誰か私に名前をつけて! | ナノ





鍵を閉めなかった。
扉を開いたわけでも、わざわざ招きいれたわけでもない。
ただ、そうと知っていて錠をしなかった。それだけの話だ。

裸足の足にするりと擦り寄る感触がして、静雄は読んでいた雑誌から目線を外した。
グレーのスーツに包まれて微笑む弟(今度のドラマは新米刑事の役なのだそうだ)の向こう側、投げ出された自分の足に白い塊が寄り添っている。
一週間ほど前に道端で拾ってきた猫は我物顔で静雄の家に馴染んでいた。静雄の視線に気付いたのか、ふっと小さな顔を上げる。真っ白な背中に反して、目の周りと耳にあしらわれた茶色と黒色のブチ模様が印象的な三毛猫だった。
幽のとこの独尊丸よりも一回りほど小柄に見えるそいつは、まだ生後3ヶ月、人間で言えば5歳程度なのだと新羅が言っていた。新羅のところに子猫を連れて行ったのは臨也だ。ぱっと見では清潔そうに見えるとはいえ、道端で野良同然に扱われていたのだから感染症の心配があるかもしれないと。元々猫が好きなのか、静雄が拾ってきた猫に対し臨也は妙に口を出してくる。そういうものなのか、と思いつつ、勝手にするならすればいいと好きにさせていた。台所の隅には臨也の買い込んできた猫缶が高く塔を作っている。
猫は静雄の足に爪を立ててじゃれ始めた。普通の人なら痛いと感じるのかもしれないが、生憎と静雄の身体はそのへんの柱よりも丈夫にできている。賃貸の壁に傷をつけられるよりは増しだろう。何より下手に動いてこの小さい生き物を傷つける可能性を思えば、大人しく爪とぎの餌食になる他ない。
指一本動かさない静雄に、猫はお構いなく攻撃を仕掛ける。爪を立て、尻尾でくすぐり、小さな口で噛む。動きがなくても足に意思があることを知っているのだろう。こうして家に連れてきて一週間になるが、猫がいくら戦ってもびくともしない足への興味を失うことはなかった。むしろその行為はエスカレートしていくばかりだ。

「ああほら、またやってる」

突然頭上から降ってきた声とともに、足元の感触が消えた。
猫の移動するほうへ釣られて目線を上げると、片手で無造作に猫を持ち上げた臨也と目があった。風呂あがりの肩にタオルをかけたまま、猫を持っていないほうの手で軽く髪をぬぐっている。

「ちゃんと躾けないと、シズちゃんはよくても他の人が怪我するよ」

呆れ混じりの声に、にーと猫が鳴いた。そんなことしない、と言っているようにも聞こえる。臨也も同じ事を考えたのか、「あーはいはいわかったわかった」とおざなりな言葉を猫にかけると、そのまま静雄のひざ上へ小さな体を乗せた。開いたままだった雑誌を慌てて閉じる宿主に構わず、猫は満足気にその大きな手のひらに爪を立てる。
猫を静雄へ押し付けた臨也は、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、直に口をつけた。行儀が悪いとは思うが、静雄もよくすることであったし、何よりそのペットボトル自体が臨也の買ったものであったため、口先に出かかった文句は飲み込むことにする。静雄の視線に気付いた臨也が、無言で水を差し出してくるが首を振って拒否した。喉が乾いている訳ではない。
用の済んだタオルを洗濯機へ投げ入れた臨也がリビングへ戻ってくる。

「その猫、雄だったらよかったのにね」

三毛猫の雄がいかに希少価値の高いものであるか、という話は拾ってきてすぐに臨也から聞いていた。5分に渡る長く煩わしい講釈の内容を静雄は殆ど覚えていなかったが、投げつけて使い物にならなくなった目覚まし時計を前に、二度と話題に出すまいと誓ったことは記憶に新しい。猫が雌だと新羅から聞いたときは、正直に胸をなでおろした。

「どうでもいいだろ」
「そう?雄だったらきっと高く売れたよ?」
「売らねーよ」

ぶっきらぼうに言い捨てた言葉に、臨也が目を細める。

「じゃあどうするっていうのさ。こんな血統書もない雑種、ただで貰ってくれる人なんて中々いないよ」
「そういうもんなのか」
「そういうもんだよ。ペットっていうのはある意味では鞄や靴なんかよりもよっぽどブランド品だからねぇ。一級品を探して寄越せ、なんていう依頼も少なくない。」

