もし、この前の一件全てが夢だったら、それが本当ならどんなによかっただろうか。あのとき確かに私は自分の意思で頷いた。だけどこうやって思い返してみて、別の選択肢を選べばよかったと後悔しているのもやはり、同じく私の思いなのだ。
というような、最近の私の悩みの種に関する事が、先程からぽつぽつと思い浮かんでは消えていく。
要はただぼーっとしているだけだが、こうやって誰にも邪魔されず思案に耽るのも久しぶりに思われる。最近はやたらと色々ありすぎた。一人でいるこの時間がこんなに静かだと思えるほどに、私の周りは随分と賑やかになってしまったのだ。
ファミレスでの一件から、幾日か過ぎた。あそこで交わした契約が施行される気配は、まだない。
放課後の教室の中、すっかり冷えたカフェオレを傾けながら、顔を机に伏せる。この季節は夕日が丁度いい角度で窓から差し込んできて、ドラマチックないい雰囲気を醸し出していた。そこは青春を夢見る初々しい男女になんともしっくりくる空間に仕立て上げられていて、正直、私にもそんな青春群像劇に憧れていた時期はあった。
帰ろうと思えばいつでも帰ることができたのだが、その日は何となく、気乗りせずにだらだらと居残っていた。していたことと言えば考えることで、考えることはたくさんあったし、別段退屈に時間を浪費していたわけではない。放課後を熱心に部活に費やす下級生に勝るとまでは言えないが、程々に中身のあった時間を過ごしたとくらいならば言える。中身があるとは言ったが、長い自問自答の末に、答えを導き出せなかったのもまた事実で、結果を見れば放課後のこの時間はやはり無駄だと分類されるのであろう。
例え無駄であっても、こうやって一人で考える時間というのが私は好きだった。
はたと思い出したように時計に目をやると、もう既に最終下校時刻の10分前になっていた。自分がこんな時間まで残っていたことに今更ながら気がついて、窓から見えた空はまさに赤が消えていこうとしていて、急に妙な焦りを覚える。
飲みかけの冷えたカフェオレを持ち、机の上の鞄を肩に掛け、無人の教室から逃げるように急いで昇降口へ駆けた。
遠く、そこかしこから聞こえる運動部の掛け声や、抑制のない吹奏楽部の演奏に後押しされ、私は階段を駆け降りていく。息の上がる音とリズムの良い足音が、広い廊下に響くほどに静かだった。途中、窓から見えた夕空の斜陽と迫る闇とのコントラストが、呆けていた私の脳を醒ます。
「……わっ!」
「うおっ、」
勢いよく駆け降りた階段の先、昇降口の目の前でぶつかりそうになったのは仁王くんだった。あと少しタイミングがずれていたら、衝突は免れなかっただろう。
突然目の前に現れた私に驚いたらしく、普段の仁王くんから絶対に聞けないような咄嗟の声が漏れていた。
驚きで一瞬丸くなった猫のような瞳はすぐに戻り、打って変わって口元がにっと不敵な孤を描く。
「わざわざ見つける手間が省けたぜよ」
その一言で本能的にまずいものを感じとった私は臨戦体勢をとる。とったところで、運動部男子を目の前に万が一にでも私が勝つ確率なんて九割九分九厘、ないも同然だった。
「……お前、まさか幸村の差し金か」
分かり切っていたことだが、最終確認として、そう仁王くんに問いかける。もちろん臨戦体制はとったままで。すると仁王くんはにやりと嫌な笑顔をしたものだから、これはもう間違いないと私は確信とともに絶望した。
「男子テニス部からやってきました。仁王雅治15歳です。趣味は人を騙すことです」
「知ってるよ!オーディションみたいに言うな!」
「隙ありっ」
「ぎゃっ」
律儀にもツッコミをして不覚をとられた私は何と仁王くんに足を払われて転けた。正しい受け身なんぞただの女子中学生が知る由もない。故に無様な悲鳴を上げた私はこれまた無様に床に尻餅を着いた。
「お前さん、もっとこう、きゃあっとかそういう可愛い声を出せんもんか」
「うるせーしね。ただの女子中学生に足払いとか……手加減って知ってる?!この悪魔!」
「おー怖……ま、今のは俺もやりすぎやった。許しちゃらんね」
まだ立ち上がれずにいた私にそう言って仁王くんは腕を差し出す。掴まる気は更々なかったが、このままだといつ立てるか分かったもんじゃないので、渋々その手を頼る事にした。
「貸し一、じゃけんな」
「は、ちょっおま」
手をとって、体が傾き出した頃にはもう遅かった。引っ張られたのだ。それはもう想像できないようなすごい力で。
「な、なになになに!おっ降ろしてえええ!」
「ってえ!暴れなさんな!」
「無理無理無理絶対無理降ろせこの詐欺師!非道!鬼畜!ほくろおおお」
仁王くんに引っ張られ立ち上がった私は、そのままひょいと片脇に抱えられ、運ばれようとしていた。仮にも年頃の女子を片手で、しかも斯様な格好で荷物のように扱うとはいかがなものか。
「うるさいのう……じゃあおぶさるか?」
「嫌だ!そんなの幸村に見られたら殺されるよ!でもこんな荷物みたいな格好見られるのも嫌だ!」
「じゃ、姫抱きか」
「そっそれを選択肢に入れるなあ!」
「全く、恋する乙女は面倒じゃけえ」
「恋じゃねえ!まぎれもなくこれは人としての羞恥だよ!」
その後、最終的に折衷案で何故か私は不注意でこけたという設定になり、そのため仁王くんの肩を借りているということで状況は何とか落ち着いた。