「こんばんは、日吉くん。今日も星が綺麗ですよ」

  風に乗って聞こえてくる、ラジオからの音楽に耳を傾けてひたすらに上を目指し歩いていると、何時の間にか、眼前にはもう見慣れてしまった光景が広がっていた。
 ただ未だあまり慣れないのは、視界が開けたところで見えた、自分を出迎える彼女の明るい笑顔だった。

「今日もお疲れ様です。毎日こんなとこで寄り道しても大丈夫ですか」

 その問の答えを面と向かって、自分の気持ちを包み隠さず正直に透さんに言うのはとても恥ずかしかったので、笑顔を向けてくる透さんへ俺は苦笑いを返すしかできなかった。

 ここ数日の間、ひとつだけ気がついたことがある。何をするでもなく、毎日太陽が沈んで星が見え始める頃になると本当にどうして、透さんの言うように寄り道などする体力も残っていないはずなのに、自分はここへ来るのだろう。
 お互いよく話すというわけでなく、透さんはたまに不自然な程饒舌になるけれど基本的には考えている事のほうが多いように思う。沈黙している間が、ここで二人過ごす時間の過半数を占めているであろうにも関わらず、そこに気まずさはなく、むしろ不思議な程に癒される何かがあった。
 つまり俺は透さんから、新聞のネタになるような話を聞こうとここへ来ている訳ではない。透さんの事自身に、興味があるから、こうやって足繁く彼女のもとへ通っているのだ。

 押し黙って星を見るその横顔からはあまり表情が伺えず、いつもそれがなんだか自分を寂しくさせた。
 透さんがつけているラジオからは、そういった物に疎い俺でも分かるような、昔の名作に数えられる映画の音楽が流れていた。どうしてか、こういったものがとても好きなんだと、彼女は前に言っていた。けれどその事を自分に話す彼女は、やはりどこか寂しそうに見えたのだ。

 そう思う根拠を求められれば俺の目だけだという返事をしなければならない。星空を見つめる目も、俺を見つめる目も、そのどちらもの更に深く、光すら届かないような黒い色をしたその奥に、他人に気取らせないように仕舞い込んだ何かがあるような気がした。
 どうして、そんな顔をするのだろう。どうして、俺には彼女がそんな風に見えるんだろう。爛々と輝く星空をじっと見つめるだけでは、どちらの問の答えもまだ分からなくて、俺はそれがどうしようもなく悲しく思えて仕方なかった。

「星が、好きなんですか」

 かさり、と草の葉が擦れる音がした後、ラジオから聞こえるピアノの音に混じって、隣から、彼女の声が聞こえた。
 その声のする方を素直に向くと、星を見つめていたはずの彼女の瞳はいつの間にか確と俺を捉えていて、相変わらず表情はよく分からないままだが、何か強い意志が透さんをこうさせているように思えた。横になっていたはずの体は起き上がっていて、膝を抱え、小さく、丸くなって彼女は草の上に座っていた。

 何が言いたいのか、透さんの言わんとしていることは、何となくだが分かる。じっとその目に見つめられていると、口を開かないでも、問いただされているような気分になった。何故か、氷に触れたときのように、背筋がひやりとした。透さんは俺を見ているようで見ていないようだった。光が届かないその瞳の奥にある何かが、今少しだけ垣間見れたような気がした。

「透さんは、好きですか?」

 質問を質問で返すという、少し狡い手で逃げることを選んでしまったことを、直ぐに後悔した。目を逸らそうと試みるけれど、鎖に絡めとられたかのように、視線は動かすことができなかった。
 透さんの瞳の奥にあった、氷のようなもの。その冷たさが不意に和らぎ、表情のなかった透さんの顔には笑顔が戻った。背中にまとわりついていた冷気も風にふかれてどこかへ行ってしまった。眉尻を下げて、小さく笑う透さんは、ぽつりと、狡いですね、と言った。

「好きですよ」

 風の音に掻き消されてしまいそうな程小さな声がそう呟いた。いつもの透さんらしくない、その覇気のない声にぎょっとした俺は、星空へ戻していた視線を彼女へ注ぐ。透さんは膝を抱えたまま、草の上をじっと見つめていた。