まったく命をなんだと思ってるんだか、と言って笑う声は高らかで、静雄はお前がそれを言うかと眉を寄せる。動物どころか人の命すら玩具のように扱う男の言う台詞とは思えない。
静雄の表情に気づくと臨也は尚も楽しげに口端を歪めた。今日は妙に機嫌がいい。静雄の座るベッドに並んで腰掛けると、子猫を膝上から再び取り上げた。

「こんなにかわいいのにねえ」

静雄の右手と戦うのにも飽きてうとうとしていた猫は、臨也の手の中で、顎をくすぐられて心地よさそうに目を細めている。
風呂あがりであるにも関わらず、臨也は躊躇なく猫を胸元へ寄せた。以前はなんとなく潔癖な印象を持っていたが、そう行儀にこだわる性質でもないことは最近になって知った。ペットボトルには直接口をつけるし、猫の毛が服についても気にしない。その代わり、洗濯物の畳み方だとか食器をしまう順序には妙に口を出してくる。つまるところ、効率の良し悪しに関わらなければこの男は存外大雑把なのだった。

「どうするの?」

投げかけられた問は唐突で、すぐにはそれが猫のことを指しているとわからなかった。
軽い調子だった。臨也はこちらに目線を寄越すこともなく、変わらず指先で猫と戯れている。
静雄の無言が予想の範囲内だったのだろう。臨也はすぐに次の言葉を続けた。

「さっきも言ったように里親を探すのは一苦労だし、君の人脈でそれが出来るとも思わない。もしするなら早く動いたほうがいいよ。生き物は幼ければ幼いほど貰い手が見つかりやすいから。このままここに置いておくにしたって、どうせこの家ペット不可でしょ。」

いつもの相手に畳み掛けるような圧を持った調子ではない。けれど、優しく諭すようなその声音では、怒ることもできない。静雄に反撃の余地を与えない、そういう喋り方だ。
それは猫を拾ってきた当初から何度となく言われてきた内容だった。だから、静雄はいつものように話半分で聞き流すつもりでいた。何もしないならしないなりに、なるようにしか物事は進まない。それならそれでいいと思っている静雄にとって、臨也の忠言は全くの無意味だ。
それでも、最後の一言だけは一際強く響いた。

「どうして名前、つけないの」

この家に来て一週間経つが、猫には特別な呼び名がない。それを突く臨也の声音には、明らかに静雄を責める調子が含まれていた。猫だけのことを言っているわけではないということは、いくら鈍感な静雄でもわかった。もっともっと根本的な部分の話を臨也はしようとしている。
当たり前に風呂を借り、生活に口を出す。その関係の定義を、彼は求めていた。
細められた目は少しも笑っておらず、先ほどまでの上機嫌がただのフェイクだったことを知る。

「お前がつければいいだろ」

静雄の返答に、あははっと臨也は何が楽しいのかわからないような明るい笑い声を返した。ああ、しくじった。臨也の目は上機嫌の殻に包まれ、一瞬見せた真剣さの欠片もそこには見当たらない。
既に遊び疲れたのか半分夢の中へ入りつつある猫をベッドへ下ろすと、臨也は立ち上がった。恐らく家へ帰るのだろう。馴染みのファーコートを羽織って、思い出したように一言、

「俺がつけても意味ないんだよ」

今日のところは答えを求められないことに安堵するべきかどうかすら決められずにいる静雄に告げ、さっさと出ていってしまった。
バタン、と無尽蔵に閉められたドアの音が響く。鍵を掛けるか悩んで思いとどまった。
望んで招き入れたわけでも、誘い込んだわけでもない。ただきっと入ってくるだろうと知りながら鍵を掛けなかっただけ。出ていく可能性を感じながら錠を閉めないだけ。

(どうせ閉めたところで勝手にこじ開けて入ってくる癖に)

そもそも押し入られて好き勝手されているのはこっちのほうではないか。家には臨也の物が増えて、日常は徐々に侵食されていく。一体何が不満だというのだろう。
猫に名付けないのは、一重に静雄の臆病さが理由だった。名前がなくても不自由しないから、という適当な理由の裏っかわにあるのは、動物一匹飼おうと決める根性もなく、名付けてしまえば手放せる自信もない弱い心だ。真っ向から指摘されれば返す言葉はない。いっそあいつが名付けてくれれば自分はそれを受け入れるんだろうと思う。
考え込んでいると首から抜けるような気だるさを感じて、静雄は背後のベッドに体を投げ出した。



トドメをさそうとしない臨也と、始めから終わりまで何一つ任せきりな静雄、お互い様という言葉は残念ながら二人の頭の中にはない。とばっちりで名無しの猫だけにこの場で不満を漏らす権利がある。だから彼女はこの部屋で一際高い声で鳴いていた。



誰か私に名前をつけて!