溺雨 | ナノ





その日は確かに晴れていた。
他校の不良や、どう見ても高校生ではない集団に囲まれた放課後、逆光で彼らの顔が見えず、「俺たちのこと覚えてるよなあ?」というお決まりの文句に頷けなかった。
もっとも、見えていたところで彼らの顔を覚えてはいなかっただろう。振り回した標識の裏側は滑らかで、反射する光がただ眩しかった。

だから目が覚めたとき、静雄は自分がどこにいるのかわからなかった。
密度が高く停滞した空気。不意に流れた風の冷たさにつられて首を向けると、窓の外は土砂降りの雨だった。
知覚した瞬間、流れるような不規則で止めどない音が、一気に静雄の周りを包む。寝起きすぐの動いてない頭は、ぼんやりと事実だけを繰り返した。
(あめ…)
ひとしきり暴れた後、鞄を取りに戻った教室で、うたた寝してしまったのだ。今は何時だろう。夕食には間に合うだろうか。そう考えながらも、窓から目を離せないでいた。
視界を暗くするほどの穏やかだけれど重厚な雨は、途切れる気配がない。音も、視界も、匂いすら支配し、教室だけを世界から切り離すように、降り続いている。
ひとりだ、と思った。
つい先刻まで標識片手に人をなぎ倒していたのが、まるで夢でも見ていたように遠い。それどころか、朝食べたパンの味も、行ってらっしゃいとかけられた声も、退屈な授業も、全てが全てどこか遠い場所の出来事のように感じた。ひとりだ。きゅっと心臓が締め付けられる。
この気分を、楽しむべきか悲しむべきかがわからなかった。ひとりを寂しいと思うこと、ひとりを気楽だと思うこと、どちらもそれと認めるにはまだ足りないような気がして、どっちに傾くにも罪悪感が付きまとう。ひとりにされたと責めることも、ひとりになりたいと望むこともままならない。何かを傷つける度に、静雄もまた傷ついた。被害者にも加害者にもなれないまま、いつだって事実として静雄はひとりだった。
椅子に括りつけられたように足は重く、立ち上がるのがひどく億劫だ。外を囲む雨の層は分厚く、水の中にでもいるような気分になる。水の中で、ゆっくりと水面を見上げながら、溺れるわけでも泳ぐわけでもなく、ただ底へと沈む。それはそう悪くない心地だった。
静雄が傷ついたとき、つまり静雄が何かを傷つけて帰ってきたとき、ごくごく身近な人たちは静雄に対してとても優しい。それが、時々どうしようもなく辛いときがある。彼らの手があるから、静雄はどんなに怒りで我を見失っても人の痛みを慮るだけの心を失わなかったし、それ故に苦しかった。いっそ、何もかも捨ててしまえれば楽だろうと考えては、そんな優しさを仇で返すような逃げ道しか見つけられない自分に、また辟易する。
何も望まない身体が沈むのは、当然の摂理だ。何もない水の底なら、案外気楽に生きられるのかもしれなかった。
いっそもう一度眠ってしまおうかと思ったとき、不意に意識は引き戻された。

カタン、

響いた音に、ハッとする。
雨音だけだった世界が壊れ、急に感じた気配には覚えがあった。

「…ああ、なんだシズちゃんじゃない」

声のしたほうへ顔を向けると、臨也がいた。真っ黒な学生服は闇に溶けて輪郭が曖昧だ。薄暗い教室の入り口に立つ彼の、赤みがかった目だけがやけに煌々と輝いている。
その目を見てしまってから、怒り損ねたと気が付いた。水底から引き上げられたばかりの意識は重く、スタートダッシュをきれなかった静雄は、臨也を前にしても怒号一つ上げていない。
暗闇に溶け込むような立ち姿のなかで、彼の目だけが際立っていた。そんなわけはないのに、沈みゆくこの身を照らされているかのような気がして落ち着かない。暗闇に光る赤は、いつか映画で見た潜水艦のサーチライトを連想させる。怒りに包まれていない自分はまったくの無防備で、照らされれば容易に曝されてしまう。それでは、困る。堪らずぎゅっと握りしめた手を、気取られるわけにはいかない。
臨也へ向ける感情を、静雄は量り損ねていた。何がどうしてそうなったのかはわからない。ただ、嫌悪や憎しみだけというには、自分がこの男に抱える感情は歪すぎるような気がしていた。静雄が人に向けたことのある感情は少ない。元々一過性の怒りにばかり特化した身体だ。誰かを長期間憎む、ということすら臨也が初めてだと言ってもいいだろう。けれど、憎しみだけで果たしてこんなに胸が締められるものだろうか。そこを突き詰めたら、後にも先にも進めなくなるような気がして、静雄はいつも怒りにすべてを放棄する。
浴びせられるであろう揶揄を期待して、次の言葉を待った。怒りに支配されれば、何もかも振り払ってこの男と向き合えるということを静雄は知っていた。むしろ、そうでなければ耐えられない。
なのに、期待していた侮蔑や嘲笑はこない。こいつも水の中にいたんじゃないかと言うぐらい、沈んだ穏やかな声が響く。その声音の静けさと、瞳に揺らぐ熱はひどく不均衡に思えた。

「傘、ないの」

ここで、静雄はようやく自分が傘を持っていなかったことに気が付いた。長いこと雨を眺めていたのに、間抜けな話だ。
咄嗟に反応を返せないでいると、沈黙を肯定ととった臨也が言葉を続ける。

「貸してあげよっか?」
「…いらねえ。」
「ああ、なーんだ。喋れるんじゃない。ついに人語を解さなくなったのかと思ったのに。」

ようやく与えられた嘲笑は、ひどく頼りなく思えた。とってつけたよう、とでも言えばいいのだろうか。臨也の声は涼やかで、聞いているとなんだか腹の底が落ち着かない。怒りを引き出せないのなら、早くどこかへ行ってほしい。その目に、ずっと晒されていられる自信がない。
いたたまれなくなって目を逸らしたのがいけなかった。

「ほら、帰ろう?」

左腕に感じた体温に顔を上げると、赤い光は静雄のすぐ隣にあった。目を離した隙に近づいて来たその手は、沈んでいたはずの身体を引き上げる。衣替えしたばかりの半袖のシャツから伸びる腕に、直に触れた臨也の手が熱い。その熱に抗えず、気付けば小さく頷いていた。



「え、うそ。やったことないの?ほんとシズちゃんてば、無駄に真面目なんだから」

連れられるままに昇降口へ降りた静雄に、臨也が差し出したのは学校の傘立てに取り残されたビニール傘だった。人のものを盗む趣味はないと眉を顰める静雄に、呆れまじりに彼は説く。

「こんな雨の日に誰も居ない学校に置いていかれてる、ってことは持ち主なんていないんだよ。取り残された一人ぼっちのそいつを、使ってやるのはむしろボランティアみたいなもんだと思わない?」

まるで静雄に手を差し伸べる言い訳みたいだと、他でもない臨也本人が自嘲していることに静雄は気付かない。ただ、妙に癪に触る言い方だと思うのみだ。
人のものを無断で使うことへの罪悪感から暫し渋っていた静雄だが、そんなに気になるなら明日の朝戻しておけばいいという臨也の提案で、その手から傘を受け取った。

重たく感じていた雨は、いざ渦中へ入ってみればそれほど強くもなかった。あんなに帰るのが億劫だと思っていた足は、思いのほかすんなりと動いている。いつも追い掛け回している背中が目の前にあるからかもしれない。静雄が持っているのとは違う、薄く青みがかったビニール傘が揺れる。いつもはまともに見る余裕のない背中が、静かにそこにあることが不思議だった。
傘を手に入れた時点で、共に歩く理由はない。それなのに、静雄の前を臨也は歩いていた。近づくでも離れるでもなくピタリと一定の距離を保ったまま。きっと帰り道が同じなのだろう、とは思うものの、臨也の家を静雄は知らなかった。そんなものとは無縁な場所にいつもいた。臨也にも帰る家があり、慈しむべき家族がある、そんなことは考えたこともなかったのだ。
吸おうとした息が上手く吸えなくて、ヒュッと浅い音が鳴る。
臨也といて、マイナスの感情が在席しない空間はこれが初めての経験だった。細みだけれどしっかりとした背中、夜に濡れたみたいな漆黒の髪。昨日までその後姿を追っていられた理由が静雄にはわからなくなっていた。
雨が、雨のせいだ。自分も彼もどこかおかしい。馬鹿みたいに降っている雨が、ここを日常から切り離している。ひとりだったはずの世界に、今度はふたりきりだった。言葉も交わさず、間に雨を挟むこの距離が、果たして二人きりと称するに値しているかはわからないけれど。先ほど教室で掴まれた左腕がまだ熱い。雨がやめば、きっと元通りになる。ならなければ。

「ねえ」

この声に呼び止められるのは今日だけで二度目だ。ぐるぐると仕様もないことばかり考えている内に、立ち止まっていたらしい。
なんでこいつは気付いたんだろう。
疑問に思いながら顔を上げる前に急に腕を引かれた。唇に触れた感触に目を見開く。それは一瞬のはずなのに、静雄の世界を止めた。流れる雨粒だけが、正しく時間を刻んでいる。臨也の放り捨てた傘が視界の端で落ちた。
顔を離した臨也は、身を翻してそのまま走っていく。はっと気付いて、手にしていた傘を投げつけるが、開いたままのそれはふわりと宙を舞うだけだ。踊る傘の向こうで黒い背中はどんどん小さくなっていく。
呼び止めようにも言葉が出ない。追いかけようにも一歩が出ない。まさかあの背を黙って見送る日がくるなんて。
抵抗できなかったのは傘で手が塞がっていたせいだ。空いている左手は臨也の右手で握りこまれていた。決して抵抗しなかったわけじゃない。
どんなに言い訳をしても、心臓は早まるばかりだ。雨で濡れた身体はどんどん重くなる。胸に何かが詰まって呼吸が入らない。溺れる。それが雨になのか、それとも別の何かになのかはわからなかった。ただ、穏やかに沈むことはもうできそうにない。




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雨でセンチメンタルになる静雄と、それに動揺して慌てて引き上げる臨也