浴槽に涙 | ナノ





右のつま先を沈め、次は左足。身体を包む高い温度を受け入れながら、静雄は全身を湯船につけた。あー、と漏れるままに声を出す。一日の外回りで酷使した筋肉が溶ける感覚は至上だった。
 湯船の淵に背中を預けたまま、少しだけ膝を曲げて、上半身を湯に入れる。一般よりもきっとかなり大きい風呂なんだろうとは思うが、静雄の長身を収めるにはどうしてもあと少し足りないのが現実だった。とはいえ、前の住まいでは完全に膝を抱える形で入浴していたので、当の静雄に不満はない。湯船を張って浸かれるだけでも、贅沢というものだろう。
 身を起こして自分の上半身を何をするでもなく眺める。相変わらずほっせえ身体だ。せっかくここまで背が伸びたのだから、こんな電柱みたいな身体じゃなくて、もう少しがっしりした身体つきになりたいと思っていたが、無理だということはとっくにわかっていた。鍛えても太くなることのない筋肉なのだから、今更どうしようもないだろう。
 胸板、二の腕、指の先、お腹、太もも、膝……順々に目で追っていって、傷ひとつないそれらを確かめる。これも、今更だ。
 今日は久しぶりに大立ち回りをした。一種伝説化している静雄にわざわざ真正面から刃向かう人間は少ない。面と向かって刃物を向けられて、斬りつけられた。弟から貰ったシャツを切り傷と血で駄目にするのも、随分久しぶりだった気がする。そう、ちゃんと自分は怪我をしたのだ。勿論それは、相手の意図に見合う程度ではなかったけれど。
 あれは確か左腕だった。腕を盾にして相手に切らせた隙に間合いを詰めたのだから、間違いない。大怪我とは言わないまでも、余程相手の使う刃物の質が良かったのだろう。視認できる程度に傷口はパックリ開いていたし、多かれ少なかれ流血もしていたはずだ。それが、今はもうどこだったかわからない。
 ずっと前、まだ静雄が小さかった頃、人より早く消える自分の傷口に気付いたとき、静雄は身体を浸けた湯船から出られなかった。丈夫になるのには気付いていた。どんどん力が強くなる自覚もあった。けれど、傷つかないなんて。言い逃れはできないと思った。黙っていても、皆と同じ振りはもう出来ないのだ。
 母親にも誰にも知られたくなくて、湯船に顔を向けたままこっそり泣いた。身体が傷つかないことに、心は傷ついていた。目に見える傷がなければ被害者にはなれないことを、幼い静雄はもう痛いほどにわかっていた。加害者が泣くのは、きっとおかしい。初めて声を殺して泣いた。それで、もう二度と泣かないと、心に決めたのだ。
 感傷に浸っていると、鼻の奥がツンとした。思わず口の端を上げる。そろそろ、いいだろうか。声もきっと聞こえない。何より、ここなら涙も湯に溶けていく。誰にも咎められることはない。

 心配した臨也が呼びに入るまで、身体を丸めて、幼い日の代わりにただ自分のため泣いた。



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同棲してる……