日吉くんの家には現代日本においてその存在がもはや幻ではないかと危惧されている(かもしれない)、縁側がある。素敵な日本家屋と言われるその家を、昔から私はえらく気に入っていた。もし私が将来家を建てるときには、その存在を忘れぬよう、または保護と再興をめざして一緒に造ってもらおうと、縁側に出会ってからそんな事を決めていた。今思うと実に私は単純だった。

 その縁側にはもうずっと、去年の夏からか、或いはもしかするとそれ以上前から仕舞われてなかったのかもしれない、季節感の欠片もない風鈴があった。普段から要所要所でけじめはきちんとつける日吉くんが、出しっ放しの風鈴の存在を気にも留めないということに、少々面食らったものだった。しかしその透き通る硝子でできた風鈴は、夏以外のときに聞く音としてはどこか侘しいものがあったが、それはそれで乙なもののように思えた。

 けれども私は、それが本来の役目を果たす季節に、その場に居合わせたことはまだ一度もない。





 虫の声や風鈴の音に風情があると感じられる日本人に生まれたことに、この上なく幸せを感じる。

 少し前に、日吉くんにそう告げたことをふと思い出した。確かそれは梅雨の時期、しとしとと雨が降っていた日だった気がする。彼の家から枇杷のお裾分けを頂いて、お庭の紫陽花が綺麗に咲いたというので見せてもらっていた時。日吉くんが広げた蛇の目の中に一緒に入れて貰い、肩を並べてお庭を歩いた時だった。蒸し暑いせいで身体が火照って怠かったけれど、淡い色をして一生懸命に咲く紫陽花を見つけた瞬間、気づけば私は雨に濡れてしまうことなんて構わずに、吸い込まれるように花の元へ駆け寄っていた。


 そのまま紫陽花の下でしゃがみこんでしまった私に、日吉くんが少しだけ傘を傾けてくれたことを私は知っていた。けれど彼は私がぽつりと言ったことそっけなく、そうだな。とだけしか言わなかった。
 そっけないのはいつものことだつまたけれど、その声色がどこかいつもと違う気がして、何となく、今どんな顔をしているのかが見たくなった。後ろに佇む日吉くんをこっそり盗み見しようと試み、首を回して見上げてみると、ばちりと目があってしまった。驚いたことに、彼の目は紫陽花へではなくただ一途に私へと向けられていたのだ。
 蛇の目の赤い色が反射した、優しい顔をして私を見下ろす日吉くんの頬はふんわりと紅くなっていたように思う。彼が目尻を下げるところなんて見たことなかった。私はただ驚いた。驚いたから、彼が私を見ていた理由なんて気に留められなかった。


 何だか気恥ずかしくなった私は日吉くんから紫陽花へとすぐさま目を戻した。心臓の動きが少し速くなっていたのが分かり、そう認識した途端、かあっと熱が集まり、一気に顔が火照る。額がじんわりと汗ばんでいた。すぐ後ろにいる日吉くんに何も気づかれていませんようにと願い、どきどきしていた。熱だけでも冷まそうと思い、手でぱたぱたと風をつくってみるけれど、身体を冷ますのには及ばなかった。

 少し、心を落ち着けようと目を閉じて、ゆっくりと呼吸をする。視界が閉ざされた分敏感になったのか、雨が庭石に当たる音と、そこら中から聞こえる蛙の声がよく聞こえてきていた。耳に響く音が心地良くて、じっと耳を澄ませていたところ、目を瞑り微動だにしなくなった私を日吉くんは本気で心配し、ていた。失礼な人だと思った。

 雨ばかり降っていつも空が暗い。そんな梅雨の時期だけれど、私は嫌いではなかった。雨の日、湿気を含む空気が重くて、じっとりとした熱気が身体に纏わりつくのは確かに嫌だった。けれど優しい雨の音は聞いているとすごく落ち着くし、お気に入りの傘をさしていれば、心なしか空も明るく思える。
 いつのまにか同じ様に、私の隣にしゃがんでいた日吉くんにそう言うと、またそっけない返事だけが返ってきた。けれどもきっと、また優しい顔をしているに違いなかった。

 その時、微かな風が吹いて、縁側にある風鈴から小さく涼しげな音が聞こえた。
 そこにはもうすぐ、雨上がりの後には、暑い夏が来ていた。


 もうすぐ、今度は向日葵が咲く。ぽつりと師匠はそう言った。また、夏に見に来てもいいのだろうか。
 反応のない私に彼が言葉を続ける。


「今度は、西瓜でも用意しておく」

 少し乱暴に、私の頭を撫でた手は温かかった。











 遠くの空に、大きくて真っ白な入道雲が見える。ありきたりな喩えだけれど、それは甘い甘いソフトクリームのようだった。首筋に汗が伝う感触が擽ったくて、うっとおしい。じりじりと肌が焦げている気がする。そんな中、すぐ側、私の右手のほうで、運ばれてきたばかりだというのに、からんっ、と、サイダーの入ったコップの氷が溶けて沈む音がした。


 生温い風が頬を撫でる。その度に頭上で、太陽の光をきらきらと反射するそのガラスの風鈴は、ちりりん、と涼しげな音を奏でていた。確かに耳は涼しくなるような気がするけれど、茹だるような熱さを和らげるには程遠いものだった。
 大合唱をする蝉の声が負けじと響く。背後から扇風機で送られる風も温い。午後、空高くにある太陽の光を遮るものはないようだった。目の前にはそんな光を受けてきらきら輝く背の高い向日葵がたくさん咲いていた。太陽に焦がれて咲く向日葵は、一生懸命に背伸びをしていた。一途なその姿に心を打たれてしまったようで、目を離すことができなかった。



「そんな日向に出る馬鹿がいるか。死ぬぞ」

 頭上から聞こえた辛辣な言葉に反応して、顔を上げた私の視界に広がったものは、風に揺られて流れる亜麻色の髪と、眉根を寄せてもなお端然として美しい、日吉くんの涼しげなお顔。そしてぴかぴかの白いお皿に乗せられた、真っ赤でみずみずしい、美味しそうな西瓜だった。

 にへらと締まりのない顔で笑った私に、彼は溜息をつきながら、隣に腰を下ろした。


「今日も暑いですね」
「夏だからな」

 大きめに切られた西瓜の一つを手に取り、早速頂くことにした。歯をたてる度に響く、しゃく、という音も涼しげなものだった。
 俯いた拍子にはらりと流れる横髪がうざったい。汗ばんだ頬にぺたりと張り付いてくるのがむず痒くて、耳にかけるけれど、それでも落ちてくる。何度かそれを繰り返したところで、痺れを切らしたらしい日吉くんが私の背に回り込んだ。

「いらいらする」
「やだ、見てたんですかいやらしい」
「輪ゴムしかないけど、いいよな」
「嘘、うそです。痛い痛い。思ってないよそんなこと。……でも、私、汗かいてる」
「放っておくほうがいらいらする」

 そう文句を言いながらも私の髪を綺麗に結い上げてくれた。男である日吉くんのほうが、女の私よりも上手かった。少しショックだった。

「わーありがとう」
「……暑い」
「水浴びでもしますか」

 甘い西瓜の蜜が全身に染み渡る。相変わらず、汗は止まらなかったけれどなんだかもうそれさえも心地良く思えてきた。


「西瓜の種埋めてもいい?」
「母さんに聞け」
「じゃあ埋めよう」
「人の話を聞け」


 そして来年になって、また夏が来たら、この縁側に並んで、同じ様に西瓜を食べれたらなと思った。











12/0624



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