「もうただいまは、言えない」
いつものように出立を見送る彼女の方を見ずに告げた。彼女がどんな表情をしているのかはわからない。でも、わかってしまいそうで怖かった。
「今までありがとうさ」
とても追いつかない。どれだけ頭にたくさんの言葉やその意味を詰めていても、彼女に伝えるべき想いに言葉が追いつかない。振り向きもせずに告げたひとことはあまりに簡潔で、でも、それが精一杯で。最後に一目彼女を、この隻眼に焼き付けたかった。伏し目でゆっくりと振り返って瞼を持ち上げる。彼女の小さな唇が薄く開いていて、何か言いたげにしていた。目は水面のようにゆらゆらと揺らいでいて、きしりと胸が締め付けられた。
泣かない彼女はやっぱり出会った頃と変わらずに優しくて脆い。
「ごめん、言い出せなくて」
彼女はまっすぐにこちらを見つめたまま何も言わない。見つめ返しても思いが溢れそうになるだけで、でも声には出来なくて立ちつくすだけだ。ふたりの間の静寂が別れをより深刻に突き付けるようで思わず顔を俯かせた。
「ごめん。何も、思いつかねえんさ。言葉が」
喉の奥が嘘みたいに痛かった。ああ、泣きそうなのか。もう何年も前に涙は忘れたはずだったのに。蘇る感覚が余計に想いをつのらせる。でも伝えられない。
「ごめん。何か、言って・・・」
堪えきれなかったのは何もかも俺の方だった。彼女はただ見つめるだけだったのに、受け止めるだけだったのに、俺は現実も自分の想いも彼女の想いも受け止めきれなくて、ひとりで辛いって泣こうとしている。情けない、なのに、彼女に恋う。
「ラビ」
聞こえた声にはっとなった。顔を上げると彼女は涙を流していた。咽頭のひとつも漏らさ静かに。
「ラビ」
そして苦しそうな声で俺の名前を呼んだ。
「ラ、ビ」
何度も、何度も何度も。ただそれだけを。流れる涙よりもずっとたくさん、俺の名前が真実になる。
「リナリー、俺、リナリーの声が好きだった」
真実になる嘘の名前みたいに滑る言葉は、ラビではない誰かのものだった。そう思わないと、途切れてしまいそうだった。
「リナリーのいろんな顔を見るのが好きだった。やさしくて泣き虫で脆いけど、だれより強いとこ、好きだった」
「リナリーが、」
その先を告げるための強さを俺は持っていなかった。その先を告げることの残酷さを俺は知っていた。だからなにも言えなかった。
「、でも、もう全部、思い出にするから」
触れることすら躊躇える彼女だった。いつまでも大切に大切に、だれより大切にしたかった。だれより俺の想定外だった。
「でも、絶対忘れないから」
流れる涙の透明度にすら心奪われてしまう俺だった。でもたったひとことを伝えられない俺だった。伝えられない想いごと、彼女のすべてを覚えておこうと思った。薄く開いた唇から震えた声で、彼女はゆっくり言葉を紡ぐ。きっと最後の彼女の声を、俺は聴く。
「さよなら、ラビ。そしていってらっしゃい。新しい、あなた」
彼女はきっと笑ったのだろう。心臓に突き刺さったのは彼女のやさしさで痛くなどなかった。ただ、苦しかった。
「いって、くるさ」
俺もきっと笑ったのだろう。彼女にどう映ったのかは知らないしどうでもいい。俺は間違いなく、彼女のように笑ったんだ。
嘘は君に、真実は深海に
嘘だらけの俺だった
それでも本当に君のことが
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