―今宵の月は美しい。

呟くように発せられた言葉は妙に色っぽくて、私はドキッとしてしまった。隣に座る斉藤さんは、ただじっと月を眺めていた。その横顔は、普段の斉藤さんとは少し違った。
どんな時でも表情一つ変えず振る舞う普段の彼とは違った。とても、とても切ない横顔だった。

「・・・斉藤さん?」

なぜだか不安になって声をかけると、彼がゆっくりと私に視線を向けた。まるで、月を見ている時のような眼差しで。深く私の目を射抜く。

「何故、こんなにも胸が苦しいのだろう。」
「え?」

独り言のような声にはっとしてしまう。微かに細められた目は、相も変わらず私を見つめた。ドキドキ、ドキドキ。鼓動が飛び回る。

「月を見てもただただ穏やかなのに、お前を見ると胸が騒ぐ。」

大きな手が私の頬に伸びてきた。ぎこちなく触れた掌は、男性の割には華奢でとても綺麗だった。それでも、私の顔を包み込んでしまいそうなほどの大きさだった。

「さ、斉藤さん」

私の声に対して彼の返答はなかった。沈黙を重ねれば重ねるほど、拍動が加速する。掌を通して彼に伝わってしまいそうで怖い。

「・・・すまん、怖がらせたか。」

そう彼の声が聞こえた後に、頬にあったぬくもりは離れた。でも顔の火照りが、その感覚さえ奪ってしまいそうだった。行き場をなくした彼の手はたどたどしく床を這った後、落ち着いたように彼の膝へと置かれた。再び静寂が二人を包む。さすがにいたたまれなくなった私は、彼の名を呼んだ。

「あ、あの斉藤さん!」
「な、なんだ?」

あまりにも勢いがつきすぎて怒鳴るように読んでしまった。少し驚いた様子の彼の顔は、結構珍しいものだった。

「え、とあの。その、さっき・・・の」

舌をかみそうで、でも言いたくて。

「い、嫌じゃなかった・・・というか」
「・・・・・」
「別に怖かったとかじゃなくっ」
「・・・泣きそうだったじゃないか」
「いえっ、あの、こっ、怖かったのは確かですけど、その、斉藤さんが怖いというわけでは・・なく」

しどろもどろになりつつ、今自分が言っていること全てを反芻しようと努力した。
しかし反芻するよりも先に言いたいことが頭の中を駆けめぐってどんどん声になっていく。


「わたしが、こんなに緊張していること・・・斉藤さんにばれちゃわないかなって・・思ったら、怖く・・・て」

もう見れたもんじゃなかった。今斉藤さんの顔を見たら間違いなく熱で倒れると思ったから。沈黙を破るために話し始めたのに、話し終わるとより一層重い沈黙が訪れた。

「・・・っはぁ〜」

今度は斉藤さんが沈黙を破った。それも、井年分ぐらいの溜息をついて。顔を上げられない、でも彼の手がまた私に伸びてきて顔を上げられた。

「・・っ!」
「これだからお前は。」
「え、え?」

そう言われて困惑する私を見て彼は小さく微笑み、私にいう間も与えず口づけた。身体が勝手に動いて、彼の背に私の腕は回った。彼の腕も強まって、私を閉じこめるみたいに抱きしめた。呼吸の仕方は知らなかったけど、苦しくない、むしろ優しく溶けてしまいそうな口付け。私の思考をことごとく奪い、彼だけを頭の中へ身体全体へ刻みつけていく。それは生涯私が生きてきた中でもっとも優しい痛みだった。


に惑いに溺れろ。


2012.02.04


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