慰み愛でておくれと虚を浸した | ナノ

 怯えながら突き付けてきた鋭利なそれを、ただ黙って握り込んだ。間抜けな悲鳴をあげたまま、震える手がそれから離れた。目の前の中年男が膝からがくんと崩れ落ちる。握った手に力を込めると、流れ落ちた血が後を追って安っぽい床を汚した。


「…こうなりたくなかったら、這いずり回ってでも頑張りなよ」

 あんた、痛いの嫌いだろう? おれは好きだけど。
 握り落とした包丁が音を立てて床に落ちる。その音に跳ねる身体すら滑稽だとおれは男を見下ろしていた。



「ただいま戻りましたー」
「あっ、おかえりなさーい」
「おまえまた債務者置いてきたのか」
「おれが逃がしたことあります?」
「従業員のくせに生意気な…」
「あーそりゃすいませんね」


 ちゃんと連絡先聞いてバイト先紹介してきましたってー。
 男が持ってた取り敢えずの有り金を社長の手に握らせる。挨拶もそこそこに、社長とのやり取りにもならない会話を済ませたところで新しい顔に気付く。自分のデスクらしき場所からおれをじっと伺うように見ている女の子。…若い。



「…ダレ?」
「あ、おまえまだ紹介してなかったか。この子うちの顧問魔法使いだから」
「あっ、よろしくお願いします」
「あ、ども。へー。空飛べるんすか?」
「この前木刀使って飛んだよ」
「えーすご。今度見せてくださいよ」
「あっ、はい!」



 ま、あんまり会うことないと思うんすけど。
 忙しいんですか?
 そうなんすよ極悪非道な社長サンがこき使ってくれるおかげで超多忙極めててーあっこの人ロリコンなんで気を付けてくださいねーなんかあったら仁科さんに言ったらいいっすよーおれも困った時は助けてあげるしこの人ただでさえこんな顔なのにロリコンで手出すとか笑えないっすからねーあっちなみにおれはゲイなんでノープロブレムってやつっす。
 よしちょっとおまえそのやけに饒舌な口を閉じろ話がある。
 社長に襟を掴まれたおれは笑顔でひらひらと手を振って奥へと消えた。扉が閉められたかと思うと、そのまま腕をぐいっと掴まれる。治療はおろか応急処置すら施していないその手に、社長は深い溜め息を吐いた。




「またやったのかバカ」
「バカって言うほうがバカなんすよ」
「つまんねえこと言ってねえで手ェ出せ」
「え、やです。ロリコンうつる」
「殺すぞ」


 社長が言うと洒落になんないですってー。
 ならそのふざけた口を閉じろ。
 洗面台に立ったおれの後ろから社長が腕を掴んで血を流していく。ある程度傷口が見えるようになったところで水を止め、マキロンをこれでもかというぐらいじゃばじゃばかけられた。痛みには慣れてしまったので、このぐらいの痛みどうってことない。手際良く治療を続ける社長に、おれは黙って胸ポケットから煙草を一本取り出し火を付けた。



「おまえ煙草何だっけ」
「クールマイルドっつってんじゃないすかいい加減覚えてくださいよ」
「煙草変えろよ」
「社長が変えてくださいよ」
「やなこった。…ほらよ、終わったぞ」


 煙草を灰皿に押し付け、綺麗に包帯が巻かれた己の手を見て棒読みよろしくでお礼を言うと怪訝そうな顔をした後に、おまえからは感謝が感じられない、と鼻で笑われた。
 感謝してますよー、と首に巻きつくように腕を回してくちづける。サングラスが当たって邪魔だったので、ただ軽く触れあうだけのそれを終えてからおれは社長のサングラスを奪い取った。

「ね。やっぱり社長そのサングラス似合わないっすよ」
「ああ? うるせえな」
「だって胡散臭っ」
「もう黙れ」


 今度は社長のほうからくちづけられて、後頭部を抑え込まれたおれはくぐもった声を出す。その隙に社長の舌がおれの口内に侵入し、荒々しく掻き回した。おれが欲しいのは激しいだけのキスじゃない、痛いぐらいのそれ。キスは幸せな気持ちになるから好きじゃない。それを知っていても社長はおれにキスを続ける。
 長かったそれが終わるとき、おれは崩れ落ちてしまわないように社長の服を掴んで呼吸を整えるのがやっとだった。社長は余裕そうにぺろりと唇を舌で舐めている。



「由紀夫さん今日おれ頑張った超頑張った」
「おまえはいらんことまで頑張りすぎなんだよ」
「…だって、足りないんだ」
「…お前なあ」
「痛くないと、不安になる」


 だっておれはずっと今まで痛みを感じてきて、それが生きる意味だった。痛みがなくなったら、おれは死ぬしかないんだよ。お願い、おれから痛みをとらないで。痛みをちょうだい。
 由紀夫さんの襟を掴んだまま呟くおれを、そんな目をしながら縋るんじゃねえ、と頭を撫でられる。おれが社長の呼び方を由紀夫さんに変えるとき、それは甘えたい―つまりいじめてほしいとき。
 やさしくしないで、と呟くおれは初めてじゃない。



「今日、してよ」
「…好きなやつに酷くしなくちゃいけない男の気持ち考えろよ。おまえは」
「でも由紀夫さんは酷くしてくれんだよね。おれが好きだから」
「…ほんとにおまえはいちいち癪に触るな」



 帰ったらちゃんとかわいがってやる、それまで我慢しろ。
 奪い取ったサングラスを掛けてニヤリと笑う由紀夫さんに、悪人面の由紀夫さんにはやっぱりサングラスが似合うなあ、と矛盾した見解を持つおれは由紀夫さんと痛いこと以外はさして興味ないらしい。




「由紀夫さん、だいすき」
「…ったく、俺もなんでおまえみたいなやつ好きになっちまったんだかな」

 狂ってやがる。頭を掻く由紀夫さんに、一緒に狂おうよ、頬に手を伸ばす。お前と一緒にいる時点で狂ってるさ、由紀夫さんの唇が近付いてきたのでゆっくり目を閉じる。
 ねえ、痛みに飢えたおれを奪ってみせてよ。由紀夫さんに問い掛けるようにまた唇を重ねたそれは昼過ぎぐらいのこと。





fin.

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