bouquet *02 | ナノ
「話、聞いてもらえるかな」
「そのつもりで来たんだ。付き合うぜ」
料理が来るまで、先に話を切り出したのはぼくだった。彼に話したことで、別に解決するわけではないかもしれない。
先輩は全部抱え込むからよ、と拗ねたように言われては、ここまでしてくれたのに今更言わないわけにもいかないだろう。
なるべく落ち着いて、さっきまでの出来事を話し始めた。
「たいした話じゃなくて申し訳ないんだけど…」
「そんなことないだろ。先輩にとっては、あんな顔させるぐらいの出来事だったんだし」
「…ぼく、どんな顔してたのかな」
「泣きそうだった。こっちが不安になるぐらい」
だから、絶対に引き止めなきゃって思ったんだ。会えてよかった。
火神くんをほっとしたような表情にさせてしまうほど、ぼくは切羽詰まっていたらしい。
「一緒にね、生活してる人がいるんだ」
「生活?」
「同居とかいうのはちょっと違って…その人にも家はあるんだけど、夜にはぼくの家に帰ってきて」
「へえ。いい関係なのか?」
「わからないんだよね、ぼくとの関係性が」
まさか嫌いな人間の家に帰ってきて、半同居みたいなことはしないと思うけど。でも嫌いじゃないからといって、好きだとは限らない。気分屋なところもあるし、何を考えているのかわからない。
極めつけは、今日の出来事だ。見せ付けられて、しまった。
隣にいるだけでいいと思っていたのに、ぼくの知らない女の子とライアンが並ぶ姿に怖じ気づいてしまったのだ。ぼくが隣に並んでも、きっとあんないい雰囲気にはならない。
「先輩は、その人のこと好きなんだろ?」
「…ストレートできたなあ。当たってるけど」
「俺、回りくどいの苦手だからよ。でさ、俺バカだから難しいことはよくわかんねえけど」
「ん?」
「好きでもない人の家に帰ってくるなんてことは、しねえと思う」
もしかしたら先輩の好きと種類は違うかもしんねーけど、そんなのよっぽど家が嫌とかいう理由じゃないと考えらんねえし。家があるってことは金に困ってないんだろ? 案外、先輩がそんな不安に思うほどのことじゃねえと思うんだよ。俺の勘だけど。
…すごく簡単なことなのに、火神くんの口から出る言葉が魔法のように染み渡っていく。
「とりあえず、話しないことにはわかんねえじゃん?」
「…そうだね」
「怖いかもしんねえけどさ。俺でよかったらいつでも頼っていいし」
まあ、頼りないかもしんねえけどよ。
そう言って運ばれてきた料理を口いっぱいに頬張り、リスのようにもぎゅもぎゅと咀嚼する火神くんに思わず笑みがこぼれた。
そんなことないよ、と返してぼくも自分の料理に手を伸ばす。火神くんのおすすめで選んだクリームパスタを流し込み、おいしいと言葉がもれる。
だろ?と嬉しそうに笑った火神くんは口の端を汚したままで、変わらないなあ、と紙ナプキンでそれを拭ってやった。
「んっ、すんません」
「いいよ、火神くんに元気もらったから。…今日、話してみるね」
「…おう、頑張れ!」
「うん。ところで、お腹にまだ余裕があったらケーキ奢るよ」
「えっ!? 何個まで?」
「火神くんの好きなだけいいよ」
もう既に日本人で言えば大食い選手並みの料理を食べているというのに、食に関して遠慮のない火神くんに笑ってメニューを差し出す。
先輩も食うだろ? どれ? と瞳を輝かせて聞いてくる火神くんに、どれがいいかな、とメニューを覗き込む。真剣にメニューを覗き込む彼に笑って、ありがとう、と小さくお礼を言った。
「はー、食った食った。ごちそうさんでした」
「おいしかったね。また来ようかな」
「おう! 次はタツヤも呼ぼうぜ!」
「うん。じゃあ、そろそろ…」
「駅までなら送っていいか?」
「構わないけど…別にいいのに」
「いいだろ。次いつ会えるかわかんねえし」
「そうだね。帰ろっか」
火神くんはプロバスケ選手として活躍していて、今日はたまたまオフだったのだという。バスケに励んでいたのは日本にいた頃に知っていたけど、まさか本当にプロにまでなってしまうなんて当初は驚いたものだ。
他の先輩は勿論というか何というか、日本で生活している。
氷室くんがいるものの、先輩らしい先輩で同じ地にいるのはぼくだけなので、少しさみしいのかもしれない。そんな火神くんは可愛いと思うし、言ったら拗ねるので口には出さないけれど。
「あ、じゃあここで」
「おう。もう暗いから気を付けろよ」
「うん。今日はありがとう」
「なあ、先輩」
「うん?」
「拳出して」
駅に着いてから突然の火神くんの提案に、こう? と拳を出せば、火神くんの作った拳が軽くぼくの拳に当たった。
おまじない、と笑う火神くんに、そういえば高校生の時はこうしてみんなと拳を合わせてたなあ、と思い返して懐かしくなる。
