ふわり、とかすめる風の匂い。それは夏にしては冷たくて、思わず風上である後ろを振り返った。
ふわり、と黒いベールが舞った。真っ黒な衣装に身を包んだ男はそれと相対する太陽のような髪色をしていて、ぴたりとあった目は透き通るライトグリーンの色をしていた。一番目立っていたのは自身を象徴するような大きな黒い鎌。
「ああ、お迎えが来たのね」
ふわり、と私の顔はほころんだ。
死を受け入れるように彼に向けて大きく手を広げる。早く殺してと言わぬばかりに。
「何言ってんだお前?」
彼は本当に訳がわからないと言うような顔で私を見てきた。
「何って、殺してくれるんでしょ、死神さん」
「俺が誰だかはわかってるみたいだな!でも知ってはいないみたいだ!」
「知ってるよ、死神、でしょ?生きてる人間を殺してあの世に連れて行ってくれる」
「ぶっぶー外れ〜!」
彼は無邪気な顔で顔の前に腕を使ってばってんを作った。
「違うの?じゃあ殺してくれないの?」
「あ〜駄目!安直に答えを求めるな!妄想しろ!」
死神といえば、冷酷で恐怖を彷彿とさせるはずなのだが、目の前の死神はあまりにもキラキラしていて、私の知っている死神からあまりにも逸脱している。
「あなた本当に死神なの?」
「本物だ!証拠…、この鎌とか?」
彼は重そうな大きな鎌をひょいと持ち上げてみせた。たしかに死神と言えば鎌だ。
「でも、あまりにも死神らしくない」
「べっつにらしくなくてもいいだろ〜!ちゃんと仕事はしてるんだから!」
私の言葉は彼の地雷だったのか、彼はぷんぷんと言う擬音が聞こえてきそうな様子で声を荒らげた。
「傷つけたのなら、ごめんなさい」
「いや、いい。瀬名にもよく言われるし。謝れるお前はいい子だな!」
にかっと八重歯を見せながら笑うその姿は私の想像する死神とはやっぱり程遠かった。
「あんまり妄想を妨げるようなことは言いたくないんだけど…俺の仕事は魂の回収だ。死んだ魂の回収。だからお前を殺すのは俺じゃない」
彼の言葉に私はひどく落胆した。私を殺してくれるのは彼ではないらしい。残念だ。ひどく残念だ。
「殺してはくれないのね」
「まあ、俺の姿が見えたってことは十中八九そろそろ死ぬんじゃないのか?俺のノートには書かれてないから俺じゃない誰かが迎えに来ると思うけど」
彼はいつのまにか手にした真っ黒なハードカバー本をペラペラとめくっていた。ちらりと指の隙間から見えたページには羅列された文字と、それから五線譜に音符が書いてあるように見えた。
「う〜ん、文字と楽譜が被って読めない!」
確かに私の目に写っているものは楽譜だったようで、なぜそんなものが重要であろう本に書いてあるのかいささか疑問である。本当にちゃんと仕事をしているのかと思ったが、先程しているという言葉は聞いたのでしているのだろう…たぶん。
「お前、すっごい顔してるな」
「え?」
「瀬名が言い訳してるスオーのこと見てる目をしてた」
「その、せなさんもすおうさんも存じ上げませんが一体どんな顔をしていたのでしょうか」
「すっごい冷たい目だったぞ〜」
「それはすみませんでした」
不細工だとか顔の造形云々の話かと思ったら、私の表情の話だった。冷たい目をしていた自覚はないのだが、あまりにも普通から逸脱している彼にドン引きしているのはたしかだ。
「それで、あなたは私を殺してはくれないんですね?」
「そうなるな!」
「そう、そうですか」
ならばもう用はない。明日も仕事だ。早く帰って寝なければ。同じ朝が来る。何も変わらない、つまらない日が。
「お前、面白いな!」
何をお気に召したのか、彼は楽しそうに笑う。キラキラとした笑顔はやはり死神には不釣り合いだと思った。
「気に入った!死んだら俺が連れて行ってやるよ」
「でもノートには名前がないんでしょう?」
「だから死ぬまで一緒にいてやるよ。俺を楽しませてくれ!」
それじゃあ死神というより背後霊じゃいないかと思った。まあ、彼が居ようと居まいと、私の日常はきっと変わらない。だから、関係ない。
「勝手にしてください」
私の言葉に死神はまた楽しそうに笑った。
20190402