;01 | ナノ

 それはなんでもない日の、ほんの些細な出来事だった。



「あっ…」
「っと、悪い。怪我ねえか?」
「………」
「…?」


 教室に向かう途中のこと。特別に急いでいるというわけではなかったのだが、曲がり角から表れた姿に反応するのが遅れてしまいぶつかってしまった。
 俺はなんともないが、ぶつかった相手のほうはその弾みで尻餅をついてしまったらしい。男子にしては小柄で細い彼に手を差し伸べると、硬直したようにピタリと動かない。しょうがないので、手を差し伸べる姿勢のまま次に発されるであろう言葉を待っていた、ら。



「すいませんでした!」


 そりゃもう、誰が見ても立派な土下座を決められた。




「ん? えっ…は?」
「すいませんどなたか存じ上げませんがすいません知らなくてすいませんおれなんかがぶつかってすいません」
「や、ぶつかった俺も悪、うおっ」
「も、もしかして怪我したとか…!」
「俺は別に大丈夫だけど…」



 額を床にぴったりつけているであろう綺麗な土下座のまま謝罪の言葉を並べられたかと思えば、いきなり顔を上げたので思わず声を上げる。そして困ったような表情で出た言葉がこれだ。自分に怪我がない旨を伝えバスケしてるし、と続ければ彼の表情がぴたりと止まり、数秒の間―その後、泣きそうな表情に悪化した。
 え、俺なんかまずいこと言ったか?


「おい、大丈―」
「な、殴ります? 殴りますよね?」
「は?」
「すいませんこんなことで許してもらえるとは思ってないですけどすいません本当にすいませ…っ」



 だからなんで土下座なんだよ! と突っ込みたいのを抑えたところで周りを漂う空気に気付いた。ここが廊下で、この後輩が俺に向かって土下座している図はどう見ても悪目立ちしていた。
 これはよくない。非常にまずい。ただでさえ怖く見られがちなのにこの図は見る人によっちゃいじめに見えてしまうと悟った。向けられる疑いの視線が語っている。怖い先輩に絡まれている可哀想な後輩がいる、と。
 俺の経験上、ここでいくら否定しようと疑いは深まるばかりだということは明らかだった。

「おい」
「っはい、」
「場所変えるぞ」


 仕方ない、と未だに綺麗な土下座の体勢を崩さない彼の肩を軽く叩くと、顔を上げた彼の瞳が不安そうに揺れた。それに顔をしかめてゆっくりと歩き出す。付いて来るかどうかは賭けだったが、後ろから俺と違うリズムを刻む足音が聞こえたので構わず前に進む。
 人気のない場所に連れて行く俺のイメージはよくないだろうが、悪く見られるのは慣れっこだ。人目に付くよりマシだった。



「…ここら辺でいいか」
「あっ、の、」
「お前、一年か?」
「一年ですいませ」
「あー、いいから立っとけ。絶対に座るなよ」
「すいません…」


 人気のない場所に来たものの、先程と変わらずまた土下座しそうだったので慌てて止める。しかし止め方がちょっと厳しかったかもしれない。
 だってこいつ、隙あらば謝ってねーか?
 土下座は防げたが、腰を低くして綺麗な直角でへこへこ謝りながら紡がれる言葉は変わらなかった。




「俺はお前が誰だか知らん。たぶんお前も俺のこと知らないと思う」
「知らなくてすいません」
「で、俺とお前の関係はぶつかっただけだ。たまたま」
「おれのせいですいません!」
「いや、だからそれは俺にも非があって―」
「そんなことないですおれみたいな何の取り柄もない人間がぶつかるなんて先輩の汚点を作ってしまってすいませんでした全部おれが悪いんです」



 あっどうしよう、うざい。途中から思ってたことだけどこいつうざい。
 言うの我慢してたけどなずっと。言ったところで泣きはしないだろうが、また情けない顔で同じ言葉を紡ぐのだろう。今だって俺と目が合うたびに此方を窺うような目でちらりと見てきては小声ですいませんと謝っている。
 捕って喰おうってんじゃねーんだからよ。まあ俺のこの見た目じゃこれも言い訳にしか聞こえんのかもしれんが、昔に比べれば…って、俺の話はどうでもいいんだよ。