ぼくは選手じゃなかったけど、マネージャーとしてこの儀式のようなものは、仲間だと言われているみたいで嬉しかった。それは今も例外ではなく。
「いってきます、火神くん」
「…おう!」
伝わった拳から勇気をもらった気がして、ぼくは今度こそ心から笑った。
「遅くなっちゃったけど、まだだよね」
火神くんにはああ言ったものの、やはり面と向かって話をするとなると腰は重い。
この時間ならいつもぼくは家にいてちょうど晩ごはんを作っている最中なのだけれど、家まであと数分というところで食料の買い出しをしていないことに気が付いた。買い物で荷物もあったし、いったん家に帰ってからでいいか、とも思ったのだ。
この時間にライアンが帰っていることはめったにないし、さっさと荷物を置いてからまた出よう。
そう思って、鍵を差し込んだ。
「あれ? 開かな―」
ドアノブを回しても開かない。つまり、開いていた、ということだ。ライアンに一応合鍵は渡してあるけど、ぼくより早く帰ってたことなんて一度もない。
もしかして、閉め忘れた? どうしよう、何か盗られてたりしたら。と、とにかく中に入って確かめなきゃ。
もう一度鍵を差し込もうとしたその時、音を立ててドアが開いた。
「……よう」
「あっ、ライアン、帰って―わっ!?」
そこに立っていたのはライアンで、それ自体は珍しいといえ何も不思議なことではなくて。突然のことに驚きながらも声をかけると、そのままぐっと手を引かれて抱えられた。
「ちょっ、ライアン?」
「……………」
「ねえ、どうし、っ…」
その間に話し掛けてもライアンが喋ることはなく、リビングのソファに落とされた。軽い衝撃に頭を押さえて顔を上げると、軋む音を立ててライアンが覆いかぶさるようになっていた。
暗くてライアンの表情はよく見えないのに、何となく怖いと思ってしまう。
「…一緒にいたの、誰だ?」
「え? ああ、大きい人のこと? あれは、」
「大きい人ってことは、他にも会ってた奴がいんのか」
「いや、会ってたというか、偶然で、っ」
「へえ? 偶然で、あんな仲良さそうに手繋いじゃって、なあ?」
吐き捨てるように笑ったライアンは、少なくとも楽しそうには見えない。
身体を起こそうとすれば、伸ばされた手に腕を捕らえられる。強いその力に顔をしかめても、それが弱まることはない。
こんなに怖いライアンは、見たことがなかった。開こうとした口はやけに渇くだけで、言葉が出ない。
「…何も言わねえんだな」
「っ、話なら、あっ」
「話って何? そうやって、俺から逃げようってわけ?」
「ちが、うよ…」
「絶対、逃がさねえ…」
「っ!?」
苦しそうな表情のライアンが近付いてきたと思ったら、噛み付くようにライアンの唇が重なった。ぼくの、唇に。驚いた拍子に開いたわずかな隙間から何かが侵入して、口の中を動き回る。
なんで。どうして。
ぐっと腕に力を入れても、ぼくとライアンの体格差じゃ適うはずがなくて。それどころかもっと強く力を込められ、痛さに動きは止まる。
一度口を離したライアンに、もう一度深く口付けられて涙がこぼれた。
「っ…」
「…泣くほど、俺が嫌かよ」
「だめ、だよ。こ、いうの」
「俺のことが嫌いだから?」
「彼女さん、いるくせに…っ!」
ああ、言ってしまった。
驚いて図星だといった表情のライアンを見ていられなくて、でもこぼれた涙を拭う余裕なんてなくて。汚れた顔を隠すように目元を手で覆って、止まれと念じても涙はどんどん出るばかりで。
汚いぼくの泣き声だけが、この空間に響いていた。
「…は?」
「今日、見た、んだ。一緒に、いた、女の子」
「あれはっ―」
「べ、つに、いいよ」
「あ?」
「ぼくを、使っても。でもっ、彼女さんがいるなら、やめるべき、だ」
ああ、ちゃんと話をするつもりだったのに。顔は汚いし勝手に泣いてるし、何をやってるんだろう。惨めで、不甲斐なくて、情けない。
やっと涙を拭いて、目を開けた。酷い顔をしているだろうことはわかっていたけど、ここで泣いていても何も進まない。どうせ、ライアンがここに帰ってくることも、もうなくなるんだから。
深く息を吐いて、呼吸を整える。
今のはなかったことにして忘れるから、大丈夫。
不細工になった顔でも、ちゃんと笑えた。
「…ふざけんなよ」
「っ、」
「あー、つーか俺が甘かった。鈍感だとは思ってたけど」
「なん…」
「とりあえず、もっかい」
ちゅっ、と。さっきとは違う音が響いて、驚きに目を見開いたのはぼくだった。
涙止まったな、と目の前のライアンが笑っている。
キス、されたのだ。さっきとはまったく違う、触れるだけの、すぐ離れたそれ。
「何を、」
「はあ? こっちの台詞だっつーの。こんだけしといてまだわかんねーのかよ」
「だ、だからこのことなら内緒に、」
「だからもういいって、それ。誤解だし」
「は…?」
まだ濡れたぼくの涙だろうか、ライアンの指が頬に触れたかと思うと、しょっぺえ、とその指を舐めるライアンがいた。
さっきはいきなりの出来事に泣いてしまったのに、ライアンの言動にその涙は止まってしまった。頭が混乱して追い付かない。
「だって、彼女さん」
「彼女じゃねえ、仕事仲間だ。探し物してたっつーから一緒に探してやってただけ」
「えっ…」
「で? そっちはどうなんだよ」
「へ?」
「一緒にいた男。彼氏とか言わねえよな?」
まあ、お前の話もロクに聞かなかった俺が悪かったんだよな。それについては謝るわ、わりい。
謝るライアンなんて初めてで、瞬きを繰り返すぼくにライアンは笑っていた。
万が一お前の男だったら潰しちゃうかもな、どっどーん、って。
にやりとした笑みに変わってそう言ったライアンは洒落にならない。
「あ、あれは後輩で、」
「後輩ねえ。手なんか繋いじゃって」
「別に珍しいことじゃ…」
「いつもやってる、みたいな言い方だな」
「いつもじゃないよ。会ったのも久し振りで」
「あー、そういうことじゃねえ」
ここでやっとライアンが上から退いて、ぼくも身体を起こすことができた。やっと座れたかと思えば、また腕を引かれてライアンの胸に飛び込むような形になる。
な、なんか今日引っ張られてばっかり…。
しっかりと腰に手を回されて、耳元にライアンの息がかかる。
「…俺の知らない男と手繋いでるお前見た時、心臓が止まりそうだった」
「えっ…」
「何で、って顔してんな」
「だって」
「好きだからに決まってんだろ」
たった一言。ぼくがライアンと出会ってから、一度もライアンの前では出せなかった言葉。それがするりとライアンの口からこぼれて、ライアンの顔をじっと見る。
その表情は真剣そのもので、冗談を言い出すような雰囲気もなかった。
「これでも結構アピールしてたつもりだったんだけどな」
「だ、だって、そんな、全然」
「もっと追い詰めてからがいいと思ったんだよ」
「おっ、追い…」
「…こればっかりは、自信がなかったもんでな」
手、痛かったろ。ごめんな。
自然と腕を取られて、赤くなった手首に口付けが落とされた。
ライアンがキザなのは知っていたけど、こう、触れ方が優しすぎて恥ずかしいんですけど…!
「順番間違えたけど、お前が好きだ。今更離れるとか考えらんねえ」
「わっ、」
「もう泣かせたりしねえ。大切にする」
「ら、ライアン、」
「これ以上は望まねえ。一緒にいて欲しい」
消え入るような声だった。ここが静かな室内じゃなかったら、聞き取れなかっただろう。抱き締めて、それだけ言うとライアンは黙ってしまった。
ライアンの名前を一度呼んで、やんわりと離れる。
ああ、そんな表情にならなくたって、ぼくがライアンから離れることなんて、ないのに。
「一緒にいるだけでいいの?」
「は…」
「好きだよ。たぶん、ライアンよりずっと前から」
ぼくなりの、精一杯の意地悪だった。口を開けてこんなに呆けるライアンも珍しい。
もう一度名前を呼んでみると、はっとしたライアンがぼくの肩を掴む。
時間にして、数秒だっただろうか。目を合わせたライアンは、さっきとは打ってかわって強い力でぼくを抱き締めた。
「ライアン、」
「嫌だ、聞かねえ」
「ちょ、っと、強いって…」
「今そんな余裕ねえ」
「大丈夫だよ。どこにも行かないから」
「それでも嫌だ。離さねえ」
まるで駄々をこねる子供みたいに、言うことを聞かない。ぼくだって嫌なわけじゃないけど、ライアンみたいな鍛えた人間がぼくみたいな人間を抱き締めるということを考えて欲しい。
耳元に口を近付けて名前を呼べば、やっと抱き締める力が緩んだ。
「今日ね、ライアンにプレゼント買ったんだよ」
「…俺にか?」
「うん、ぼくと色違い。それに、おいしいお店も見つけたんだ」
「…?」
「だから、一緒に行こうね」
意味がわからないと首を傾げるライアンはちょっと可愛くて笑いそうになったけど、ぼくの言葉はこれだけで充分だった。
ぼくとライアンの関係は、これからもきっと変わらない。一緒にごはんを食べて、ぼくの家で過ごすだけだ。
それでも、以前とは確かに違う繋がりがここにある。
幸せってきっと、こういうことだ。
「プレゼント、見る?」
「今はいい。…でも、ありがとな」
「ごはんは?」
「んー、もうちょっとこのまま。いいだろ?」
「…うん、そうだね」
ごはんを作るにも買い物に行かないといけなくて、ああ、洗濯物も取り込まないといけない。やることは数えたらキリがないけれど、何もやらなくていい。そんな気分にさせてくれるこの空間が、今は心地よくて。
閉じ込めていた腕を広げ、ゆっくりと広いライアンの背中に回して目を閉じた。
fin.