[01] | ナノ

 俺は、昔から父さんが大好きだった。


「はい。今家を出るところです。いえ、大丈夫です。ええ…了解しました」



 通話を終了して携帯をポケットにしまう。先程の言葉は訂正しよう。今でも大好きだ。父さんが俺を愛してくれた記憶がなくても、俺は大好きなのだ。嬉しそうに父さんの話をする母さんを見るたびに、このふたりの子供でよかった、と心から思ったそれは今でも嘘じゃない。
 ただ、うちは家柄的に仕えるものだったらしく、父さんは仕える主がいた。その主である政宗は年が近いこともあってか俺によくしてくれて弟のように可愛がってくれたし、家のみんなも優しかった。不自由だったとはさして思わない。ただ、母さんがいつも言っていたこと。




「お父さんのこと、許してあげてね」

 困ったように笑いながら俺の手を握る母さんの手を、大丈夫だよ、と笑って握り返すのはもはや日常茶飯事だったように思える。
 父さんが忙しいのは子供ながらにわかっていたし、わがままを言える立場でもなかった。遊んでもらった記憶はおろか、挨拶程度の会話ぐらいだ。交わすのは。もちろん敬語で。
 決定的だったのは、小学生の時に満点をとったテストのこと。先生にも友達やクラスの子にも褒められて、嬉々として俺は家に帰った。早く父さんに見せたかったのだ。




「悪いが、今忙しい。後にしてくれねえか」

 突き放されたみたいだった。俺の返事を聞くことなく父さんは取り掛かっていたであろう書類に向き直り、俺は小さく、はい、と声を絞り出してその場を去るのがやっとだった。
 当時の俺には衝撃的でショックを与える出来事だったが、母さんは喜んでくれた。その光景を見ていた成実もすごいと言いながら頭を撫でてくれた。嬉しかった。
 そうだ、俺には母さんがいるじゃないか。父さんには暇ができた時に見せればいい。
 そう信じて、テストやら絵やら工作やらは自室の奥に閉まっていた。それも溜まる一方で、勿論一度も父さんに見せることなく今日まで来た。
 けれど、母さんは死んでしまった。病気だった。



「母さん、俺、二十歳になったよ」


 泣きはしなかった。母さんはもともと身体が弱かったし、苦しそうにしていた姿は今も脳裏に焼き付いている。
 父さんは自分の役目を終えた後、すぐ仕事に戻った。薄情な人、だとは思わなかった。だってそれは俺にとって至極当たり前のことで、普通だったからだ。
 特に当主である政宗は俺とあまり年が変わらないのに立派に社長としての責務をこなしていたし、それにはもちろん父さんの存在が必要不可欠なのだ。
 そして成人した俺は、今日この家を出る。



「若ー。そろそろ時間じゃない?」
「ごめん、すぐ行く」

 成実の声に返事をして、纏めた荷物を持つ。いってきます、と呟いて返事の聞こえない自室を後にした。


「荷物これだけ?」
「うん、必要なものは向こうで揃えてくれるらしいし。…じゃあ、みんなによろしく」
「本当に呼んで来なくて良かったの?」
「みんな忙しいだろうからさ。わざわざごめんね」
「気にすんなって! 俺が来たかっただけなんだからさ!」



 成実のこういうところは本当に好きだ。小さい頃から父さんと触れ合えなかった俺にとって、成実は兄のような存在だった。独りでいる俺をほっとけなかったのだろう。
 きっと彼にも仕事はあるだろうに、息抜きだとかサボる口実だとか軽く言ってのけては俺に微笑んでくれた。



「ね、若。なんかあったらいつでも言ってね」
「大丈夫だよ」
「もー、昔っからそう言うんだから! …身体に気を付けてね」
「…ありがとう。いってきます」
「ん、いってらっしゃい!」


 一瞬心配そうに眉を下げた成実が見えなくなる距離まで歩いて、胸に手をやる。俺はこの身体に爆弾を抱えていて、と言ってもまあたいした症状はなく、たまに胸がキリキリ痛むぐらいだ。この病こそ、母さんを蝕んだものであった。そのことに絶望しなかったのは母さんとお揃いだからであろうか、勿論表向きは素直に喜べないのだけれど。
 荷物を抱えながら歩いていくと、紫色の車のそばに見慣れた姿を見つけた。俺の姿に気付くと、笑顔で手を振ってくれた。少し早歩きでその姿に駆け寄る。




「すみません竹中先輩、お待たせしました」
「ああ、早かったね。お別れは済んだのかい?」
「うーん、みんな忙しそうだったので…わざわざ仕事を後回しにするほどのことでもないでしょうし」


 …まさか誰にも伝えずに来たのかい? と言う竹中先輩に慌てて成実が来てくれたことを伝える。
 何も全員来なくとも、一人が知っていればその事実を伝えればいいだけの話。まあ本当は誰も来なくていいと思ってはいたのだが、俺は絶対行くからね! と成実が聞かなかったのだ。




「…君は、相変わらずだね。いつも他人を優先する」
「えっと、すいません…」
「ああ、謝らなくていいよ。身体の具合はどうだい?」
「問題ないです。竹中先輩こそ」
「僕も至って良好だよ」


 それじゃあ行こうか、と笑って俺の荷物をさり気なく持って後部座席に入れると竹中先輩は運転席に座る。俺も後に続いてシートベルトを締めると、出発するよ、との竹中先輩の声にこくんと頷いた。
 外の景色に視線をうつす。空は嫌というほど晴れ渡っていた。





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