雪男の目の前には真っ白な天井が広がっていた。眩しさに一度目を瞑りかけ、ふと、疑問に思う。自分はどうしてこんなところにいるんだろうと。自分の服装や僅かに感じる薬品の匂いから読み取るに、どうやらここは病院らしい。でも、体のどの部分も怪我などしていない。さらに疑問に思い記憶を辿るも、当てはまるものがみつからない。少々難しい顔になっていると、部屋のドアが2回ほどノックされた。
「あ、はい、どうぞ」
そう声をかけると静かにドアが開き、隙間から控え目な声が雪男の名前を呼んだ。
「…こんにちは、雪ちゃん」
「しえみさん?」
現れたのは雪男の生徒であるしえみだった。気が引けるのかなかなか部屋に入ってこないしえみに、雪男は優しく笑う。
「どうぞ、入ってください」
「!おっ、お邪魔します!」
声を張り上げ勢い良く礼をしたしえみを見て再び笑みが深くなる。可愛いな。そう思ったことはそっと胸の奥にしまった。
「えっと…、お加減はどう?」
「ああ、大丈夫です。というか僕、なんでここにいるのかわからなくて」
「あ、そっか。…雪ちゃんね、授業中急に倒れちゃって。ここは理事長が管理している病院なんだって」
「そ、うですか」
倒れたのか。そういえば最近はろくに睡眠時間もとれていなかったな。わざわざ病院に運んでくれたのは、理事長の配慮だろうか。そう瞬時に考えを巡らせる思慮深い雪男の顔を、しえみはじっと見つめた。その視線に雪男が気が付くと、あまりに彼女が不安そうな顔をしているもので目を見張ってしまった。
「し、しえみさん?」
恐る恐る声をかけると、しえみは目を伏せながら呟いた。
「雪ちゃん…、辛くない?」
「え?」
その目が雪男の視線と交わるころ、雪男の心臓が小さく跳ねた。ゆらゆらと不安定に揺れる、きらきらと切なげに煌めく、自分を射抜くそんな眼差しに。
「雪ちゃんはいつも、無理をする。笑って、大丈夫って言うの。みんなに心配かけたくないから。でもそんなの、ますます心配だよ。雪ちゃんが、みんなに心配かけたくなくてする無理が、悲しいよ。」
まるで雪男の心に染み込んでいくようだった、そんなしえみの声は震えていた。一層に煌めいてゆく瞳からはもう、雫が溢れそうだ。そんな様を、雪男は見つめる。彼女に感じることや伝えたいことが、うまくまとまらなかった。考えても考えても、胸が苦しくなって言葉が追い付かない。とてもとても甘やかな苦しみが、雪男のなかで手繰ろを巻いていた冷たい場所を溶かしていく。
「雪ちゃん、泣いてもいいんだよ。辛いって言ってもいいんだよ。甘えてもいいんだよ。わたし、聴くよ。雪ちゃんの声、聴くから」
そうしてとうとう溢れた雫が一筋、しえみの白い頬に痕を残した。しえみは慌てて手で拭い、笑いながら言う。
「ご、ごめんね!わわ、わたしが泣いたらだめ、だね。いっぱい言いたいことばかり言って、ごめんね。雪ちゃん…、雪ちゃんの話をしよう!」
尚も涙を拭いながら気丈に振る舞おうとするしえみに、雪男の心臓は優しい音を鳴らした。ああ、どうしてこの人は、こんなにもあたたかくて優しいのだろう。沸き上がるのは、彼女に満たされた柔らかな感情だけ。
「しえみさん」
「はっ、はい!」
「…こっちに、来てください」
「え?」
しえみは不思議そうな顔をした。無理もない。こっちに来て、と促す雪男の言葉は、ベッドのすぐ横に座るしえみには思わず聞き返してしまいたくなるものだ。それでも雪男はやめない。
「もっとこっちに」
「ええっと…、こう?」
しえみは遠慮がちに腰を浮かせて雪男の真横に立った。自分を見上げる雪男がなんだか新鮮で、心臓が早鐘を打つ。
「もっと」
そして自分を動かす声に。その声がとても幼く聞こえて、しえみは擽られるような気持ちで素直に従った。足がベッドサイドに触れるほど近くまで近づくと、何か言いたげな雪男の眼差しが痛いくらいにしえみを見上げていた。
「雪、ちゃん」
できる限り優しさを込めた声で名前を呼んだ。瞬間、しえみの腰に雪男の両腕が絡まってきて顔が埋まった。あまりの展開に、しえみは驚いて何も発せられずされるがまま。雪男も何も言わずただしえみの体に顔を埋めた。
…もしかして、甘えてくれている?
しえみの脳を掠めた思考は、だんだんと強くなる両腕によって確信へと変えられていく。そう思うと、ドキドキだけでなくあたたかな気持ちに心が満たされた。空をさまよっていた手が自然と雪男の髪を撫で始めると、少しだけ、抱き締められる腕が強くなった気がした。
「…嫌じゃ、ないんですか」
ふいに聞こえた雪男の声に、しえみの心はとても素直に答えを見つけた。
「嫌じゃないよ。うれしい」
こぼれる笑みがそう言っている。自分の指をすり抜けていく髪が、抱きつく腕が、甘えてくれる心がこんなにもうれしい。
「……しえみさん、もっと」
「え?…きゃっ」
その言葉に返事をする間もなく、急に力強く引き寄せられて体が傾いていった。ドサッと尻餅をついた場所は、雪男の足の上。しえみの心は、即座に穏やかではなくなる。
「ゆゆゆっ、雪ちゃん!だっ、め!わたし重いから!」
「軽いですよ、それに…甘えさせてくれるんでしょう?」
さっきよりずっと近くにお互いの顔があった。至近距離で見つめる雪男の目は悪戯を企む子どものようで、とても幼かった。それはしえみにとってすごくうれしいけど、この状況は、その気持ちだけで説明できない。今度は首筋に顔を埋められて、しえみの体は強張った。
「ひゃ!」
「僕を、もっとずっと甘やかしてしえみさん」
そんな雪男の声がしえみは恥ずかしかった。でもやっぱりうれしくて、真っ赤な顔で笑ってぎゅっと抱き締めた。
「はい」
そして雪男も、ほどけるように笑ってしえみを抱き締めた。
ここにある
あふれるおもいが
2011.10.07
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