チョコレートとカメレオン | ナノ





「ああくそっふざけやがって」

 収まらないイライラを声に滲ませたまま、静雄は空になったコップを机に置く。何気なく置いたつもりだったのに、思いの外大きな音がした。それを聞いて席を立っていた家主が慌てて戻ってくる。

「ちょっと、次割ったらもう君にお茶出さないからね!」

 新羅の家のものをちょっとした不注意で壊してしまうことは、静雄にとって日常茶飯事だ。それを注意されて逆切れするほど彼の心は狭くない。ただ、完全に悪気がなかっただけに素直に謝ることもできず少しむっとしてしまうだけだ。
 静雄の怒りに慣れっこな新羅は、全身から滲み出る不穏なオーラや鋭い視線にも動じない。もっとも、ここ一番で引き際を誤って規格外の暴力の餌食となることも決して少なくはないのだが、それでも怯えないからこそ静雄の友人としての立場を確立できているのだった。

「何があったか知らないけどさ、話題選択の権利くらいは僕にも許されていいと思うんだけどな」

 手にした皿を机の上に置いて、新羅は静雄の正面のソファへ座った。空になって机の上に乗っているプラスチックのコップを見て、お茶菓子を持ってきた意味がなかったな、と肩を竦める。
そんな新羅の様子に構わず、静雄は出されたばかりのクッキーを一つ頬張る。表面に粉砂糖のまぶされた真っ白なそれは、口に含んだ途端に舌の上で溶けて消えていく。嫌味のないやさしい甘さに、少しだけ苛ついていた静雄の気持ちもほぐれた。

「バレンタインって単語だけでイライラしてたんじゃ、この時期ろくに外も歩けないんじゃないの?」

 2月に入って、節分も過ぎた。次のイベントと言えば街がチョコとハートで埋め尽くされるバレンタインデーである。その時節にならって「今年はセルティはどんなチョコをくれるかなぁ」という幸せ一杯の話題を提供しただけなのだが、まさかそれで静雄の怒りを買うことになるとは思わなかった。新羅の話を聞いている最中は大人しくしていたのに、少し席を立っている間に何かを思い出したらしい。勝手に自分に燃料を注いで爆発されるのでは、こっちとしては対処のしようがない。共に池袋の街を歩く静雄の上司は命がけだろう。

「んなすぐキレねえよ。腹立つことがあったのさっきだしな」

 今日の静雄の訪問理由は右腕の切り傷だ。それほど深い傷でもないのに治療を頼みにくるのは珍しいと思ったが、なるほど、そういうことか。恐らく傷の原因こそが苛立ちの理由だろう。バーテン服で訪れた彼を見て、てっきり仕事中につけた傷なのだと思っていたのだが、その場を離れても引きずる苛立ちと言えば相手は限られてくる。仕事終わりに相手の家で喧嘩でもしたのだろう。新羅のところに来たのは、治療という名目半分、愚痴る相手を探していたというところか。

「君がそれじゃあ臨也のほうはもっとすごいんじゃないの?まさか殺してないよね」

「んな簡単に死んでくれたら苦労してねーよ」

 チッと舌打ちまじりに静雄は吐き捨てる。そもそもバレンタインなんて甘いワードを引き金にしている辺り、下らない痴話喧嘩に違いはないのだが、どうも当人はそのことを認めたくないようだ。お互いの好意を認めてそういう間柄に落ち着いた筈なのに、それでもまだ素直に本心をさらけ出すには抵抗があるらしい。まったく難儀な関係である。

「あーめんどくせえ。あーだこーだ言ってくるくせに肝心なことは何一つ言いやがらねえ。あいつの言うことは訳がわからねぇんだよ!」

「確かに臨也は面倒臭いやつだけど、でもわかりにくいわけじゃないと思うよ」

 温和な笑みを浮かべる新羅の言葉に、静雄の動きがピタリ、と止まった。
興味深そうに、二つの目がこっちを見ている。その様子を見て新羅は認識を改める。互いへの気持ちを認めるようになってまで、静雄も臨也もお互いを否定し合いたい訳ではないのだ。ただ、歩み寄る術を知らないだけ。彼らに足りないのは相互理解に他ならず、静雄に限って言えば相手を観察する習慣をもっと養うべきだと言えた。

「臨也のすることには絶対に理由がある。思いつきだとか、なんなくっていうのをあいつは嫌うからね。きっと君の反応を見て次の手を決めているはずだから、機会があればよく観察してみるといいよ。なにか、わかることもあるんじゃないかな」

 諭すように言えば、少し不満気な顔のまま、静雄は、おう、と小さな返事を返した。







「はい、これ」

ソファに座ったまま、傍に立つ臨也の差し出してきたものを見上げる。濃い茶色の箱に太さの違う二種類の赤いリボンがかけられていて、結び目の部分には白い花のようなものが添えてある。一目見て、それがこの時期になるとそこかしこで目にするようになる贈り物の類だとわかった。

「なんだよこれ」

「なにって、バレンタインだよ」

 当たり前のことを聞くなというような調子の返事に、静雄は小さく舌を打つ。街中に赤やらピンクやらの目にも華やかな色合いが溢れるのを見ていれば、対して意識していなくてもその単語は頭に浮かぶ。そういうことを聞いている訳ではないのだ。
 先日臨也と喧嘩をした。その原因こそが正にバレンタインデーというイベントの存在であり、ナイフまで持ちだした口論の末に臨也ははっきりと言ったのだ。バレンタインなんて下らない、と。
 意図の見えない言動には既に慣れていた。いちいち目くじらを立てていても、この間のように揉めるだけ。それなら余計なことはしないに限る。
 そう考えて思考を止めようとした静雄の頭に、不意に先日の新羅の言葉がよぎった。

『臨也のすることには絶対に理由がある』。

「あ、勘違いしないでね。買ったの俺じゃないから。取引相手の女の子に貰ったんだよ」

 反応のない静雄に焦れたのか、臨也がさらに説明を加えた。理由、理由ってなんだ?

