ホットコーヒー | ナノ





これ、やるよ。そう言って静雄が出してきたのは、小さなサイフォン式のコーヒーメーカーだった。
「どうしたのそれ」
「幽が役の練習用に使ってたの、もういらないっていうから貰った」
「ふーん、いいけど…俺そいつの使い方知らないよ?」
「お前は座ってろ」
いつもならコーヒーを淹れるのは臨也の役目だった。そもそもここは臨也の家なのだし、コーヒーを飲みたがるのも臨也なのだから、家主でありコーヒーを欲する当人が用意をするのは当然のことだという暗黙の了解があったはずだ。ところがどうだろう、今日は静雄がコーヒーを淹れるという。しかも、サイフォンを使って。臨也が淹れるコーヒーは大抵コーヒーメーカーに頼った簡易的なものであったし、味にこだわらない静雄と共に飲むときはインスタントを用いることさえあった。苦味に耐えられないからとミルクと砂糖をたっぷり注ぐような男が、まさかコーヒーの味を気にしていたとも思えない。
突然の行動に首を傾げながらも、促されるままにカウンターの側の椅子に腰をおろした。カウンターの反対側にまわった静雄は、慎重な手つきでコーヒーメーカーに触れる。円筒状の漏斗にフィルターを取り付け、水平になるよう押しこむ。フィルターを湿らせるため既に沸かしてあった湯を注ぎ、捨てる。丸底のフラスコ部分に湯を入れ、胸ポケットから出したライターでアルコールランプに火を灯す。ガラス製のサイフォンを壊さないようにする力の加減が難しいからか動作の一つ一つに緊張が垣間見えるが、思っていたよりも流れるような動きに臨也は一人感心する。弟からどのような講習を受けたのかは知らないが、ひと通りの使い方はマスターしてきているらしい。そういえば以前やっていたバーテンダーはそれなりに長続きしていたようだったから、もしかすると元々こういう作法は得意なのかもしれない。普段は料理といえば不揃いに切られた野菜に頓着せず鍋に放り込むような男が丁寧にコーヒーを入れている姿は、どことなく不自然で、けれどそれ故に臨也の興味を惹いた。今度機会があればカクテルを作らせてみるのも面白そうだ。次の休みにはシェイカーを買いに行こう。臨也が算段を立てている間にも静雄の手は止まらない。持参した袋をハサミで開け、漏斗にコーヒーの粉を入れていく。袋の口を丸め輪ゴムをかけるのを見ながら、シェイカーの前にミルを買ってやってもいいかもしれないと予定を変更する。コーヒーのことにさして詳しいわけではないが、粉のままではきっとすぐに風味が落ちてしまうはずだ。それに、豆を挽く姿を眺めてみるのも悪くない。

コポコポと音を立ててフラスコの中の湯が熱を持っていく。「理科の実験みたいだね、新羅似合いそう。」と呟けばカウンター越しに立つ彼の手元が小さく震えた。慎重に事を進めようとするあまり張り詰めていた空気を緩ませられたことに小さな優越感を覚えながら静雄を見ると、怒気のない目で窘められた。「笑わすなよ」
はいはい、と軽く返事をし、頬杖をついて口を閉じる。ここからがサイフォン式の見せ場だ。漏斗を斜めにフラスコへ差し込み、入り口に隙間を作ったまま放置する。厳かな面持ちでフラスコを注視する静雄を、こちらも出来る限り神妙に見つめた。数秒の沈黙の後、漏斗から垂れた鎖の先から泡が出たのを合図に再び静雄が動いた。中途半端な状態に留められていた漏斗をまっすぐに挿し込む。すると内部の気圧で沸騰した湯がフラスコ内部から、管を伝って漏斗へとのぼっていく。ボコボコと音を立てながら沸騰し上へ駆け上がる様を見ながら、臨也はまるで怒ったときの静雄みたいだとぼんやり思う。臨也の脳裏に浮かぶ静雄と、目の前で丁寧に漏斗の中を木べらで混ぜる彼はあまりに対照的だ。ああそっか、今日はシズちゃんが怒らない代わりにサイフォンが沸騰してるんだな。そんなくだらない思いつきについ頬を緩めると気配を察した静雄と目が合った。
「んだよ」
「なんでもなーいよー。ああほら、そろそろ火を外さなきゃ」
「っせえな、言われなくてもわかってるっつーの」
口を出されたのがよほど気に入らないらしく、派手に眉を顰められた。何が何でも自分の力だけでコーヒーを入れたいらしい。火を外すと漏斗からフラスコへ、静かに液が降りてくる。透き通った深い茶と部屋に充満する匂いに、飲まずともそれが素晴らしい出来栄えであると判る。
用意していたカップから温めるために注がれていた湯を捨てて、ついにコーヒーを供する準備に入る。臨也の分はソーサー付きの白い陶器のコーヒーカップ、静雄の分は素っ気ない大きめのシンプルな紺色のマグカップ。形も色もちぐはぐの食器が並んでいる様は恐ろしく滑稽だ。どの食器もお互いの分は一揃いあるのだから同じものを使えばいいのに、と言えば、自分の分はミルクを足すから臨也と同じカップでは駄目なのだと返された。それなら臨也の分も色違いのマグで用意すればいいと思ったが、この考えは口には出さなかった。目の前に用意されたソーサー付きのコーヒーカップが、この家で一番コーヒーを飲むのに適した容れ物であることを静雄は知っているはずだ。
熱く湯気の立つコーヒーをそれぞれのカップに注いだあと、マグにだけ無造作に牛乳を足す。せっかくカップを温めていたのに、常温の牛乳を注いでは香りが台無しだ。けれど静雄に頓着した様子はない。端から自分で飲むコーヒーの出来など静雄は気にしていない。彼の注意は先程から絶えずこちらに向いている。
目の前に置かれたカップをそっと持ち上げる。口をつける瞬間、正面の静雄が息を呑むのがわかった。そんなに注目されたら落ち着いて飲めるわけもない。文句を言ってやろうかとも思ったが、先程までの彼の努力を見ていたせいか期待に応えてやりたい気持ちがわずかに勝った。
「おいしいよ」
鼻孔を抜ける香りに素直に感想を述べれば、静雄は安堵するように息をついた。間を開けずに再度口をつける臨也を見て、感想がお世辞ではないと知ったのだろう、目に見えるほどはっきりと静雄は肩の力を抜いた。そして思い出したように役目を終えたサイフォンを示して口を開く。
「これ、そこの棚に入れといてもいいか」
「出しっぱなしでいいよ。端にでも寄せといてくれれば」
カウンターの上に物を置くことは少ないし、古めかしいサイフォンはそのままでも部屋によく馴染むと思った。
「…埃かぶっても知らねえぞ」
どことなく不満気に呟かれた言葉に、臨也は笑みを深くする。
「埃がかぶる前にまた淹れに来てくれるんでしょ?」
クリティカルヒット。彼の意図するところに上手いこと放り込んだ球に、静雄は顔を赤くして口を閉じたり開いたりしている。
自分にしか使えない品を臨也の家に常駐させようという静雄の健気さに満足しながら、臨也は真っ赤に染まった恋人の顔と素晴らしい出来栄えのコーヒーを味わった。