんな事を思った。
そこへ、ぴぴぴ、と携帯が着信を知らせる音が響いてすかさずトムさんが携帯を取り出した。
「はいもしもーし。…ああ、マジすか。じゃすぐ行きますわ」
腕にぴったりと寄り添う名前さんを一瞥した後、トムさんは大きく溜息をついて携帯を閉じた。
「どうかしたの?トムさん」
「いや、事務所でちっとあたらしくてな、呼び出された。悪い名前」
「え、今から?」
「おー」
こんな時間に呼び出しなんて珍しい。もしかして俺の事でトムさんがまた何か言われるんじゃ、とアルコールで上手く働かない頭を振った。
「俺も一緒に行きます」
「いやいや、お前は名前を送ってやってくれ」
「、は」
今、目の前の先輩は何と言ったか。
「はってお前。こんな時間にこの酔っ払い女一人で帰せねえべ」
「いや、まあ、そう、っすけど」
やはり上手く働かない頭をフル稼動させていたが、どうやら俺が耳にした言葉は間違っていなかったらしい。
「え、私一人で帰れるよ。二人に迷惑はかけません」
不満げに言う名前さんに、トムさんが困ったように笑った。
(あ…この顔、)
いつも名前さんに向けている恋人としての顔だという事に気付いてしまう自分に、複雑な気分になった。…今更だけど俺、すげえ邪魔者なんじゃねえのか。
「迷惑がどうとかじゃなくて。俺が心配なんだっつーの。分かれや」
そう言うトムさんに名前さんはやはり不満げにしていたが、何も言い返せずに口を閉じた。
(やっぱトムさん、かっけえな)
別に戦っているつもりは無いし、純粋に憧れの人であって勝ちたいとも勝てるとも思ってはいないのだが。それでも何故か、敵わないとはっきり感じてしまう自分に溜め息が漏れた。
「んじゃ静雄、こっちが誘っといて悪いんだけどよ。頼めるか?」
「あ、うす、任せてください」
「ごめんね、静雄くん」
「いえ…」
トムさんの言葉にハッと顔を上げた俺だが、名前さんに声を掛けられるとやはり扱いに困る。扱いというか、ただ単に俺に後ろめたい気持ちがあるからだろうが。
「…じゃちょっくら行ってくるわ」
ちらりと、俺に何か言いたげに視線をやってからトムさんはいつもの調子で背中を向けた。引っ掛かるところはあるが、その時は大して深く考える事もしなかった。
「行ってらっしゃいトムさん、気をつけてね!」
名前さんの声にひらひらと手を振りながら渋い色のスーツは人ごみの中へ消えていく。
「…」
(…二人きりになっちまった)
しかも、酒が入った状態で。素面であればまだ余裕で理性は保てるものの、この状況で果たして送り狼にならずにいられるか。正直100%なりませんとは言い切れない。まさか世話になってる先輩の女をヤるなんてそんな真似は絶対にしたくない。…例え、惚れちまった女だとしても。
こっそりと視線を名前さんにやれば、彼女はしっかりと俺を見ていて心臓が跳ねた。サングラスのおかげで泳いだ目には気付かれて無い。と思いたい。
「二人きりになっちゃったね」
さっきまで俺が思っていた言葉を口にされ更に動揺が増す。そしてにこりと小気味いい笑顔を浮かべた名前さんが俺の腕にしがみついてきた。
「ちょ、まだ酔っ払ってんすかアンタ」
「そうみたい。寒くなってきたし、早く帰ろう」
さっきまで次の店に行くとか騒いでたくせに、ころころと表情が変わる人だな、と思う。しがみついてくる彼女を邪険にも出来ず、むしろこの方が名前さんも大人しくしているだろうと俺は足を踏み出した。(言い訳じゃねえ。絶対に)


「ここ、私のマンション」
「結構いいとこっすね」
さほど歩かずに辿りついたそのマンションは、俺なんかが住んでるアパートと違ってなかなかに洒落ている所だった。オートロックの扉の前で、やんわりと彼女の腕を押す。
「じゃあ、俺はここで。お疲れっした」
「え?上がっていかないの?お茶くらい出させて」
この人は天然なんだろうか。いくら恋人の後輩とはいえこんな夜中に一人暮らしの部屋へ上がっていけなど、自殺行為にも程がある。
「いや、それはちょっと、」
「少しくらいいいじゃない。送ってもらったお礼したいし。明日早い?」
「いや、休みなんで、寝るだけっすけど」
「じゃあいいじゃない、ね!少しだけ!」
なかなか引き下がらない様子にどう断ろうかと思案しながらかしかしと頭を掻いていると、名前さんは頬を膨らませてその場にしゃがみ込んでしまった。
「静雄くんがはいって言うまで、ここ動かない」
「…(面倒くせえ)」
つーかそんな酒で赤くなった顔で言われても困る。
「分かりました。じゃ一杯貰ってきます」
結局俺が折れて溜息混じりにそう返せば、名前さんはぱっと表情を明るくさせて立ち上がった。
「ありがとう、静雄くん」
俺の惚れた笑顔でそう言われてしまえば俺も悪い気はしない訳で。ただただ理性が持つようにと願うばかりだった。
名前さんに袖を引かれながらオートロックの扉をくぐる。エレベーターに乗って目的の階まで上がり、廊下を歩く。どこを見てもやはり建物はいちいち洒落ていて、慣れなくてそわそわしてしまった。
かちゃかちゃと鍵を開ける名前さんの手元を見詰める。
(…綺麗な指だな)
俺なんかと違って傷ひとつ無くて白い。一人暮らしなのだから自炊や家事なんかもするだろうに、何故こうも綺麗なのだろうか。そしてすらりと細く伸びた指がドアノブを引いた。と思った瞬間、
「!」
すっかり気を抜いていた俺は胸倉を強く掴まれ、気付けば暗い部屋の中へ引きずり込まれるようにして入った。
壁に背中を打った軽い痛みと共に感じたのは、唇に柔らかい感触と、僅かな酒の匂い。そして、
(…!?)
目の前には、名前さんの伏せられた瞼。
状況が全く理解できないでいる俺の唇を名前さんの唇が食み、舌で輪郭をなぞられ無遠慮に侵入してくる。そこはやはり男の性なのか、無意識の内に舌を触れ合わせれば待っていたとばかりに名前さんの舌も絡みついてきた。
「ふ、んむ…」
熱い吐息を零しながら、切なげに眉を下げて必死に舌を絡めてくる名前さん。暗く、何の音も無いその玄関にやけに水音と名前さんの声が響いている気がしてくらりと酒に侵された脳が揺れた。もちろん次に込み上げてくるのは、情欲。
「しず、おく、」
酒と名前さんのせいにしても、いいのだろうか。俺はそのまま身を任せ、両腕で彼女の腰を抱いた。

20101031 / 花の君
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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