「手前の貰ったもんだろ。手前が食べろよ」

 差し出された箱を受け取らずに手で押し返しながら、静雄はこっそり臨也の様子を伺った。静雄の反応を見て臨也は動くはずだと新羅が言っていたからだ。もし静雄が臨也の行動を読むことが出来れば、常のように考えなしだと馬鹿にされることもない。この胸糞悪い手段ばっかり使う野郎に精神戦で優位に立てるかもしれない、と思えばそれはとても魅力的に感じた。

「俺そこまで甘いの好きじゃないもん。しかもこれ、たぶん手作りだよ。義務も保証も発生しない他人の作ったものって昔から嫌だったんだよね。でも食べ物無駄にするとシズちゃん怒るしさ」

 何の意味があるのか手にした箱をヒラヒラと振りながら、臨也は言葉を重ねる。こんな風にペラペラと口が回るときは、ひどく上機嫌なときか、わざとそう振舞っているかのどちらかだが、この場合は後者だった。文末に明らかに静雄への当て付けととれる文章を加えてきたからだ。

「まだ根に持ってんのかよ」

 つい数日前も、全く同じような会話を臨也とした。もっとも、そのときは臨也宛のチョコレートは既にゴミ箱の中に入ってしまっていたのだが。どんな事情があれ、食べ物を粗末にするのはあまりいいことだとは思えない。それになぜかはわからないが、綺麗に飾られた箱が無造作に捨てられているのを見ると静雄は腹の奥がむず痒くなるような気持ちの悪さを覚える。だから、注意しただけなのだ。それで臨也が不機嫌になるなんて思いもしなかった。

「べっつにー。俺は食べたくない。君は捨てたくない。それなら甘いものが好きで食べ物の出処なんて特に気にしないシズちゃんが食べるのが一番合理的でしょ?なんか間違ってる?」

 何が別にだ。説明くさい口調はどう考えても不機嫌の証だろう。神経を逆撫でるように、わざと明るい声を出すのも気に食わない。いつもだったらとっくに苛ついてキレてるところだ。けれど、今そんなことをしても先日の二の舞である。
 臨也の言動の原因は俺なのだと新羅は言った。それなら、この不機嫌にもどこかに理由があるはずだ。考えてはみるものの、やっぱり静雄にはよくわからない。元々深く考えるのは得意じゃない。こないだだって、今日だって、チョコレートを食べろとただそう言っただけなのに、何をそんなにへそを曲げることがあるのだろう。

「どうしたの黙っちゃって。ほら、文句がないなら大人しく貰っときなよ」

 黙って思案している静雄に、臨也は再度チョコレートの箱を押し付けてくる。その声にはわずかだが焦りが見えた。珍しく静雄が大人しくしているから、向こうも反応に困っているのだ。こういうことか。確かに、新羅の言う通りだ。今までずっと向こうのワガママに振り回されているつもりでいたが、案外そういう訳でもないのかもしれない。
 差し出されたチョコレートを今度こそ受け取った。過剰な包装は、それだけ想いの深さを表しているように見える。見れば見るほど胸糞悪ぃ。
 バリバリっと包みを引き裂いた。綺麗な包装紙やリボンが無残に剥がされ、出てきた高そうな箱の蓋もぽいっと放る。

「ちょっと、汚さないでよ」

 床に落ちてごみになったそれらを拾いながら、言った臨也の声はどこか嬉しそうだった。なるほど、確かにこれはわかりやすい。
 箱の中に入っていたチョコレートを適当につまんで、次々に口に放り込む。きっとこんな食べ方をしたら怒られるぐらい上等なチョコなのだろうと、舌の上で溶ける甘みを転がしながら思う。空になった箱も放り捨てて、ソファから立ち上がる。コートに手を伸ばすと責めるみたいな声が聞こえた。

「なに?食べるだけ食べて帰る気?」

 コートを羽織りながら振り向くと、眉を寄せた臨也がこっちを見ていた。本当に静雄の一挙一動でころころと機嫌が変わるのだ。面倒なことこの上ないが、わかってしまえばこれほど単純なこともない。

「すぐ戻るから鍵開けとけよ」

「はぁ?」

 更に後ろで聞こえる抗議の声を無視して、玄関から外に出る。百貨店に行く勇気はないがコンビニではあんまりなような気もする。どこへ向かえばいいものか。他の女からのチョコレートをちらつかせるぐらいなら素直に言えばいいのだ。こっちが擁護するようなことを言ったら怒って、相手のチョコを手荒く扱えば上機嫌になる。遠回しな嫉妬を狙った態度は、冷静になればあまりに明け透けだった。くそ、恥ずかしいやつだ。それに当てられて、チョコの一つもくれてやろうとしてる自分も大概甘い。
 熱くなった顔を隠そうとして、マフラーを置いてきたことに気がついた。