ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指さして云いました。
線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍らせて云いました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」
 カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。
  と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
 いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急きこんで云いました。
 ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。








 午前7時、窓から射し込む陽射しの、焼けるような熱さで目が覚めた。外では今日も、蝉の声が変わらずに響いている。
 日の光で熱を帯びた布団がうっとおしかったのか、何時の間にか蹴り飛ばしてしまっていたようだった。布団を集めて、少し頭が冴えた所でやっと立ち上がると、暑さで眩暈を覚えた。

 今日は何をしようか。考えたところで、することは決まっていた。この時期にオフの日を貰っても、大人しく休む人なんて、あのテニス部には誰一人いないだろう。けれど少しも休まないで打ち続ける、そんな馬鹿もまたいない。少しもラケットに触れないでストレスを溜めるくらいなら動いたほうがいい。それ位、理解しているつもりだ。
 とりあえず体を動かしたい。じっとりと纏わり付く夏の日特有の湿気のせいなのか、爽やかに晴れ渡る朝なのに、もやもやするこの気分を晴らしたかった。







「さあ、」
ジョバンニは困って、もじもじしていましたら、カムパネルラは、わけもないという風で、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着のポケットにでも、入っていたかとおもいながら、手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入っていたろうかと思って、急いで出してみましたら、それは四つに折ったはがきぐらいの大きさの緑いろの紙でした。車掌が手を出しているもんですから何でも構わない、やっちまえと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧にそれを開いて見ていました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていましたし燈台看守も下からそれを熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考えて少し胸が熱くなるような気がしました。
「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。
「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。
「よろしゅうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。








 ふと、自分は今日、何か夢を見ていたのではないかと思い出す。その記憶はひどくおぼろげで、夕暮れの今となっては覚えているのは夢を見たということだけだった。

 一体今日は何なんだろうか。もうずっと、程良く疲れるまで適当にストリートで打ち合いをしていたのにも関わらず、今朝に感じた違和感は胸に居座り続けているままで、解消される兆しなど全く見られなかった。
 そして今、もう一つ、夢を見たということ。それが自分にとってすごく大事なことのような気がして、思い出せないことが、更に胸の内の違和感の存在をじわじわと刺激する。何もできずに果てはむずむずと、脳が痒いなんて錯覚さえ覚えるほどに、焦っていた。


「あせ、る?」


 何に対してだろう。
 頭上でやかましく鳴き散らしていた全て蝉の声が、ほんの一瞬だけ、水を打ったようにしなくなった気がした。
 木陰の下、ベンチに腰掛ける俺の目に映る、少し離れたコートでの時間は滞りなく流れているのに、俺の周りだけが時が止まってしまったかのようだった。一体何が、どうして俺を早く早くと急かすのか。

 一陣の風が、その時吹き抜けていく。遠くに見える木々を揺らすほどの風だったらしいが、この暑さを緩和するには及ばないものだった。
 すぐにハッと引き戻された意識は、右手のほうから、風に煽られ紙が擦れる音がするのを聞いた。バサバサと千切れんばかりに揺れるそれは、もし綴じられていなかったら確実に今の風で飛んで行ってしまっていたであろう。手を伸ばして取った、自分が座る隣にあったそれは、先日図書館から借りてきた本だった。そういえば、暇があるときに読もうとこの鞄に入れたのは覚えている。しかし自分がいつ、鞄からこの本を取り出したのか、全く記憶がなかった。蝉は何時の間にか、また鳴き始めていた。







 ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。








 ページを捲る指がそこで止まる。頭が、殴られたかのような鈍痛が、じわじわと広がる。視界がぼやけて、夕日で照らされたページの上だけが白く浮いて見えた。それからその後は気づくと俺は、ただ透さんに会わなければという思いだけで、あの丘へと走っていた。





 夢を見たのは、あの本のことだった。どうして思い出さなかったんだろう。早く、透さんへ会いに行かなければ。ぐるぐると不安ばかりが頭の中を巡る。あの丘まで、数分しかかからないような距離のはずなのに、もう随分長く走り続けてているような気がした。暑くはなかった。何故か、嫌な寒気しか、感じなかった。

「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。

 銀河鉄道は、死者を送り届けるためのものだ。ジョバンニとカムパネルラの、最後の旅の話だった。
 透さんは銀河鉄道を待っていると言っていた。ただ、透さんと話がしたかった。あの泣きそうに潤む瞳を見たかった。透さんは銀河鉄道には乗れない。乗っては駄目なんだ。乗せたくなかった。だって、透さんが望んでいるのはきっと。






「透、さん」

 林檎の香りがする。幾度となくここで香った林檎は、自分達に何をもたらすのだろう。

 赤い日の光を浴びて、そこには透さんがいた。振り返るその頬はまるで、苹果のようにつやつやとした紅い色をしていた。

「日吉くん」

 丸く開かれた目は、突然の俺の来訪に驚いているようだった。

 全力で走ってきたはずなのに、息苦しさは全く感じなかった。それよりも今、すべきことのほうが意識されていたせいだろう。本当に感じていないのに、体はいざ喋ろうとすると言葉を紡げない。気持ちばかりが急かされて、何もできない体には苛立ちばかりが募る。

「透、さ、」

 息ができなかった。伝えなければ。伝えなければ伝えなければ伝えなければ。その思いで締め付けられる胸に初めて、苦しさを覚えた。

「日吉くん」

 ひやりと冷たいものが手に触れる。透さんの手だった。

「ゆっくりでいいですよ。どうか、しましたか」

 穏やかに笑う、目の前の透さんが、一瞬のうちに胸にある重い塊を取り除いてくれたようだった。ふわりと吹く風にのって、あの林檎の香りがした。
 大きく息を吸うと、もう苦しくなかった。透さんのひやりと冷たい手へ俺の手は熱を分ける。

「会いに行きますから」

 突拍子もない言葉にも透さんは何か感づいたようだった。少し眉を下げたその顔はもう何度も見ていた。俺はいつも透さんを困らせてしまう。そうしたいわけじゃない。そうじゃないのに。いつもそれは伝わらないんだ。

「俺が、あなたがここに残る理由になる。だから、銀河鉄道なんて待たないでください」

 困ったような顔をしないでほしい。黙ったままで俺を不安にさせないでほしい。お願いだから、ただ、ここからいなくなるなんて、望まないでほしいだけなんだ。










12/0503

文中引用:銀河鉄道の夜 宮沢賢治著


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -