きみのハジマリを頂戴します。 | ナノ

 たとえおれがあの人と結ばれたからといって、他人の恋路を制限する資格はおれにはないと思うのだ。


「カミュと別れて」

 目の前で至って真剣な表情をして言う女の子に、笑ってたほうがかわいいのになあ、と的外れなことを思いながらおれは彼女の言い分を聞いていた。
 私は女の子だし、かわいい、セックスもできる。
 そのかわいらしい唇からとんでもない言葉が出てくるものだ、と同じ性別なはずのおれでさえ感心してしまう。



「えーと、ごめん。お断りします」
「…あんた、自分が何言ってるかわかってんの?」
「日本語」
「っバカにしてんじゃないわよ!」

 私が言ってんのはそういうことじゃなくて、男のあんたなんか物珍しさで付き合ってあげてるだけなんだから私の方が相応しいって言ってんの! と歪められた顔はなかなかに怖い。
 綺麗な人ほど怒ると怖いというのは本当なんだなあ、と女の人についてのレクチャーでも受けている気分だ。


「あの人から別れようって言われない限り別れないよ、おれは」
「…あんたって、他人の気持ちも考えられないの?」
「さあ、生憎他人の気持ちが読めるほど読心術を修得してるわけでもないし」
「バカにすんのもいい加減にしなさいよ!」



 至って本気です、とでも言おうものなら今にも飛びかかられそうだ。おお、怖い怖い。これ以上ダラダラ続くのも嫌だったので、ふう、と息を吐いて口を開いた。


「なんなら奪えばいいんじゃない? おれは口出ししないよ」
「…っ、」

 彼女は悔しそうに顔を歪めると近くにあった椅子をガァンと蹴った。あ、パンツ見えた。あんな派手なパンツは穿きたくないなあ、と思いながら椅子を立て直すと後方から拍手が聞こえた。




「…盗み聞きとか趣味悪いね」
「ボクが先に此処にいたんだよ。後から入ってきたキミたちが気付かなかっただけ。それより、面白いものが見れた。興味深いね」
「ああ、気性の激しい人だったね」
「あの子の顔、すごかったね。もとから化粧でごまかしてあまり整った顔立ちとは言えなかったけど、あそこまで恐ろしい表情ができるなんて思わなかった。感心したよ」
「それ、言ったら間違いなく刺されるからね」
「刺される可能性ならキミのほうが高いよ。襲われそうになった時の簡単な対処法、教えてあげようか?」
「ありがとう。今はいいかな」



 雰囲気が柔らかくなったと思っても、やっぱり藍は藍だった。
 そう? キミは危なっかしいんだから、危機感持ってよね。と言う藍の言い方こそ素っ気ないものの、心配してくれてるんだということが伝わって嬉しかった。
 まあ座ったら。
 言われなくても勝手に座るし、此処はキミの部屋でもなんでもないよね。
 そう言いながら横に座る藍はおれにとっては見慣れたもので、座るとおれより低い身長もさして気にならない。


「意外だった」
「何が?」
「キミならすんなり頷くものかと思ってたよ」
「ああ…まあ、前ならそうしただろうね」


 本来ならばくっつくはずもなかった関係が、今こうして実を結んでいるのだ。昔のおれならあの人を好きでいられるだけでいいとか言って譲りそうなもんだが、今は違う。
 ちょっとでも好きでいてくれてるのなら、といい意味でポジティブになったのだろうか。たとえあの人に嫌われたっておれはずっとあの人のことが好きでたまらないんだろうなあ、とストーカーじみた自分の心情を嘲笑う。



「ボク、キミのそういうところ好きだよ」
「…どういうところ?」
「こういうところ」
「…はぁ、」
「で、キミたちってどこまでしたの?」
「どこまで?」
「キスから先をしたのかってこと」


 きょとんとして見せたのは藍の言葉からだ。キスより先、キス以上。以上、というからにはキスも含まれるのだろうか。瞼にキスをされたことはあったけれど、きっとそれはおれを泣きやませるためにしたまでで他意はないのだろう。
 ああ、ってことは、




「キス、してないなあ」
「え?」
「や、なんか瞼にはされたんだけど。場所的に入らないのかなって」
「…本気で言ってるの? それ」
「え、大マジだけど」

 おれは何かおかしいことを言ったのだろうか。それっきり黙った藍を不思議に思っていると、途端に聞こえた小さな笑い声。営業モードの作り笑顔こそ見慣れたものの、滅多に笑わない藍が声を出して笑う彼の心情がおれにはさっぱりわからない。
 ひとしきり笑うと彼は、久しぶりにこんなに笑ったよ、とまだ堪えるように笑っていた。



「じゃあ、カミュとのキスはまだってことなんだね」
「それどころか誰ともしたことないけどね」
「ふ、ふふっ…やっぱり面白いね、キミは」
「何が面白いのかわかんないけど…」
「…なら、ここでボクがキミの“ハジメテ”を奪うこともできるってわけだ」
「―えっ?」


 くい、と顎を掴まれてそのまま顔が近付いたその瞬間、扉がけたたましい音を立てて開かれた。びっくりして音のした方に目を向けると、カミュが珍しく息を荒くして立っていた。
 走ってでも来たのだろうか。え、にしてもなんで?
 疑問符を浮かべるおれに藍は心なしか微笑んでいる気がする。一体なんなんだ、と思っているとすぐそばに来ていたカミュに腕を引かれておれの身体は音を立てて椅子から離れた。




「さわるな!」


 そのまま押し付けられるようにぎゅっと抱き込まれ、カミュの珍しい叫び声が聞こえた。何なんだ、今日のカミュは珍しいことだらけだ。
 やっとの思いで顔を上げて捉えたカミュの表情は険しい。後ろから藍の笑い声が聞こえた。え、なにこの状況。藍は何かをカミュに呟いていたようだが、おれにはよく聞こえなかった。
 藍がいなくなって静かになった空間に気まずくなりカミュの名前を呼ぶと、すかさずその厚い胸板に押し付けられた。く、苦しい…。



「カミュ、くるし、っ、」
「あまり心配をかけさせるな」
「うえ?」
「こっちの気も知らずに…まあいい。ところで、何もされてないか」
「へっ?」
「美風に何もされてないかと聞いておるのだ!」
「えっ、あぁっ、うん、大丈夫」


 カミュに怒鳴られることはそうそうないので、思わずびっくりして背筋をピンと伸ばす。恐る恐るカミュの表情を伺うと、怒ってなどいない、と頭を撫でてくれる。よかったあ、と声を出して笑うとカミュの手がぴたりと止まって再び胸板に押し付けられた。
 …この人はおれを窒息死させたいのだろうか。んン、と唸るおれに気付いたのか離されてそのまま肩を掴まれるようにして合わさる目線。



「キスを、してもいいか」
「…えぇっ!?」
「ダメなのか」
「だ、ダメじゃない、けど」
「なんだ」
「な、なんで、その…いきなりじゃないかな?」
「不安になったのだ」


 この美味しそうな唇が、俺より他の誰かにつまみ食いされるかと思うとな。
 お、れは食べ物じゃないんだけどっ…!
 火照った頬を誤魔化すために叫ぶように言ってみたものの隠しきれていないのだろう。わかっている、と笑ったその表情は優しい。




「…いいか?」
「で、でも、おれ、初めてだから、なにも、」
「…貴様はただ目を瞑っていればいい」
「えっ、そん―…わっ、」
「シィー…お静かに。他の人にばれても、よろしいのですか?」

 目を瞑ってろと言われたその直後、視界が暗くなった。カミュの大きな手に覆われたのだろう、びっくりして声を上げると耳元で響くカミュの声。突然の営業モードは心臓に悪く、色気を含んだその声におれの口も止まる。
 するぞ?との声に緊張しながらぎゅっと目を閉じた。唇に当たる柔らかい感触。あっという間に消えたその感触に目をゆっくり開くと、笑顔のカミュがおれを見ていた。



「唇が濡れているな。舐めてやっても構わんが」
「!? い、いらないっ」
「そうか、それは残念だ」

 そのまま指で唇をごしごしを拭う。あまり擦るなよ、と言われて動かしていた手を止める。
 そのままカミュを見ると、またして欲しいのか? とかとんでもないことを言い出したので、ぶんぶんと勢いよく首を横に振ればカミュはくつくつと低く笑う。おれはきっと一生この人には勝てない。



「これより先は、また今度…な」

 そう言って妖艶に笑うカミュに、おれは赤くなった顔を隠せないまま口元を手で覆うのが精一杯だった。





fin.

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