真夜中に | ナノ




※オフで出した「at 1LDK」と同設定ですが、とりあえずイザシズが一緒に住んでるってことだけ把握してれば問題はない感じです。



 事務所の鍵を閉めたとき、時計の短針は円の頂点を越えつつあった。乗り込んだエレベーターの稼動音すら響くほど辺りは静かだ。仕事場と自宅を同じにしていた頃の習慣から、ついつい遅くまで仕事を残してしまうことがある。前はどんなに疲れていてもそのまま布団へ倒れこめば済んだのだから、仕事の区切りという感覚がそもそも臨也にはなかった。
 今も仕事場の上の階には寝室とベッドがある。それでも重い身体を引きずって家路に着こうと思う辺り自分も変わった。移動の手間を割くだけの価値を臨也は静雄と暮らすあの家に見出しているのだ。
地上へ降りて、大通りでタクシーを待つ。携帯の中にはタクシー会社の電話番号も控えてあるが、深夜の新宿には客を求めて彷徨うセダンがうようよしている。わざわざ呼び出してこちらの個人情報を記録に残してやる必要はない。
 目標を定めて手を上げればすぐに緑色の車体が滑りこんできた。悪趣味な色だ、と思うが乗り込んでしまえばそんなことは関係ない。雑司が谷へ、とだけ告げて臨也は窓の外に視線を置いた。疲労は限界に近いが、眠るには距離が足りない。それでも揺れる車内にうとうとと睡魔は襲う。

『何時になる?』
 素っ気ない文面のメールに気付いたのは受信から三時間ばかり経ってからだ。慌てて送信した返事に反応はない。公私で携帯を区別していたことが仇となった。そもそも静雄から帰宅を伺うようなメールがくることは稀だ。そういったやり取りが煩わしいからと、夕飯が必要なときには互いに二十時までに連絡するようにと決まりを設けていた。だから静雄からの連絡には別の意味がある。本人は気取られているなどと気付いてはいないかもしれないが、過去数度の経験から臨也は確信を持っていた。

 明治通りは一旦新宿を離れれば池袋付近に到達するまで比較的静かな景色が続く。地図の上では北上している形になるが、光が減り景色が少しずつ寝静まっていく様はどちらかといえば下降を連想させる。彼が起きている間に家へ辿りつけるよう祈りながら、心地良い揺れに身を任せた。







 雨の夢を見た。静雄の横たわるベッドの周囲をぐるりと雨が囲っていて、高い高いところから撒いたように細くささやかに降る水をぼんやりと眺めている夢だ。静雄の肩は剥き出しで、そこを無遠慮に掴むのはよく見知った手の感触。臨也に引き寄せられて、シーツへ潜り込む。耳殻を叩く水音が心地良いと思いながら触れた肌には温度がない。なのに自分の息ばかりが熱くて嫌だと思った。余裕な顔を歪めたくて、臨也の肩に噛みついたところで目が醒めた。