「えーと、つまりだな。俺とお前はほとんど関係がない」
「すいません…」
「つまりそうやってお前が謝る義理も、ましてや俺が謝られる義理もないわけだ」
「えっ…」


 本心を言ったつもりだったのに、なぜか戸惑うその表情には悲しみが垣間見えた。
 え、なんで? 俺別に悪いこと言ってないよな、酷い言い方とかもしてないし。
 それでも目の前のこいつが苦しそうに唇を真一文字に結びながらぎゅっと制服の裾を握るもんだから、俺は戸惑いを隠せない。



「あ、あの、おれ、昔から謝る癖があったっていうか、」
「…うん?」
「だ、だから、謝ってないと、不安で…っ」
「は、」
「だから謝らせてください! すいません!」


 どうしよう、薄々思ってたけどこいつかなり変だ。変人ならひとり思い当たる奴がいるが、そいつとはまた違った意味で変だ。今日だけの出会いでこんなことを思うのはいきすぎかもしれないが、絶対にあの変人とこいつを会わせないようにしなくては。
 そう密かに誓って、目の前のこいつに向き直る。薄い涙の膜で揺れる瞳は、ガキの頃に見たことがあるビー玉みたいだ、なんて柄にもないことを思ったりして。



「さっきも言ったけど、俺とお前の関係はまだ浅い」
「は、はい…すいません…」
「だから、謝られるとこっちが悪いことしてるような気になるんだよ」
「そ、そんなことっ、」
「あー、お前が思ってるのはわかってる。でもな、俺は謝られたくねえ。気分悪いし」
「す、すいません…」


 そうやってまたすぐ謝っていることに、こいつは気付いているのだろうか。…気付いてたら俺がこんなに溜め息吐く必要ないんだよな。
 俺が溜め息を吐いたからか、またすいませんと謝る。それで何かが吹っ切れた気がした。
 …そうだよ、そもそもこいつに気遣う必要なんかねえじゃん。初対面とかそんなん関係ねえ。こいつは謝らなきゃ気が済まなくても、俺はそれが嫌いだ。ただそれだけのことだ。




「お前の性格はわかった」
「は、はい…すいません…」
「が、俺はそういうの好きじゃないんでな」
「すいませっ―」
「だけど、お前のことは嫌いじゃない」
「えっ…?」


 きょとんとした表情から繰り出された言葉は、久し振りに謝罪でなかった気がする。…つってもまあ、会ってまだ数分なんだけど。この僅かな時間でもこいつが謝った回数を数えたらきっと両手じゃ足りない。



「だから、お前のその謝り癖をまずは直してやる」
「えっ!?」
「なんか不都合でもあんのか?」
「なっ、ないです…けど…おれ、物心ついた時から、その…こうなので…無理、なんじゃないかなあ…と」
「…ほーう?」
「っすいません!」


 今度は勢いよく頭を下げる。何も俺だって本気で怒ってるわけじゃないが、こう言われては火が付くというものだ。
 余計なお世話かもしれないが、嫌がっている素振りは見せていない。ネガティブであろうこいつをポジティブに変えよう、なんて無茶を企んでいるわけではないのだ。俺はただ、こいつの謝り癖を直したいだけ。
 …また俺みたいに、いきなり土下座決められる誰かのことを考えると居たたまれないしな。



「ま、いきなり変えろって言うのも難しいだろうし。ちょっとずつ変えてこうな」
「は、はい…すいません…」
「とりあえず謝るの禁止な」
「すいません…あっ…」
「…………」
「うう…すいません…」

 自分から言い出したことだから投げ出すつもりもないが、これは結構大変かもしれない。
 俺の視界で申し訳なさそうに眉を下げて謝るこいつに、これは先が思いやられる、と心の中でこっそり溜め息を吐いた。





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