「星は好きですよ。私が嫌っちゃだめなんです。嫌いになんてなれません」

 細く呟いた声には聞いていて痛々しいものが含まれていた。それは透さんの、悲痛な叫び声のようで、一言でも聞き漏らすようなことはしたくなかった。透さんの方へ体を向けようと地面へ手をつく。音が聞こえたようで、透さんは少しだけ顔を上げて、俺を見るとまた小さく笑ってくれた。

「私の話、聞いてくれますか?」
「話すのが俺なんかでよければ、ですけど」

 その切な願いを断るなんて選択肢は俺の中にあるはずがなく、さも自然に俺は頷いた。




 ゆっくりと、透さんが深く息を吸う。目を瞑って、大きく息を吸って、そしてゆっくり息を吐く。吹き付けてくる風からは、微かにまた、あの林檎の香りがした。
 目を開けた透さんからは、再び表情が見えなくなっていた。

「私は、有島透です」
「……知ってますよ」

 突然深呼吸をしだした透さんを見て、思わず身構えていた俺に透さんは、真面目くさった顔でそんなことを言うから、拍子抜けした俺は肩の力が一気に抜けた。

「そうでした。じゃあ、これは?私は、両親がもういないんです」

 そうした矢先に、微笑んだままの透さんは、淡々とそう告げた。
 先程とは打って変わって、いつもの凛とした声が、痛い程辺りに響いて、静寂が波紋のように広がった。その言葉は、まるで頭を思いきり殴られたかのようにじんじんと、俺の頭蓋骨に反響していた。
 目の前が少し霞み、耳には重い余韻が残っている。今まで聞こえていた風の音や、ラジオから流れる曲など全てがその瞬間遮断されて、透さんの言葉しか聞こえなかった。時間が止まったように、本当に動けなかった。
 俺とは対称に透さんは至って落ち着いた様子だった。ハッとしたように黙り込んだ俺を見た、薄笑いを浮かべる透さんはすぐに困ったように目を伏せてしまう。けれど口から出る言葉が止まる様子はなかった。


「私が、小さい頃に、二人とも、事故だったんです。雨の日で、私の、誕生日の日に」

 震える声がその苦しさを、全て俺に教えてくれた。膝の上で重ねられていた小さな手はぎゅっと握りしめられていた。

「誕生日だから帰ってきてくれるんだと思うと、嬉しくて、私、早く帰ってきてねって言って。私のせいなんです」
「そんな、」

 そんなこと、ないと。そう言おうとしたけれど、言葉を続けられなかった。ぽつぽつと出て行く言葉が体に重く溜まっていく。懺悔をする透さんがやはり美しくて、見ていられないほどだった。

「私は、私を愛してくれる人を不幸にしてしまう」

 震える透さんの声に、心臓が大きく跳ねた。



 透さんの言葉を最後に二人ともが口を開かなくなってしまった。ラジオから流れ続ける陽気なジャズがだけが、この場において噛み合わないパズルのピースのようで落ち着かない。
 何か、話さなければ。そう思えば思う程思考は鈍くなり、透さんの言葉ばかりが脳内で繰り返される。自分が思っていたよりも衝撃をうけているらしかった。頭が真っ白になるというのはこういう事を言うのかと、薄ぼんやりした中でそれだけ考えた。

「……日吉くんは、銀河鉄道の夜を、読んだことは?」
「いえ、ないですけど……」

 覚束なかった俺の思考は、透さんの声によって戻された。突然がらりと変わった話をする透さんに戸惑いながらも返事をする。安堵したように笑う透さんがよく分からなくなる。

「日吉くん、さっき私に聞きましたよね。星は確かに好きですよ。だけど、私は星を見るためにここにいるんじゃないんです」

 吹き付ける風とともに、また林檎の香りが鼻腔をくすぐる。いつのまにか解かれていた透さんの手は、揺蕩う黒髪が散らばってしまわぬように添えられていた。

「ずっと待ってるだけなんです。UFOは壊れてしまったから。だから、私を見つけて、乗せてくれる銀河鉄道を待ってるんです。切符はないけど、今、あなたが届けてくれたような気がしました」

 笑う透さんに俺は何も言えず、ただぼんやりとその顔を見つめていた。
 深まる夜の闇に滲むように、場違いに明るいジャズだけが何も知らないまま流れていた。










12/0406


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