 暗い天井を見ながら二、三度、静雄は目を瞬かせる。浅い睡眠だったのか頭の奥がぐらぐらする。
起き上がろうと力を込めた左腕が空を切って、ようやく完全に頭が冴えた。あるはずのマットがそこにはなく、空間を置いて離れたところにガラス製のサイドテーブルが見える。
その上に乗っている雑誌に目を止めて、知らぬ間にソファで寝てしまったのだと悟った。表紙をめくって以降の覚えがない。
 遠くで水の音がした。本当に雨が降っているのかと考えてから、それがシャワーの音であることに気付く。臨也が帰ってきたのだ。そもそも雑誌を読んでいたのなら電気が消えているのはおかしいし、手に持っていたはずのそれがテーブルの上にきちんと置かれているのも不自然だ。全て臨也がしてくれたことだと考えれば説明がつく。
 疑問が解消されると同時に寝起きの混乱は解けて、次に静雄を襲ったのは羞恥だった。
 頭を抱えて起き上がったばかりのソファにまた寝転がる。別に誰が見ているわけでもないのだから大きなリアクションをとる必要はどこにもなかったのだけれど、こうでもしなければ感情の行き場がなかったのだから仕方がない。勢い良く倒れこんだ拍子に肘置きの硬い部分に頭がぶつかり鈍い音がした。
 だって仕方ないだろう。夢の内容が内容だ。あれはそういう夢だった、と思う。夢だから感覚は緩かったけれど、そのくせ臨也の鎖骨のでっぱりや肌の色の少し濃いところばかりが鮮明に思い出されて、静雄はぶるぶると頭を振った。
別に今更、これぐらいで恥じらうほど繊細な思考を持ちあわせているわけではない。もっと恥ずかしいことは嫌というほどしたし、あいつとのあれこれに対して恥じらいなんてものは随分前に捨てた。それでも耐えられないと感じるのには理由がある。
 ここ二週間ほど、まともにしていない。別にガタガタ言うほど長い時間ではないし、一緒に暮らす前はこんな空白しょっちゅうだった。問題はそこではない。
 以前は会う時間が限られている分、予想がつきやすかった。互いの家に行くということはつまりそういうことだったし、わかっているだけ気が楽だった。それが今はどうだろう。同じ家に暮らすようになって、眠る布団も毎日同じ。最初の内は浮かれていたのも直に落ち着いた。すると今度はきっかけがない。普段は互いに仕事のことを考えて遠慮する。だったら休日に、と思うがそれも毎回ではない。
 性欲に関してはそれなりに即物的な態度をとっていたつもりだった。お互い相手への感情を認め合う頃には身体の関係など今更で、それなら特に躊躇することもないだろうと思っていた。溜まっている、というのを理由に家に押しかけたこともある。静雄から求めることがないわけではなかった。
けれど、それができたのは常に二人の間に距離があったからだ。射程圏内へ踏み込むことが言わば発情の合図だったし、だからこそ言葉がなくても伝わった。常に傍らに寄り添っている現状で、どうすればいいかが静雄にはまったくわからない。
こうなってみて初めて、静雄は主導権が完全に臨也のほうにあると知ったのだ。
 別にそこまで強く望んでいる訳じゃない。だからといって期待してないと言えば嘘になる。明日は久しぶりに二人の休日が揃った。ならば今夜何かあるかもしれないと考えてしまう自分に非はないと思う。そうだ、タイミングの問題だ。望んでいる訳じゃない。
こんな強情を張らずに素直に口にすれば万事解決することもわかっていた。今日するのか、とスパっと聞いてやればそれで終わりじゃないか。けれどこちらからその話題を出すのは憚られる。だってこれでは静雄ばかり臨也とやりたがっているみたいじゃないか。
 こんな時間まで布団に入らずソファで待っていて、それであんな夢を見た。これでやりたがってる訳じゃないと言い切るのは無理がないか。でも、だって。頭の中には逆説ばかり湧いてくる。
あああもうめんどくせえ。
「あれ、起きたの?」
 降ってきた声と同時に視界が明るくなる。慌てて身体を起こすと、部屋の入口で照明のスイッチに手をかけた臨也と目があった。
「まだ寝てるかと思った」
 おはよう、と笑む顔に思わず目を逸らす。さっきまでの思考を笑われたようでなんだか後ろめたい。
 挙動不審な静雄を特に気に留める様子はなく、臨也は台所へ向かう。静雄があらぬ方向を見つめて悶々としている間に、水を一口飲んで再びリビングへ戻ってくる。
向こうの視線が外れた気配を感じてそっと盗み見ると、臨也はダイニングテーブル前の椅子に座ってスマートフォンをいじっていた。空いている左手では首に掛けたタオルで無造作に髪を拭いている。下はパジャマ代わりのハーフパンツだが、上半身は裸のままだ。久しぶりに見るはずの身体は夢で見るより痩せて見える。骨のでっぱりが以前よりも顕著な気がした。
ここ一週間ほど特に臨也は忙しそうにしていた。食事も殆ど一緒に摂っていない。もしかしてまともなものを食べていないんじゃないだろうか。
つい点検するように視線を動かして、剥き出しの右肩に目が止まる。夢で自分が噛んだ場所。
再び訪れた眠気も相まってぼんやり眺めていると、急に臨也の肩が震えた。
「なっ、なんだよ」
 笑われている。
「いや、だってシズちゃん、こっち見過ぎ……そんなに俺って魅力的?」
「……っ見てねえ!!!!」
 反射で否定してから、しまったと思う。これでは後半を認めたみたいじゃないか。
「またそういう意味のない嘘を…」
 呆れたみたいな声を出しながら、臨也が椅子から立ち上がる。思わず身構える静雄を見て、また笑う。
 その手がゆっくり伸びてくるのを目線で追っていた。
「ドライヤーかけてくるから先ベッド行ってて。ね?」
 くしゃりと髪をかき混ぜられて、逆らえるはずもない。それに逆らったところで結果は同じだ。
 おとなしく頷いた静雄に、満足気に臨也は微笑む。ああ、やっぱり不公平だ。
夢と同じ余裕の滲む顔を見ながら、ベッドに入ったら真っ先に肩に食らいついてやろうと思った。



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ばかっぷる